_ 「すごい景色を見せてくれる」SFで、「果てしない巨大建造物の中を延々と旅する」話だ、という評判を聞いて、甚だしく期待しながら弐瓶勉『BLAME!』第1巻を手に取ってみたのは2001年頃だったと思う。
評判は嘘ではなかったが、空間把握のセンスがなく、パースもデッサンも切れがなく、思い切りの悪いふらふふらした線で、描こうとしている風景はすばらしいが高い志に技量が追いついていない。惜し過ぎる、という印象だった。2巻に入ってもさほど成長の兆しが見られなかったので、脳内でチェック済みのマークを付けて、ひとまず忘れた。
しかし、その後も「要チェックだぞー」という囁きを伴う評言に幾度も出会うものだから、見切ったつもりがぶり返すものがあり、2003年にあらためて手を伸ばしてみたときにはすでに完結していて、そのとき勤めていた書店の棚には全10巻のうち最後の二冊しかなかったからぼくは9巻を開いたわけであるが驚いた。1、2巻の頃とは別人になっていた。昔の面影はなかった。才能じたいが変容していた。
主人公霧亥は、すさまじく長い旅程を歩むわけであるが、作者弐瓶勉も、この作品において出発点が消失するほど長い旅程を踏破した。
他の書店や古書店を巡り歩いて、6、4、1、2、8、5みたいな感じで手に入った順に読み、その合間に入手済みのものを順不同に読み返した。7巻だけがなかなか見つからないので残しておいた最終巻10巻目も読んでしまい、7巻を除いた9冊を何度も読み返してから最後に7巻を読んだ。こと『BLAME!』に関しては、こういう読み方で正解だったと思う。弐瓶勉のマンガは、始まりから終わりに向かって次第に謎が解けてゆくわけではなく、全体に曖昧なホログラフィが、次第に鮮明になっていくように推移するから。スタートがおぼろであるほど楽しめる。
ちょっと興味あんだけど『BLAME!』ってどうよ、と思っている方には9巻から入ることをお薦めする。今が未来で、9巻しか現存しておらず、前後の脈絡がなかったとしても傑作である。SFの芭蕉光瀬龍が、もっとも純粋に蒸留してみせたあの壮大な寂寥の再来。もし入手困難な時代に、9巻を読んでいたら、ぼくは狂おしく残りの巻を捜し求めたことだろう。
それにしても不親切なマンガである。全編を読み終えても無数の謎が残る。それはむしろ欠点ではなく魅惑なのだが、ここまで読者を置き去りにするマンガが、よくぞ10巻くんだりまで続けさせてもらえたものだと思う。
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むろん外部からの様々な刺激を吸収してもいるだろうが、弐瓶勉は、みずからを師として成長してゆくタイプだと思う。自分が見たいものを見せてくれるマンガ家として、自分がいるのだ。描きたい画に展開は従属し、描き得た画に刺激されてそれを踏み越えるように次の描きたい風景が生まれ、遠望されるいつか描き得る風景に向けてストーリィは偏光せられ反射せられ散乱せられる。『BLAME!』においては、3〜6巻、東亜重工にまつわって展開する一連のシークエンスが、作者自身を開花させてゆく様がめざましくも心地よい。加速度を感じるほどの作者の成長じたいが読み処である。序盤の背景「生電社」は通過点であったが、中盤の背景「東亜重工」は、作中の設定でありながら弐瓶勉の師匠であった。
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それ以来、弐瓶勉の新刊が出る日は特別な日である。年季が入って枯れてきたぼくのような本読みにとって数少ない、発売日を心待ちにし、出れば歓声を上げ、即刻買って即刻読む作家である。だって、いつも特別なことが起こっているのだもの。
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描きたいものを轟然と描き継いでゆく弐瓶勉の世界は当然偏っており、(基本的に)甘酸っぱいロマンスはなくほろ苦い青春はなく性愛のぬかるみはなく余暇はなく娯楽はなく趣味はなく芸術はなく、キャラは笑わないし嫉妬しないし冗談を言わない。そういう世界で、遠洋の暗礁のように、ふいにあらわれるありふれた風情は、異形のけはいを漂わせる。それは葬儀の静粛のなかでお経をとちる坊主のように危険だ。ここは笑うところか? みたいな抑圧と逡巡に似て。
たとえば『アバラ』全編においてたった二度、キャラクターが声を出して笑う。笑いのない世界にいきなり挿入される笑声の衝撃。かつて笑い声に感じたことのない情状が漂い、親しい人の予想外な裏面をチラ見したときのように、いきなり心のなかの季節が変わる。たんにキャラが笑うだけでだよ。
あるいは『BLAME!』9巻の終わりに登場する空洞観測者は、孤島の釣り人のように、飄々たる趣味人の風情を漂わせていた。それじたいはなにも斬新なことはないが、『BLAME!』の中では屹立する存在感を持っている。登場シーンが10ページに満たず、呆気なく退場し、それっきりのキャラなのだが、『BLAME!』全編を挫折せず読んでその上で、この端役を忘れる読者はいないだろう。
それもこれも、弐瓶的世界にあるときのみ限定の、珠玉の名シーンである。
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「時々、自分でもこんな絵を描きたいと思う絵に出会うことがあるが、弐瓶氏の絵はまさにそういう絵だ」これは近作『アバラ』の腰巻に見える、諸星大二郎の賛辞である。
弐瓶の画力はペンの力だけでない。斬新な表現技法を次々と創出する。『アバラ』では、常態では書き文字であるオノマトペが時折り活字体になるのだが、これはキャラが音速を超えて行動していること、つまりオノマトペが音写ではないことを表示している。
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現在進行中の『バイオメガ』は、最新刊第4巻で、めくるめくワイドスクリーンバロックの域に突入した。佇立するヴァン・ヴォクト構造体に、クリス・ボイス航宙機が斜めに突っ込んできた感じである。これでひと安心。
これでもう(ヴァン・ヴォクトが大好きで、このほど『非A』の続編を書くことになったというジョン・C・ライトの)間延びした『ゴールデン・エイジ』から、蟹の殻の奥の身をほじるようにいじましくヴァン・ヴォクト成分をつまみ食いしなくともよいのだ!
_ 復刊ドットコムで、500件を超える復刊希望コメントが付いたジュリー・アンドリュース『偉大なワンドゥードルさいごの一ぴき』は、いろいろ困難な問題があったらしく復刊企画が伸び伸びになって、昨年から発売予告が何度も延期になっていたが、6月下旬発売は間違いないようだ(追記・その後6/12発売と告知がありました)。
偉大な児童書さいごの一さつ、というのはもちろん大袈裟だが、復刊の待たれ方では文句なく最強の一冊。
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訳者が岩谷時子から青柳祐美子に、邦題は微妙に変わって『偉大なるワンドゥードル最後の一匹』になった。
脚本家である青柳氏は訳者としての実績はほとんどないと思うが、もう一冊だけある訳書がシルヴィア・ブラスの『ベル・ジャー』。二冊しかない訳業が『ベル・ジャー』と『ワンドゥードル』というのは、きっとあてがわれた仕事ではなくて、本人の強い願いが働いているのだろうと思う。この二冊は対極的な二冊であって、どちらか一冊を訳したというなら「そうなんだー」くらいのものだが、二冊を訳したとなると、切ない気持ちが湧いてくる。きっと、打たれ弱いのに強い意志を持ってしまった人なのだ。
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ぼくは本を読む子どもではなかったので、大人になって『ワンドゥードル』のすごい評判を聞き付けたときにはすでに絶版だった。小学館からプルーフが届き、やっと読むことができた。
想像力の持つ力、その大切さ、そしてその養い方。作者の伝えたかったことはそこに尽きると思う。作者はみずからの想像力で、その力を証明しなければならないわけだが、それは成功しているので、子どもが夢見がちな大人になっても構わない人は、子どもにプレゼントするとよい。ジュリー・アンドリュースは、児童文学作家を本業にしていても偉大な作家になっただろう。
ぼくはこの本に書いてあることはすでに学んでいたし、忘れるつもりもないので、ぼくはこの本に待たれている読者ではなかった。子どもの頃に読んでもそう思ったと思う。子どもの頃は想像力を信仰していたから。
この本が、相応しい読者に読まれることを願う。
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ぼくのお気に入りキャラはオインクだ。『ドリームハンター』のナウン、『ブレスオブファイアⅣ』のマスター、『バベル17』のブッチャー、『インディアナ、インディアナ』のオーパル。
独自の論理でストレンジな発語をするキャラに目がない。
青いまま収穫されてしまった果実のような、眼の裏に沁みる、すっぱい論理。
_ 最近はヘヴィメタルやハードロックのトピックスを逐一追いかけたりしていなかったので、そんなことが起こっているとはちっとも知らずにいた。
けれども街角でその曲が流れ始めたとき、すぐにエイジアだと分かったし、まだやってるんだなあという緩慢な感慨に浸ろうとした想念の肩口はいきなり摑まれて振り向かされた。まさかまさかまさか。まちがいないよこの音。
スティーヴ・ハウのギターがエイジアに戻ってきたのだ。
音楽はのべつ聴いているけど、肥えてこないし磨かれもしないぼくの鈍い耳でも、この人の指遣いだけは、誰のアルバムでどんな曲をどんなギターで弾いていても聞き違えることはない。
ぼくの音楽を聴く耳は、スティーヴ・ハウの音によって目醒め、繭を食い破り、外気に触れた。
ギターを弾くために生まれ、幸いにも生まれた世界の生まれた時代でギターが待っていてくれた人。三重の幸福。スティーヴ・ハウの幸福とギターという楽器の幸福と、そのふたつの幸福を垣間見るぼく自身の幸福。
昔開いた扉がまた開いて、ぼくの心を吹いていたことがある風がまた吹き込んでくる。
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_ 須原一秀の『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』(新評論)は、ここにいながらにしてふと遠くに行ってしまうような人には必読の名著であるが、限られた層の男性限定の軽薄な自己啓発本としか思えないタイトルが災いして、読まれるべき人にはほとんど読まれていないのではないかと思う。
すごく大切に思っている本を失くしてしまったとき、買いなおさなくちゃと思い、でもいつも欲しい本があるから買いそびれているうちに買い逃してしまうことがよくあるが、もしもこの本を失くしたら、ぼくは迷わず即決で買い直す。かわりになる本がなく、この本が手許にないと困るからである。
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客としてうちの店にきて、その時期展開していた「みどり書房おすすめ」というコーナーの前に立ち、そこに並んでいる20点ほどの本が発する気配がただならないというのに、知っている本が一冊もなかったので、「まずい、ここで働かなきゃ!」と思ったという今は同僚であるIさんに、『弱腰矯正読本』を見せてみた。
ぼくが開いて渡したところを読んで、「わっわっわっ」と言った。「この本何冊あるんですか? 一冊? どうしよう欲しいです、すぐ読みたいですわたし買っちゃっていいですか?」そう言いながら、本を抱いて後ずさりしていった。
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この本は、論旨じたいも斬新でおもしろいのだがこの際それはさておく。最大の魅力は、例証として引用されている、ここではないどこかにいざなう魔法のような事例の数々なのだ。これは須原氏が哲学講師として学生から集めた膨大な「意識が変成する経験」の報告から抽出されたもので、つまりは以下のような体験談がたくさん載っているのである。
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【事例1】僕が小学校3、4年生の頃、家に唐草模様の入ったガラス窓があって、それをずーっと見つめていると、ガラスの模様がだんだん大きくなってきて、目の中に飛び込んでくるのです。それが波紋のような感じで、ビシビシと体の中に入ってきて、体がガクガクふるえているような感じになってきて、目の前が真っ白になりました。その感じが、怖いのですが、とても気持ち良く、やみつきになり、毎日ガクガクとなって遊んでいました。
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【事例3】保母をしている母から聞いた話です。ある三歳の女の子がガラス窓に右手を突きこみました。しかし、彼女の手から一滴も血が流れず、指の骨がきれいに見えていたそうです。彼女は相当の痛みだったでしょうに泣き声ひとつあげず、じっと自分の手を見た後、突然、隣の窓ガラスに再び突っこみ、直後に大泣きして病院に運ばれていったそうです。
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【事例9】小学生の時、タイムマシーンについて考えたのだ。私が将来タイムマシーンを作る。作り方は未来の自分が過去に戻って教えるのだ。だから作れる。教えている自分は、もちろん過去に作ったことがあるから、作り方を知っている。だから、過去に戻って教えることができる……だから、教えられて作る……これは論理的には成り立つ……したがって、この堂々巡りの輪の中に入ればいいのだ……
そんな事を考えていると、いつのまにか私はドアを飛び出して、無我夢中で走っていた。未来の自分が待っている、というような気がしたのは覚えているが、気づいた時は大阪湾沿岸の消防署にいた。夜の10時すぎにパジャマで走っている子供だったので、無論保護され、パトカーで家まで送ってもらった。
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【事例14】小さいころ、寝る前に気持ちを集中して、「そっち」の方へもって行こうとすれば、いつも変な感じになることができた。
「そっち」というのは、今ではそうなれないので、どちらの方向とも説明できないが、あの頃はその気にさえなれば「そっち」の方へ行けた。
その感じはどんな風だったかと言えば、少し記憶があり、口の中や頭の中にすごく広い空間を感じることが出来、また急な階段をすごいスピードで走り降りて行く感じでもあった様な気がする。
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【事例31】幼い頃、私は雨を見ていると、何故かそれに体が引きこまれていったことを覚えている。もちろん、私はびしょ濡れになる。そんなことは分かっていたことなのに。後には不安が残った。「私は何をしているの。どうして? どうして?」と何度も思っていた。
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【事例43】小学生の頃だったと思います。私は「お」と「む」という文字をみると、なぜかそれがむにゅうーと動いているような気がして、いつも面白がってじーっと見ていました。
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【事例54】二年前の夏にカナダで、オーロラを見ました。その美しさに声も出ず、無宗教なのに、「神様、私はいい子になります」と誓ってしまうほど感動して、オーロラが踊るのをずっと見ていました。
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【事例56】去年の夏休みに長野県の学生村に行きました。夏休みも終わり近くになり、ほとんどの学生が帰ることになり、その前の晩に、湖のそばでたき火をして、お別れ会をしました。私の好きだった一人の学生が、格好よくギターの弾き語りをしたり、みんなで合唱したりしました。
その時初めて「火が赤い」ということが本当にわかったのです。火って本当に赤いのです。それは燃えるように赤いのです。それが分かった私がすばらしく、誇りを感じていました。
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こういう事例のどこがどう「弱腰矯正」に繋がるのか疑問の向きもあろうが、これがまたストレートに繋がるのである。非常にベイシックなレベルで元気が出る本だ。
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『弱腰矯正読本』に先立つ『超越錯覚』(新評論)でも、つづく『<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組』(新評論)にしても、須原氏はいつも独創的で新鮮な(うかうかとは頷けない)視野を提示してくれるのだが、今年はじめ、これまでに増して圧倒的に独創的な本が出た。
その本、『自死という生き方』(双葉社)が出るまで、ぼくは2006年に須原氏が亡くなっていたことを知らないでいた。自死と知って、一瞬「えっ?」と思った。好奇心に溢れ、生きていることが楽しくて仕方がない様子が、行間から滲み出てくる人だったから。
らしくない、と思ったのだが、本を開いて、開いた口がふさがらない思いとともに納得した。哲学者に残された数少ないフロンティアとして、「明朗に、平常心で、みずから死を選ぶことは可能か」というテーマに挑戦した結果としての自死。そしてそのリポートとしての一冊の遺書。ほんとうに須原氏らしい。
死さえも楽しもうとする態度をいっそすがすがしいと感じる人もいるだろうが、断じて受け容れられない人も必ずいるだろう。須原氏の本はいつも、この種の「断じて」に向けて書かれていて、その意味では書かれなければならない本だったのだと思う。
文字通り命を賭けて書かれた本ではあるが、読者の心を撃ち罅を入れるような激越さはなくて、ありふれたエッセイのように気軽に読めるところが物足りなく、その物足りなさがとても素晴らしいと思う。戦慄すべきテーマを真正面から扱って、鳥肌すら立たせないところが見事だと思う。
_ kyokyom [雪雪さん、こんにちは。はじめまして。 以前から記事の更新を楽しみにして拝見していました。 特に本の紹介記事が大好きで..]
_ 雪雪 [kyokyom さんはじめまして。 自分が好きなものを好きな人を増やすために書店員をやっているわたくしとしましてはた..]