_ 加藤直之の画集をぱらぱらめくっていたら、「あるときアルマ=タデマに出会い、『求めていたものはすべてここにあるじゃないか』と思い、以来見かけるたびに洋書の画集を買い込んでいた」、というようなことが書いてあって、ああわかるわかると思った。加藤直之とアルマ=タデマには似通った静けさがあるから。
それは、人間も興味深いかたちをした静物にすぎない、という描き方が共通しているからかもしれない。いわばキャラの立つところがない画。アルマ=タデマは確信犯的にそうであり、加藤直之は心ならずも資質的にそうなってしまう、という違いはあるかもしれないが。
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心がからっぽになるような本がいい。
音に音が重なり混沌とした喧騒を生むように、静けさに静けさが重なり、いつもはばらばらな職分を果たしている心の部分たちが動きを止めて、ひとしなみに透明になり、水の隣にいる水のように、境界が消える。
やめることのできる働きをおよそやめたからっぽの心に、ひとつのことがらを投げ込めば、ひとつのことがらを、もっとも大きく考えることができる。
思い付かれたことは通常は、口コミのように時とともに心に広がってゆき、その思い付きを聴き付けるべき心の部分を、すこしづつ変えてゆくのだが、静まり返った心の中では、近くから遠くまでの無数の耳が、いっせいにそばだてられる。
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散歩するたのしみのひとつは、読まれるために描かれたわけではない風景を読むたのしみだ。エマニュエル・ボーヴ『あるかなしかの町』(白水社)は、パリ郊外の一画を坦々と描いてゆくのだが、本よりも風景に似ている。人も、たまさか人の内面に言及されるときも、とある所番地を持って建っているもののように、歩くごとに視界にあらわれては去る。人間であることをすこし失念して書かれた文体。人間であることを幾許か忘れて、その分思い出されてくるものも、所詮は別様の人間であるにせよ、それは新鮮である。新鮮ではあるが、斬新な切り口を「狙う」ときの息遣いの乱れもなく、ただ、家の隣に家が建つように、置かれるように書かれ、眺めるように読まれる。
とても静かだ。
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感動とは心が動くことだとすれば、新鮮な感動とは心の、動くとは思っていなかった部分が動いたことへの驚きである。ここが、こんなふうに動くのか、という驚き。
そして心が動くこと掻き立てられること揺さぶられること、それとは対照的に、鎮静することの驚きがある。
明識的な心のはたらきは無数の、暗黙のはたらきに支えられている。常に漂っている臭いを鼻が感知しなくなるように、暗黙の働きは常時働いているからその作動を私は感知しない。それが作動している状態が私にとっての静寂であるから、もしもそれが鎮静したなら、静寂以上の静寂が訪れる。無音の状態の中で、音がやむように。
心の、動いているとは思っていなかった部分が止まることへの驚き。
ここが、こんなふうに凪ぐことができるとは、という驚き。
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こういう本を、人によっては退屈な本と言うのかもしれないし、こういう本ばかり読んでいたらぼくも退屈してくると思うが、さいわいここまで静かな本は探し求めて千冊読んだなかに一冊あれば僥倖というくらいには稀少なので、現状では退屈する気遣いはない。これ以上増えもしないだろう。心の動く方向は無数にあり多種多様なヴァリエーションを創り出すことができるが、心の止まる仕方はひとつだからである。
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ロラン・バルトの『偶景』から、生臭さを抜いたような本があればなあ、と思っていたが、やっと出会った。
_ ヘレン・ケラー『わたしの生涯』(角川文庫)を検索して、出版社品切の表示を見たときはぎょっとした。その後在庫ありに戻って、ひとまずほっと胸をなでおろしているところです。
ヘレン・ケラーを知らない人を探すのは困難だと思うが、この自伝を読んでいる人を探すのも容易ではない。ぼく自身、ぼくが薦める前にすでに読んでいた人に、まだ出会ったことがない。
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ぼくは誰かのレヴューを読んで、読んでないのに読んだ気になって安心してしまうことがあるのだが、その轍は踏んでもらいたくないので、できるものなら、なんだかよくわからないけど、なんか読まずにいられないように書きたいと思う。
ヘレン・ケラーは、聴衆を前に、声によって講演することができるほど音声言語に熟達した。眼が見えず、耳も聴こえない人が、どうすれば声で話すことを修得できるのか。その方法を想像できますか? ファンタジィでもないのに。
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似たようなメッセージを伝える様々なエピソードのあいだにも、力の差がある。象徴的と言えるくらい力強いエピソードは大切だと思う。
ぼくはヘレンの語り出してくれた体験に非常に多くを負っていて、まだ種子の状態だったいくつかの着想が、『わたしの生涯』を読んだ後、いくつもいくつも芽吹いた。だからぼくが、話したいことを好き勝手に話してしまうときには、『わたしの生涯』の中から拾い上げたエピソードを、何度も引用してしまう。
眼が見えず耳も聴こえない人の語る、太陽、風、雨、言葉、愛。成長の仕方さえ発見しなければならなかった人による洞察。たとえば私が、洞察ということを始められるときにはすでに通り過ぎ忘れ去ってしまっていた過程への洞察。
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そののち、芽吹いたものたちは枯れずに、大樹となって繁った。この日記を書き始めてからいつも、いつか『わたしの生涯』のことを話したいと思っていたのに、なかなか書き出せずにいたのは、いまだにこの本が、ぼくの中で成長を続け、変わり続けているからだ。
たとえば映画や舞台の『奇跡の人』ではクライマックスである有名な井戸のシーンは、この本ではごく序盤に登場する。ここは確かに比類ない名シーンであって、響き渡り木霊する音のように認識が広がりゆく想いがするが、このシーンの前後に、人形についてのささやかな言及があって、状況に絶妙な陰翳を加えている。初読のときには、感動的なシーンに高揚した心の勢いのままに背負い投げを食らった気がした。“言葉の力”についての、思わぬ角度からの触発。稲妻のような洞察とはこのことかと思った。なにせ洞察が鋭角に折り返すのだ。
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ヘレン・ケラーはすさまじい読書家だった。まだ自分より本が好きな人に会った事がない人のほとんどは、『わたしの生涯』のなかで、自分より本が好きな人に出会うだろう。
第一部「暁を見る」の21章「私の理想郷」のなかで、ヘレンを決定的に本の世界に引き摺り込んだ『小公子』との出会いが語られる。細部がすばらしく、ヘレンのわくわくと浮き立つ心が、我が事のように伝わってくる。ここで本好きの心の琴線が掻き鳴らされる音をメロディにしたら、さぞや艶やかに響くだろうけれども、このシーンの終わりがぼくには、情けないくらい胸に迫る。求めるものがそこにあるのに届かない、捻じ切れるようなもどかしさに鷲掴みにされて。
この本の前半部「暁を見る」の部分は、新潮文庫にも『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』として収められているので、おなじシーンを異なった翻訳文体で読むことができる。何度読み返したか知れないけれども読み返すたびに泣いてしまうこのシーンを、新潮版で読むとほろりともしない。自分にとって比類なく力のあるエピソードであるのに、エピソードとしてはおなじであるのに、文体によってこれだけ印象がちがうことがまた印象深いことであった。
そういうわけで新潮版をレジに持ってくるお客様がいると、まことに僭越とわかってはいても、どうしても『わたしの生涯』をお薦めしてしまう自分を抑えることができないのです。すみません。
新潮版もけっして悪い訳ではなく、「むしろこちらの方が詩的で好き。角川版は古臭い」という人もいることを付記しておきます。
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『わたしの生涯』から窺えるヘレンは、たとえようもなくポジティヴだが、それは半面にすぎない。たとえば「濁流を乗り切って」の8章「いちばん古い友だち」の中で、アレキサンダー・グラハム・ベル博士はヘレンに対して、「恋愛をしなさい」と、しつこいくらいに語りかけてくる。その言葉をヘレンは、大切そうに丹念に再現するのだが、自身の恋愛の具体的なエピソードについてはごくさらりと触れるだけである。
この本は、予備知識なしに通読したときの印象よりは複雑な本だ。
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ヘレンにとっていちばん馴染み深い対話法は、掌に書く指文字だった。彼女は道を歩いているときしばしば、せわしなく人差し指を動かしていたという。それが、彼女にとっての、考え事をしながらぶつぶつと呟く独り言だったのだ。
Before...
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