_ 所用あって山の上にある東北大工学部に行く。蛇行する坂をバスはだらだらと登る。勾配はきつく、自分が通うわけではないが、冬場雪が積もったらどうなるんだろうと心配になる。
工学部の敷地に入ってから抜けるまでにバス停がむっつある。広い。学際科学国際高等研究センター、未来情報産業研究館を車窓から見送る。みっつめの停留所で降りる。附属図書館工学部分館。磁気共鳴電波実験室。創造工学センター。雰囲気は似通っているのに外観はばらばらの建物が立ち並んでいる。コンクリートで書いた寄せ書きみたいです。
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帰りに丸善に寄る。文庫の平台にレベッカ・ブラウン『体の贈り物』が16冊積んである。既刊のうちでは破格のあつかいで、「なにとぞ読まれたし」という担当者のインフォメーションなのだろうと思い買う。
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夕刻帰宅すると、断片的な、とにかく短いものを読みたくなって一色真理『偽夢日記』と北村虻曳『模型の雲』、森博嗣『アイソパラメトリック』、森博嗣/ささきすばる『悪戯王子と猫の物語』を読む。調子が出たので読みかけのクライヴ・バーカー『イマジカ』の二巻を読みコゲどんぼ『ぴたテン』を三巻から五巻まで読みいきおいで保坂和志『アウトブリード』を順不同に半分読んで文芸な気分になったので『体の贈り物』冒頭の「汗の贈り物」を読み始め、読み終わると同時にどん、と壁にぶつかったように止まった。びっくりした。
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少し前におなじような感触の壁にぶつかった気がする。その手触りをたよりに、そこにコネクトしている記憶をたぐる。ふしぎなことだが、こんなふうに方角がさだかでない記憶を手探りするときには、思い出すのがどれくらい困難か、思い出す前に分かる。探る指の触れる霧の濃さで分かる。今回の対象記憶は時間的距離が近く、タグが鮮明で、たどる指の数歩で行き着けそうだった。
これだ。リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』のなかの「出ていけ」。思い出せたなら「汗の贈り物」と「出ていけ」の繋がりがおのずとおもしろいことを思いつかせてくれるのではないかと期待していたが、かんたんには似ていない。
いつかなにかの繋がりを発見したとき、「以前おなじように繋がっていたふたつのものがあったな」という具合にこのことを思い出すのかもしれない。思い出さないのかもしれない。これはたぶん思い出す。繋がらなくても「まだ繋がってないなあ」と思い出す。
_ 生物はチャンスに反応する物質である。
動物は、チャンスのなかでも特に「一瞬訪れて去る種類のチャンス」に反応する生物である。言い換えれば動物は、「カメラを持った植物」だ。
あるいは世界側から言えば、事象は動物を媒介して機会を焦点化(フォーカシング)する。
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[現在]は世界にとっての、変更の技法であり、生物は世界が[現在]を制作する媒体である。
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植物だったときには、しとやかに流れに身を任せた。たまにおてんばもしたけど、流れるように生き、流れるように死に、流れるように滅んだ。
一瞬を手中にしたとき、跳ねることをおぼえた。
からだが跳ねるときには、心も跳ねた。
憑かれた様に跳ね続けた。
そのうち、心だけが跳ねることがあった。
世界のなかに動物がうまれたときのように、動物のなかに動物がうまれたのだ。
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私達は強くない。賢くない。悟らない。
ずっとは。ずっとのあいだは。
でも、一瞬なら。
一瞬なら強くなれる。
一瞬なら賢くなれる。
一瞬なら悟れる。
一瞬なら、水面を破ることさえも。
自分からさえ跳ね上がることができる。
そして私達は、それを思い出にする。
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世界は美しくない。
ほとんど。
あるかなきかのかすかな美しさを、摘み上げて摘み上げて積み上げてきたのだ私達は。
時には、すべてが美しいと感じてしまうまでに。
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世界を解釈することは、世界に講釈することだ。
世界に美しくあろうとする動機はないし、美しいままに私達を待っているわけでもない。
私達が美しさを発見するとき、それは忘れ去られていた美しさを思い出しているのではない。私達が美しさを忘れ去るとき、美しさはまた誰かが思い出してくれるのをどこかで待っているわけではない。
私達は時折、人類の夜明けの時代に想いを馳せて、最初の詩、最初の音楽、最初のひと言、最初の約束について考える。
いったいこれらの魔法は、どのようにして始まったのか?
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私達にとっての一瞬。
この一瞬。
次の一瞬。
その次の一瞬。
たとえ思い出にもならないありふれた一瞬であっても、それはすべて、もしも人類の夜明けの頃に起こっていたなら、人類史を変えてしまったであろう一瞬である。
長い長い年月を経て私達は、魔法を日常にしたのだ。
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いま行くことができるどこかのうち、もっとも遠いどこかへの旅程は、一瞬である。
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生きることに意味があり、そしてその意味を理解したとしてもなお、死を択ぶ意味が消え去るわけではない。
ただ、きっと、一瞬の余命があれば、生き続ける意味はある。
そしてぼくも、次の一瞬くらいなら、生き続けることができると思うのだ。
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(2002年 9月 二階堂奥歯へのメールより抜粋・一部改稿)
_ ぱでぃさんの多情多根日記(4/10)を読んでいたら、『東京タワー』が受賞した第三回本屋大賞に異議を唱えておられて、「雪雪さんあたりはどう思っているのか、ご意見を聞いてみたいです」って、いきなり自分の名前が出てきてびっくり致しました。
_ 候補作を全部読むという規定を守れそうにないので、ぼくは本屋大賞に投票したことはありません。今回の候補作もほとんど読んでいません(接客のための商品知識は各方面のレヴューから仕入れてありますが)。『東京タワー』も読んでおりませんので、ぼくにはとやかく言う資格がない。
その上で言えることは、書店員はリアルにお客様に接しているがゆえ、「これなら、『おすすめのあれ、良かったよう』と言ってもらえるだろう」という観点が入る。それはプロですからね。顧客満足度を考慮します。ぼくだって「最近なんかおもしろいのない?」と尋ねられたとき、迷わず自分の本年度ベスト1を薦めるかというとそうではない。お客様にとってのベスト1と目されるものを薦められるよう努力します。
そういう慣習は書店員の鑑識眼に微妙に傾斜を付ける。職業意識というよりむしろ職業無意識によって。
本屋大賞でも意識的にか無意識的にか、顧客満足度の平均点が最も高いであろう作品に有利なバイアスが働いたと推測されます(そのバイアスは、ぱでぃさんの推す古川日出夫を支援しないでしょう)。
_ あれあれ? しかし『本屋大賞2006』のレヴューを読むと、ほとんどみんな本気ですねw これは「すでに売れてはいるんだけどそれでもなおもっと売りたい本」だったということなのでしょう。それほどまでに売りたかったと。
すごい力のある本なのだな『東京タワー』。ぼくは涙もろいので、読んだらきっと泣いてしまうと思う。
それにしても受賞作に限らずレヴューが熱いなあ。みんな自分の感性を信じているのですね。「あのヒトに出会えてほんとうによかった!」話を聞いてるみたいな。たまに引いた視線のレヴューがあると、ほっとするくらいで。
いえ、平素は熱いレヴューも大歓迎なのです。けど、これだけそろいもそろって熱いとなんだか呆然としてきます。
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自分の人生に高い価値を置く人は、自分にもっとも影響を及ぼしたものを最高と判定する。
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てへっ。やな奴ですね俺。
いずれにしても候補作を全部読むという規定は暇と金のない書店員にとってはけっして低いハードルではないし、それをクリアするということは志の高さと誠実さのあらわれだと思いますから、その投票結果には尊重すべき価値があると思っています。
_ あ、ぱでぃさんの3月11日の日記に『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の画像が出てますね(話飛んでるし)。
大塚英志『キャラクター小説の作り方』のなかで『まみ』に言及して、これは著者穂村弘の女性人格のキャラクター化でむろん実在の人物ではないという意味のことが書いてありましたが、さいわい今のところ実在しますねまみさん。
ぼくは雪舟えま(まみ)さんの大ファンです。天才だと思います。この世知辛い俺の胸が果てしなくきゅんとするのじゃもの。
『地球の恋人たちの朝食』、ほうっておかないでください本にしてください日本の出版社どこかあ!
あっ。熱いですか、わたくし。
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_ 時代を超越するような達成は、むろん多数に受け容れられません。
ただし、時代を前方に、つまり未来に超越するような作品は、その威力を前借りするようにしてヒットすることがあります。いつか時代が追いつくのを待っているような作品は、いくばくかの説得力をすでに持っているから。
対して時代を上に超越するような作品、つまりどの時代の大衆も追いつけないような作品は、なにか壮大な誤解が支援しない限りヒットしません(逆にどの時代の大衆も追いつけるからこそ偉大な作品、というのもありますけれども)。
_ 人の心を強く揺さぶるけれどもじつはありふれたもの、限られた人の心にしか届かないけれどもこの上なく稀少なもの、多くの人の心を掴みながら孤高でありしかし時代を超えないもの。そういう見分けは場数を踏まないと身に付かないものです。もし誰かが、水準以上の鑑識眼を獲得すれば、その人は必然的に周囲の鑑識眼に不満を抱くでしょう。鑑識眼があればあるほど、その人はマイノリティになります。けれども、もしとある文化が創造できる最高の達成が、多数の支持を得るとしたら、それもまた悲しいことではないでしょうか。鑑識眼の平均あたりを経巡る芸術。
_ 売れもせず、ごく限られた賞賛しか得られなくとも、稀少なものは創られ続けています。それは素晴らしいことだと思います。ぼくの鑑識眼が及ばないものだって、誰かが創り、誰かが享受している。ほんとうにご苦労様です。どうか頑張ってください。遠くから応援しております。いつかぼくの鑑識眼が高々と飛び立ってそこに及びますように。
_ 人は買いたいものを自由に買う。当然自分の心に訴えるレベルのものを買う。誰かの宝が誰かのゴミ。誰のゴミが誰かの宝。
文化の底力はひとえに先端にあるのではなくて、ピンからキリまでのその幅にあるのだと思います。それが豊饒な土壌というものでしょう。現状はけっして悪くないと考えます。ピンからキリまで、ほんっと幅広いですから。ピンキリの尺度も逆転したり戻ったりするし。斬新と思えば復古。進化と思ったら退化。掃き溜めが鶴を産んだり、堕落したら天国に着いたり、昇り詰めたら地獄だったりするんですもの。でも、なんでもありではない。掟は厳しい。
_ STRATTERA [ I have a dream.]
_ 一流のスポーツ選手の筋肉はふよふよとあったかい餅のように柔らかいが、弛緩と緊張の落差こそが筋肉の能力だからであって、心もそうだと思う。
マーティン・セリグマンの作った楽観性と悲観性を判定するテストをやったことがある。結果を線上にプロットするような心理テストでは、楽観性と悲観性をおなじ線の両端に置いて、まるで楽観性の不足が悲観性であり悲観性の不足が楽観性であるかのような扱いになっていることが多いが(そしてぼくはそれが不満なのだが)、セリグマンのテストでは楽観性と悲観性は独立した尺度になっていた。ぼくはその両方が満点だった。これはいいテストだと思った。というか、なかなかいいじゃないか自分、と思ったのだ。極度の楽観と極度の悲観が並存する精神は信頼がおけるように思えて(その見方楽観的過ぎるよ、いい気なもんだと悲観してみたり)。
_ 思考の過程を言葉であらわすには、線形に展開しなければならないし、思考の振幅や陰翳の部分をいちいち捕捉していては散漫になってしまう、だいいち書き終わらない。
考えの半分、つまり東半球とか西半球をきっちり書くことができれば、省略した側もあえて語られなかった部分として伝わるのかも知れないが、書くこと自体がもとより多種多様な省略を伴うので、省略のうち戦略的な省略だけを明示することは難しいし、そんなふうに隅々まで計算できるほど分かり切ったことを書くのは退屈だし無駄だ。
_ 昨日書いた『三度の飯—』は、本屋大賞のことを考えているうちに書けてしまったもので、あんまり関係ない話になってしまったので没ろうかと思ったけど、自分の思考の癖があらわれているので、後から読み返そうと思って残した。
それはそれとしてたいていの人は、思考という名目で、癖や習慣に従って運ばれているだけではないかという疑いをぼくは持っている。自分もほとんどの時間はそうだ。
でも場合によって自分を離れられる人、必要ならば容易ではないにせよ人間であることから離れることも厭わない人に、わずかながら会ったことがある。陽の下にあたらしいもの無し、と言うけれど、だったら陽の下からちょっくら出てみる?みたいな。
賛成! 行こう行こう。
_ 語り得ぬことについて語ろうとしてしまうことがやめられない。
語り得ぬことについては沈黙しなければならないのにねえ。
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とりあえず沈黙しなければならない。
むしろ、沈黙の仕方がわからない。
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語り得ぬことについて二分か三分沈黙することができれば、きっと
語り始めることができる。
_ ぼくは数字が苦手で、電話番号をちっとも憶えられないし、世界史や日本史の年号なんかも自信を持って言えるものはほとんどない。知人たちの誕生日も憶えられない。憶えたと思ってもすぐに忘れる。自分の誕生日はさすがにいろんな連想と結び付いているから忘れないので、「自分の誕生日の月と日にそれぞれ1を足すとあの人の誕生日」みたいに単純なファンクションでたどり着ける場合は例外的に憶えている。ぼくにとって最も忘れてはならない人の誕生日がそういう配剤になっていたのは僥倖であった。
時間も弱い。通常、人間が先験的に携帯している何種類かの体内時計のうち、二個くらいどっかに落としてきたのではないかと思う。近接した記憶も、今日の午前中だったか昨日の午前中だったか俄かに分からなくなるし、昨日の夕食になにを食べたかなどということは、周辺の記憶を論理的に再配列してゆけば、どの夕食の記憶が昨日だったかどうにかこうにか判明するが、投入する知的リソースに引き合わない作業だ。
そういうふうなので、日付についてこだわりがない、というかこだわることができない。女性には私的な「記念日」にたいそう思い入れがある人が多くて、恋愛をしたときなどは、あらかじめ「そういう部分でのマメさを期待しないで欲しい」と断っておかないとデンジャラスであり、断っておいてもデンジャラスだったりする。
日常いろいろとリスクはあるけれどもとりあえず致命的ではないし、日付を疎かにしていても日付の精霊からクレームがついたことはないので、差し当たって安閑としている。この日記も実際の日付からだいぶん遅れて書かれたり、日付を追い越したりしているが書いている本人は気にしていない。
_ 妻が居間で足踏みをしている。ぶつぶつ呟いている。「おなかすけおなかすけおなかすけ」
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妻が、オレンジのひと房をつまみあげて「これって種のためにあるんだよね?」と言う。「うん」と答えると一拍あり、「横取りだー」と言って口に入れる。
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ぷーきぺっきぱっきぷっきぺっきゅ♪ 台所で妻が即興曲を歌っている。意味不明なのに、気持ちがとてもよく伝わってくる。ぼくは妻の歌を聞いてよく笑う、ときどき泣く。
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妻が布団にもぐりこんで開いた掌を振る。
「じゃあねぇぇぇ、るね!」
ねー、を伸ばしているうちに超短期記憶が更新されて、「寝るね」と言い始めている気になったらしい。
_ AokJiJnc [RrpGWAv]
_ 妻はほとんどこの日記を読まない。ほんのときたま、おそるおそる覗いているようだ。
「あなたの文章は目の前がきらきらしてきて読み続けられない。怖くなる」と彼女は言う。彼女は書かれない部分も知っているわけだから、独特の見え方をしているのだろうが、であるにしてもこれは最高の褒め言葉だと思うから、身近にいる大切な人に読んでもらってリアルタイムで感想をもらう、という希望が叶わなくても残念ではない。
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ぼくにも眼の前がきらきらしてきて読み続けられない本がある。アニー・ディラードだ(もちろんアニー・ディラードの水準にぼくは及ぶべくもなく、妻が「きらきらして読めない」ことと、ぼくが「きらきらして読めない」ことは別の意味だ)。邦訳がある四冊とも大好きだが、どれも通読したことがない。適当に開いて読み始めれば、次第に眼の前がきらきらしてきて、たいてい10ページか20ページで胸がいっぱいになって本を閉じる(体調によっては50ページほど読めてしまうこともある)。
二階堂奥歯もこの人が好きだった。アニー・ディラードは奥歯とぼくが共に好きだった作家のうちでも、特別な作家だった。まったくおなじ数ページを宝物のように思っていたから。
ぼくはその部分を、何度も読み返した。「もう何年も前のあるとき、ウォルター・ミリガンが好きだった九つの子供がいた」という一行に始まる、『石に話すことを教える』の158ページから160ページを。彼女もそうだったと思う。
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『八本脚の蝶』のなかで奥歯は、好きな本の一節を引いて自分の言葉を添える、という形式を好んで使った。好きな本についてはたくさん話をしたから、この本のこの一節やあの本のあの一節はどんなふうに使われるのかな、そう思いつつ楽しみにしていた。
そして奥歯の状態が予断を許さない方向へ傾いていったとき、日記の引用は、ぼくにとって砂時計になった。ぼくが知る限りの、奥歯にとって大切な一節一節のうち、引用されずにいるものがまだまだあって、それは奥歯の中で大切に温められているのだろうと思われた。彼女はそれらについて書かずにいられないはずで、砂時計の砂は日々残り少なくなっていくにしても、しばしの猶予はあるとぼくは思っていたのだ。
甘かった。
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そして2003年3月下旬、『信ぜざる者コブナント』を口火として怒濤のような引用が始まる。彼女の言葉は添えられず、ひたすら引用が続く。それは重大な変化だった。
奥歯はまるで、自分の余力を推し量って秒読みを開始したかのようだった。もう言葉を添える余裕はないと思い決めて、大切に温めていた言葉を湯水のように吐き出し始めたのだ。ぼくが頼りにしていた奥歯の心を刻む砂時計は、いきなり加速した。鳥肌が立つほどの速さだった。
離れ去る彼女に追い縋るために、ぼくも加速した。
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およそひと月を経て、4月23日付で『最後のユニコーン』からの引用が続いたとき、それは砂時計のなかに最後の数粒しか残っていないしるしだった。
最後になるかもしれないメールをぼくは、送り続けた。
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4月26日が訪れ、深夜、13階の通路から電話がかかり、しばし言葉が交わされ、日付が27日に変わる前に、それは向こうから切れた。
ぼくは彼女の近くにいるはずのご家族に連絡し、奥歯のことを思い遣る人たちが見ているはずの掲示板に「祈ることができる人は今祈ってください」と書き込み、そして祈りというものが届くこともあることを祈った。
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結局奥歯は、『石に話すことを教える』のあのページを、『八本脚の蝶』のなかに書き留めなかった。
理由はわからない、と言えば嘘になる。わかる、と言っても嘘になる。
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必要があって一枚の書類を捜す。 それは見つからずに記憶にない古い手紙を見つける。 読み返してみて、また忘れると思う。
捜していたことを忘れていた一枚の書類を見つける。 これを捜していたときに見つけた古い手紙のことを思い出す。 どんな手紙だったか思い出せなくて、捜せない。 捜せないとなると思い出したくなる。 見つければどれを捜していたか思い出すだろう。そう思って手当たり次第に捜す。 すると贈り物としてもらったまま、読むのを忘れていた本を見つける。 もともと読みたかった本なのにどうして忘れていたのだろう。 贈ってくれた人を忘れたかったのだろうか。 開いてみると、そこに書かれている文字に見憶えがない。 これは何語なんだろう。
気がつくと読み終えている。 我を忘れて読みふけってしまった。 なにを読んだか思い出せないけれど。
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あなたの家は土台からゆっくりと身をもぎ離し、わたしをあやす。
虹くぐりの岬の西脇腹にあるエプルガーベで下船。四日前の洪水で街は潮染みてべたべたしている。ぱりっと乾いた寝床で睡りたい。鶉三羽で腹ごしらえをして、石畳の道をうねうねと高台まで上りスワッシリキルワン寺院のそばの宿をとる。
見晴らしは悪くない。
岩塩の砕片を撒き散らしたような白い街並は、間近では海風に吹き払われてしまいそうに眼に軽いが、港周辺は濡れたシャツの裾のように仄暗く皺びている。
ウィンジュレーの心身に巣食った文明は新しい発達段階を迎えており、前頭前野にある星都インチェルトハーピを発着点とする間主観航路は、彼の心のなかに存在しなかったくさぐさを許可無く輸入してくる。
景観に異様なところはなく、理性はそう承知しているが、連想され喚び起こされる記憶は憶えた記憶のない記憶。そもそも記憶のコード自体が違っているので、結像の仕方そのものが異質で、得体が知れるようで知れない記憶のゆらぎが視覚に逆流して、景観に刷かれた白や青の色彩がまるで見慣れない新鮮な色に見える。
注視している部分から色が、物体から剥がれて浮き上ってくる。瞬きの加減で色を折り畳むことができる。海の青を目に取り、幾重にも折り畳んで、明度を落とし濃厚にしてゆくうちに空間に開いた群青の穴のようになる。魅入られ体ごと落ちてゆく錯覚に囚われ、はたと我に返る。
「色は視覚に流用されている。物体色は必ず幾許かくすんでおり、それは色彩の陰、あるいは純粋な色彩の想起に過ぎない。色は声であり顔でありしぐさであるが人はその表情を知らない」という着想を得るが、ウィンジュレーにはそれが自分の発想ではなく、色自身からの教示のように思われる。
_ 人間の脳神経系には可塑性があって、どこかが壊れても代替回路ができて失われた機能を補うことがある。神経疾患は、病気になって時間が経つとその補償のはたらきによって症状が曖昧になるので、発病したてのほうが診断がつきやすい。
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読書にもそういうところがあって、物語から衝撃を受ける、というとき、その衝撃は少しく既存の概念を損傷し、概念は治癒の過程で再構築される。衝撃は長くは続かない。衝撃を受けた瞬間にぎりぎり届いた場所から、私はゆっくりと引き戻される。ひとときの賢さは鈍り、ひとときの愚かさは癒える。
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初読時に鮮烈だった本も、時間をおいて読み返すとさっぱり訴えるものがなくて、胸を打たれた往時の記憶を訝しく思ったりする。自分が過去に書いた文章を読んでいて、こんな本を絶賛してしまってどうかしていたのではないかと恥ずかしく思うこともある。
しかし、そういう場合に変わってしまったのは当然ながら私のほうで、本ではない。以前心動かされた本を読んで、今ぴくりともしないとすれば、自分が成長したか鈍くなったかどちらかであろう。
むしろ、色褪せてしまった本は、ゆっくりと化学変化して私を大きく変えてくれたと言えるかも知れない。しっくり身に付いてしまったために、読み返しても当たり前のことしか書かれていないように見えるくらいに。
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自分が変化した時、それが成長なのか鈍麻なのか決めるのは難しい。人間はしばしば、評価の基準ごと質的に変化するから。質的な変化がおこったときはしばしば、それまでの「問題」は状況がそのままであるにも関わらず「問題性」を消失する。
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「なんでこんなことで悩んでいたんだろう?」
私は拍子抜けしながら、それまでの自分を「バカだなあ」と思う。
そのうち新しい眺望Bに慣れるにしたがって、バカだったときの眺望Aを忘れ、いまだに眺望Bに属する人を見て、実感を籠めて「バカだなあ」と思えるようになる。それは眺望A喪失の徴候である。
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眺望Aだろうが眺望Bだろうが、その場所にしか立てないのなら「じっとしていた」と同義である。戻って来れないのなら、旅立った意味も半減する。眺望Aと眺望Bを併せ持つからこそ、そこに落差があり空間があり、動作の自由がある。眺望Aと眺望Bのあいだに奥行きを見出すからこそ、その向こうにある眺望Cへ、あるいは眺望A以前に想いを馳せることもできる。
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どんな眺望に達しても輝きを失わないもの、忘れられないこと、そのようなものだけが大切なのではない。
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色褪せた本。見切りをつけた才能。もう魅力を感じなくなったアイドル。飽き飽きした曲。触らなくなった楽器。脱却したくだらない問題。克服した感情。忘れ去った想いびと。守るつもりだった約束。ご無沙汰の店。読み返す気も起きない自作の詩。仕舞い込んだままの服。かわいくなくなったぬいぐるみ。もはや引くことのない線。
私は自然に陳腐化するものを自然に軽視してしまう。そして二度と戻らない実感を惜しげもなく喪失する。むろん陳腐になりゆくものを引き止めることはできない。あらゆるものを新鮮なままにしておくことはできない。
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けれど感性の力とは、感度とともに可感帯域の広さであろうから、今は陳腐に感じるものが瑞々しかった頃のことを、その実感を、かすかなりとも忘れずにいられるならば、それは感情移入の幅を広げてくれる。
愚かで青臭い過去の自分は、貴重であり豊饒である。それを忘失すれば、「この人も子どもだったことがあるのだろうに」と、思われるような大人になっっちゃうのだべー。
ウィンジュレーは今日も色を割ってすごした。
たとえば紫を、青と赤に割る。なるべくきれいに。
割り切れると嬉しい。たいてい余りが出るけれど。
習い始めに較べると、手際も早さもだいぶ向上した。
もうじき。もう少し上達すれば原色が割れる。
_ (ここを読んでくださっている奇特な方から、「あんたが言及する本がどうも趣味に合うので、もっと紹介しろ」というありがたい御言葉をいただきました。そうですか、それでは散財していただきましょう! よろこんで紹介させていただきます。今日のところはノンフィクションを三連発で)
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著者は「多世界解釈」の代表的論客。日常的常識とは相容れない量子論的世界観を素直に穏当に解釈することによって、じわりじわりと常識を解体し、中盤にしてすでに無限と永遠を一望する驚愕の世界像に到達する。とにかくスケールのでかさは他の追随を許さない。小松左京『果しなき流れの果に』のノンフィクション版と言いたくなる風格。アイディアを徹底的に追い詰めていく手妻はグレッグ・イーガンを思わせ、随所で彼の作品を想起させるのでイーガン副読本としても入ってゆけます。
地道に基本から語り起こしてくれるので、前半は量子論、あるいは科学哲学的思考の入門編としてもおすすめ。
これが古典となり得るかどうかは未知数で、SFのように腐ってしまうかもしれない。けれども、よしんば多世界解釈が時代の仇花として埋もれてしまったとしても、この本の、世界を万華鏡のようにきらきらと回す、めくるめく視野の力は失われることがないと思う。再読、三読に堪える好著。
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(角川のポピュラーサイエンス系では異例のロングセラーですから、いまさら紹介するまでもないかもしれませんが、たとえ100万部売れた本だって100人に1人も読んでないわけだし、この本なんか1000人に1人も読んでないと思うので)
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脳は辻褄を合わせるためならどこまで現実を改変し、意識や判断を操作してしまうのか、ということが学べます。「脳よ、そこまでするか!」と言いたくなります。足元が揺らぎます。フィリップ・K・ディックな気分です。
次々と紹介される奇妙な症例は知的刺激度抜群。ラマチャンドランはいわゆる「実験勘」のある学者で、症状の謎を解明するために、あるいは症状を改善するために彼が繰り出してくるアイディアの卓抜さはまさに快刀乱麻。ミステリの名探偵なみの切れ味です。「おおおおお」読んでいて何度も唸り声が出る。頭いい。かっこいい。無類のおもしろさとは、この本のことかよ。
(刊行当時宮部みゆきさんが、「あまりにネタの宝庫なので内緒にしておこうと思ったら、知り合いの本好きが次から次へと『読んだ?』『読んだ?』『あれ読んだ?』と訊いてくるので、隠しておくのは諦めました。ええい!本年度ベスト1だ!」みたいに言ってました。薦め上手ですねえ)
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続刊として『脳の中の幽霊ふたたび』があります。講演録なのでこっちのほうがとっつきはいい。直接の続編ではないので、邦題は無視してこっちから読んでも問題なし。なお巻末の原注にもセンスオブワンダーに満ちたエピソードが潜伏していますので、お見逃しなく。
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「目が見えないままで生まれて、ある日突然見えるようになったのだったらよかったのに。そうすればそれが何なのかを知らずに描き始めることができただろう」
そういう欲望を語ったのはモネである。
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先入見なしで物を見たいとは、誰しもが思うことだろう。たとえば生まれたばかりの赤ん坊が喋れたら、次々出会う新奇な経験をどんなふうに報告するんだろう? なにに驚き、なにに戸惑うんだろう? そんなことを考えたことのある人は多いと思う。
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本書の筆者は交通事故によって記憶喪失に陥るのだが、これはかなり特異な症例だと思われる。なにしろ、自分がどこの何者か? というエピソード記憶だけでなく、人間であるとはどういうことかという基本的な知識も失ってしまっている。男と女の意味もわからない。親って何で、子どもって何かも知らない。食べ物というものがあり、それを食べないと死ぬということさえ忘れている。甘い、辛いという語彙だけでなくその概念まで喪失している。ところが、言語の骨格だけはしっかり残っており、語彙を学びながら家族や医師や友人らと対話をしてゆくことができ、自分の想いを伝えることができるのだ。
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赤ん坊そのものではないにしても、ほとんど白紙に近い状態で世界に出会ってゆく精神の報告。類書はちょっと思い当たらない。貴重な文献です。
いったいなにに感動しているのか不分明な描写を読み進むうちに、「あっ、あれか!」と気付く。うわー、こういうふうに感じるわけねー、と眼からウロコ落ちまくり本。
_ 「どうして私がこんな目にあわなければいけないの?」
「どうしてこんないい子が死ななければいけないの?」
どうして? 理由はある。
探し求めなければ理由はある。でもその理由にその人は納得しないだろう。癒されもしないだろう。
その理由を見つけまいとして、人は別の理由を探し求める。そしてときには、求めた理由を見つけてしまう。
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「どうして私がこんな目にあわなければいけないの?」
「どうしてこんないい子が死ななければいけないの?」
こういう言葉が、ぼくはこわい。
「あの人こそこんな目にあうべきなのに」
「この子でなく悪い子が死ぬべきだ」
そう言っているのとおなじだからだ。
そう言っていけないと言うつもりはない。おなじだと思えないことがこわい。
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「どうして私がこんな目にあわなければいけないの?」
「どうしてこんないい子が死ななければいけないの?」
そう言ってしまう人がこわいわけではない。
そう言ってしまうことをぼくも、悪いこととは思えないことがこわい。
(もちろん人にそういう言葉を言わせてしまう出来事のほうがもっとこわい)
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言葉は表と裏でひとつだ。
表の言葉を自分に許すとき、人は実感していなくても裏の言葉を自分に許す。
私は立っている星の中心に向かって落ち
星は軌道に沿って星系のなかを落ち
星系は銀河系の回転方向に落ち
銀河系は銀河群を落ち
銀河群は銀河団を落ち
銀河団は超銀河団を落ち
超銀河団はフィラメント構造を引き摺りながら宇宙を落ちる
(ゆるゆると落ちる)
宇宙は超宇宙の中で煮える
(激しく煮える)
城を振り返る
_ 通っていた中学校のある土地は一帯が火山灰地で、天気がいいと校庭は一面真っ白になった。風が吹くと早回しで見る積乱雲のように土埃が湧き上がった。積乱雲が積乱雲を追いかけていった。
微細な土埃は窓を閉め切っていても忍び込んできて、室内の空気をざらざらにした。机の上に指で字が書けた。スキ。靴下の布目からも入り込むので、脱ぐと足首に細かい豹柄の紋様が付いていた。
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夏の校庭に立っているときいきなり夕立がくると、雨滴に蹴立てられた土埃が、校庭いっぱいの幅のひとつながりの波頭となって押し寄せてくる。夕立の類は、降っている場所と降っていない場所が明瞭に分かれるものなのだと知った。
雨脚がはっきり視認できるとなると、追われるスリルも急角度で切迫するので、ぼくたちは悲鳴とも歓声ともつかない声を上げて庇の下へ走った。
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校舎の上階から眺めているときの夕立はいつも、裏門から正門に向かって動いた。前衛が土埃を激しく舞い上げ、そのたなびきを後続が鎮めながら、校庭を左手から右手へ白から黒へ見る間に塗りつぶしてゆく。
眺めていたぼくは思わず眼を瞠った。土埃の汀線という基準線があることで、ふだんは背景に紛れて見えない雨域の前面が、透明な断崖となって浮かび上がってきて、くっきり像を結んだのだ。
その縁は雲となるはずの壮大な断崖。
これほど巨大な地を駆けるものを夢想したことはある。しかし肉眼で見ようとは思わなかった。
息を呑んだ次の瞬間、雲が割れた。
雨の向かう方角から差し込んできた斜光が、雨の断崖にぶつかって散乱した。断崖は砕け流れる水晶の滝のように煌めいた。
光は瞬時に遠景に広がり、燦然たる断崖は校庭の向こうに広がる住宅地の屋根のひとつひとつが、判別できなくなる彼方まで続いていた。
眼にしたものに意識が追いつく頃にはすでに、景色はどしゃ降りのなかでけぶっていた。
他の教室にも居残っていた人がいたのだろう。遠くから近くから振り絞るような驚きの声が聴こえ続けていた。
そして夕立の轟音。
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夕立の前衛はたちまち通り過ぎて行ったにちがいないのだが、記憶の中でぼくは、長いこと立ち尽くしている(あの一瞬が止まって見える)。思い返せば長く思えるほど、いっぺんにたくさんのものを見詰めていたのだと思う。
この景観にすでに幻想の助力が働いているにせよ、それは眼を閉じて空想したものではなく、眼を見開いて視認したものだから、この出来事はぼくの体に遭遇の体験として残っている。眩むような体感として残っている。
今も、解き放った空想が思惑を超えて壮大なスケールに届こうとするとき、走り抜けていった水晶の断崖の記憶が、力では動かないものをぐらりと動かしてくれることがある。
_ 「こないだ反射的な感情は理性で抑えることができない、ということを悟ったわ」
以前、同僚の女性がいきなり言った。寒い冬であった。
_ 公休日であったその日、子どもが突然ぐあいが悪くなり、ひどい下痢で寝こんだという。なにが原因だろうと思ってその日の行動を聞き取りしていると、なんと家の裏の川に張った氷を食べたと言うではないか。市街地を流れてきているから、はっきり言ってきたない川である。
「思わず、ばか!つって手が出ちゃったのよ」
それはちょっと無理はないかも、という気もするが彼女は悔いた。感情にまかせて走る手を止められなかった自分を悔いた、深々と。弱ってるのに。
そこに子どもが泣きながら
「ちゃんと洗って食べたよお」
まさに今、つくづく反省している心のままで、彼女の口は「ばかたれ!」と吼え、彼女の手はふたたび子どもの頭をこっぴどく。
_ 私はこの母親を責めることができない。なぜなら腹痛いから。
_ りょう [はじめまして。 私は「世界は美しくない…」をtwitterでの引用で知り奥歯さんという人を知りました。これは雪雪さん..]