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雪雪/醒めてみれば空耳

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2003-08-04 アドバイス

_ 薄井ゆうじの『くじらの降る森』の文庫本を100円で買う。

以前単行本を書店で開いてみたとき、目に留まった一節があって、それがふとした拍子に浮かび上がってくるので、気にかかっていた。

_ 「珊瑚礁でコインランドリーを探したことがあるかい」

_ これは答えるに足る問いだと思っていたので、こういうことが、もっともっと書いてある本だという期待を勝手に抱いていたのだが、答えなんか書いてなくて、本のなかでもこの一節はふわふわと浮き上がっているのだった。

_ ぼくの心のなかに住んでいる人が、箱のなかから顔をのぞかせる。縁に両手をかけて、頭に蓋をななめに立てかけたまま、ちいさな声で話す。

「珊瑚礁は知ってるし、うまいことにコインランドリーも見つかるんだけど、そういうときに限って洗濯物がないんですよぅ」

眼を伏せたままそう言うと、その人はまた箱のなかに引っ込んで、なかから蓋をきちんと閉めなおす。


2003-08-07 叙景集

_ 285

死なないからもうそこらじゅう不死鳥だらけで

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_ 286

消失点まで続く布団部屋で、へとへとになるまで遊んでいるうち、おとなになったやつから眠るしきたり。

.

_ 287

流れ星がひとつながれ、山の中腹に集落のように見えていた灯火の群れが、落下点を目差すようにいっせいに動き始めた。

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_ 288

副作用でまばらになった母の髪のあいだを、赫い蟻が歩いている。

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_ 289

刻まれる葱の香で覚める浅い眠り

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_ 290

縁側からサンダルをつっかけて雨の庭に出る。

すこし肌寒いけれど、空は晴れ渡って雲ひとつない。

父がフランスから採取してきたバイヨンヌの秋の霧雨、もう降るばかりになっているところを三株摘んで折り畳んだ雲のまま持って上がる。

「こんなふわふわして抽象的なものはおみやげとは定義できない」はじめそう言って固辞する客を、(率直だわ)と思いつつ見る。


2003-08-08 叙景集

_ 291

忘れていった眼鏡の後ろに、最後の表情が付着している。

.

_ 292

つんのめるように下る石畳の道は白亜の家並みのあいだを縫ってそのまま海に沈むと、ほつれたがる縄のように水の下で揺らぎながら入江を渡って、向こう岸でまた上り坂になっている。

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_ 293

鳥についばまれる雲の泣き声

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_ 294

折り目のある半月

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_ 295

川のなかに立ち尽くしている六つ子に通りすがりの小舟が道を尋ねる。

六つ子はてんでにに別のことを言うのだが、なぜか声はそろっている。

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_ 296

「これが賢王アイトールウイススの城墳、プシプラン・ジナイドです」

ペイユーユの血が混じった白髪の案内人は淡々と話す。窓も並木も噴水もすべて、きらめきもゆらぎもしないただ一色の、手の込んだ墓標に向けて、取り払うように手を振りながら。

「ご覧になるのは自由ですよ。ただし内部には入れません。これは城ではなくて、城の彫刻なので」


2003-08-09 叙景集

_ 297

水面を剥いで物干棹に干す。

縮まないようにぴんと張って、端を固定しておく。

やがて水分のない水面だけが残る。

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_ 298

「どうして俺ばっかりこんな目に会わなくちゃいけなぃの?」

両隣に愚痴ってる、ぐにゃぐにゃのガードレール。

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_ 299

◆案内◆

産道を出たら自分で臍の緒を切って、すみやかに右に進んでください。後がつかえています。

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_ 300

帰ってくるなり息子はテーブルを挟んで切り出す。

「相談に…」走って帰ってきたのか息が「…乗ってほしいんだ」整っていない。

ランドセルの中から大切そうに取り出した一冊のノートを、テーブルの上を滑らせるように差し出す。考古学の助手が現場で使うような地味なノート。

「こんど宗教をつくるから、パパにも手伝ってほしいの」

私の眼を見ずに話す息子の顔から、表紙に眼を落とすと、ひと文字書くのに十秒はかかったと思われる文字で

『ぼくの教え』

とある。

.

_ 301

高尚すぎてどこが辛いのか理解できない地獄


2003-08-10 物心がついた水

_ 「思考の途上」という意味の名前の友人がいて、本人と名前がしっくりしている。

その彼が突然、木漏れ日が地面に落とす影のうつろいなどについて、滔々と語りだす。

「自分は詩人ではない」と言っていたのに。嘘ではないか。

.

触発されて、今日は自転車で外へ出る。川の流れをしるべに河岸遊歩道を海に向かう。

上り下りを繰り返し、とある上りのてっぺんではじめて水平線が眼に入ると、俄然元気になって立ち漕ぎを始め、我に返るとすでに砂浜に突っ込んで立ち往生している。

.

北の空を背景に、巨大なガントリークレーンが二基、おたがいを意識しあう鹿毛の馬のように立っている。その足許まで延々と続く砂浜に、薄く青い海の刃が寝かされ、みずからを研いでいる。

,

自転車を転がしておいて、波打際ぎりぎりのところまで歩く。

去って行ったばかりの台風のなごりで、上天気のもと波が高い。波頭がたびたび水平線を隠すくらいに。引かれたら戻ってこれない波だ。

海水は自分がどこから来たのかを忘れどこへ行くのかも知らず、うつらうつらしているが、波打ち際から50メートルほどの沖で、ふと目覚めて身じろぎする。三角波の細かな影模様のなかに、大きな影が身をもたげる。ときには一瞬白く砕ける。

遠くから旅してきた海水は、その位置で陸に気付くのだ。

「陸だ」「陸だ」という伝言が横並びに受け渡されて、海水たちは眼をひらく。そして息を詰めて波となる態勢を整える。

.

波が生まれるのは、海底との摩擦で減速した海水に乗り上げて海水が追い越し、空気に触れていちばん身軽な海水がまたその上を駆けてつんのめるからだ。

海水は固体と気体のあいだに滑り込むとき、自分が液体であることを悟る。

足で浜を蹴り頭を風に突っ込むときだけ、息を合わせて踊ることができる。

波打際は、いくら見ていても飽きない。典型的な波打際を眺めることができる環境とサイズに生まれて幸運だと思う。

.

空を見上げれば、空の水と風が打ち寄せ合って、波打際が雲の表面になって踊っている。

空の水はまだ、ちょっとぼんやりしていてテンポが遅い。そこがかわいい。

.

ときおり心がどこかの浜辺に到達すると、心は波立って自分のなかにのめってゆき、砕けて自分のなかから逃れてゆく。心は水だということを、心が悟る。

水のなかを流れる水のように、心は心のあらゆる部分に触れようとする。

そして触れることができると知る。

あらゆる部分があらゆる部分から、離れることもできると知る。

.

とある波打際で、ふと、波のうちのひとりが、浜辺に立っているなにものかに気付く。


2003-08-11 叙景集

_ 302

墓石の前のコップ酒に、落ちてふるえるちいさな虫を、カラスがついばんで飛び去る。

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_ 303

我が家の塀に誰か、立小便する音だけが聞こえる冬の夜のしずけさ

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_ 304

ゆっくりと積雲が傾き、陽光を全面に受けてきらめく。

そのまま裏返って、街に落ちてきた。

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_ 305

開かずの踏切でうとうとしてしまっていた。

遮断機の前で立ち尽くしているのだが、通過する列車の最後尾が来ない。いつまでたっても通過している。いらいらしてくる。長い。長過ぎる。これは夢かも。いやきっと夢だと思うのを見はからったように、最後の車輛が通過して、踏切の向こうの田園が見える。

これは現実か夢か半々だな、などと考えているうちに迷わず踏切を渡っていく私の後姿が見えて、立ち止まっていたほうの私ははっと目覚める。

開かずの踏切でうとうとしてしまっていた。

遮断機の前で立ち尽くしている私の目の前を轟音をたてて列車が通り過ぎてゆく。延々と車輛が続く。無限に続きそうで不安になる。もしかすると夢かしら。たぶん夢なのだと思うのを見はからったように、最後の車輛が通過して、踏切の向こうの街が見える。

これは現実か夢か半々だな、などと考えながら踏切を渡り切ったとき、ふと振り返ると反対側で立ち尽くしたまま私を見つめている私が見えて、はっとして目覚める。

開かずの踏切でうとうとしてしまっていた。


2003-08-13 叙景集

_ 306

わたしを見ているあなたの瞳は、地球儀を思い切り回したときの、まだ名前のない複雑な青。

.

_ 307

仮眠している妻を、そっと抱き上げて、本棚に戻す。

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_ 308

夢判断してもらう夢を夢判断してもらう。

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_ 309

長雨のあとの、おなかががぼがぼになった森が、お行儀悪く吐きかけてくる黴臭いげっぷを、頭を低くして突っ切る。

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_ 310

わたしの脳のなかの茸を探しにあおじろい犬が来る。

恋するものが呼び交わす忍びやかな声の軌跡を、けもの道として。

脳を森だと思っている犬の細胞はすべて、水に溶いた淡いインクで書かれている文字。

その臭いが意味だとばかり、思い込んでしまった文法。

.

_ 311

けっきょく、どのマカロニの穴にしまったか忘れた。


2003-08-14 叙景集

_ 312

如来像を指差して、「似てる・・」とつぶやいている菩薩

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_ 313

わたしを殺した人にしたためる礼状

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_ 314

史上最年少のおとな

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_ 315

使われないうちに辞書に載る方法を模索している言葉

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_ 316

「剣であるか、もしくは地図だな。この人形は」

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_ 317

月が大きく見える夜に

雪のごとく舞い降りてきたものは

まなこを見開き耳を立て

一匹たりとも声もたてずにひたひたひたと地に降り立ちて

いずこへともなく姿を消した

微細な子猫の群れ

.

_ 318

豆腐のなかを5キロも掘る羽目になろうとは


2003-08-15 叙景集

_ 319

人間嫌いだから山奥の別荘に籠もっていたのだが、ぴかっと光ってどーんと音がした翌朝散歩に出てみると、裏の湖にパステルカラーの宇宙船が突き刺さっている。水面上に五分の二、水中に五分の一、湖底下に五分の二ほどの配分で。

湖の岸に繭のようなカプセルが漂着していて、上面の透明なキャノピーごしに、美しい娘が眠っているのが見える。ピンクの煙みたいなふわふわに沈むように抱かれて、両手を十字に組んで、ぴくりとも動かない。月並みなだけに演出効果抜群の初登場シーンだと感じる。

開け方を探っているとスイッチらしきものの脇に「開封後は返品できません」と書いてある。面倒はいやなので、ほっておいて帰ることにする。

だいたい立地条件が悪過ぎるよ、商売になるわけがないと思うが、そもそも私が関知することではない。でもやっぱり落し物として警察に届けようかなーと私の十分の一が思ったが、娘の十分の一をもらっても仕方ないしと思い直す私の十分の一を十分の七が眺めており、残り十分の二は朝ごはんを用意してくれる人を求めている。

.

昼下がり、あの娘を思い出しながら絵を描いていると、あの娘の十分の一が訪ねてきて、「あんがいお役に立ちますよ」と、私の十分の九を説得にかかる。(十分の一でもここまでの声が出るか)私は内心舌を巻いているのだが「残念だが、君を好きな十分の一は、いま出てます」平静を装って言う。

帰りの時間はわからないので待つあいだモデルになってもらう。彼女はとても節約された仕草で横たわってみせる。窓辺の竜舌蘭が落とす影とシーツのあいだに滑り込むように。

「わたしの十分の一しか描いちゃだめです」陽あたりのよい窓辺の、低い位置から聴こえてくるための声で、彼女は条件を付ける。

「すると都合百分の一ですか」

努めて冷静に答えてはみたが、彼女は私のまばたきを二回数える。

「あなたと通分してくださってもけっこうですのよ」

筆が止まる。

これは殺し文句だと思う。


2003-08-16 叙景集

_ 320

週に二千匹ずつ配給される蟻

.

_ 321

暴風雨のあとの濁流を眺めていると、父親の筋肉が肉屋で買えそうな気分になる。

.

_ 322

散歩しながら「なにかちくちくするものが靴のなかに入ってきた」という相談を受ける。

.

_ 323

人魚なんてものがあるのだから、蝉魚というものがあってもいい。

上半身が蝉で下半身が魚。

上半身が蝉だから羽があるが、水の中では羽が台無しになるし、空中では下半身が重過ぎるだろう。タツノオトシゴみたいに直立してふらふら飛んでいるところを想像するとかわいい気もするが、友人宅に夕食をせびりに行ったとき、蝉魚の焼いたのと刺身が出てきたときには閉口した。

あの野太い声も嫌いだ。

あいつなんか友人じゃない。

.

_ 324

世襲の主婦

.

_ 325

晴れ渡った翌日、見渡す限り青だけの世界に落ちた一枚の揺れる白い葉。

昨晩、降るごとに海に溶けつつ、甲板上にだけ雪が積もったのだ。

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2003-08-17 叙景集

_ 326

ただ暗がりであるだけの

水のない沼をめぐる

朝霧の科学を途中下車するいくたりかの人

濡れた夕刊で包まれた婚約者を

ひとりにひとつ携え

地平線の向こうにある自分の掌を見詰める

.

_ 327

雲はとどまり空はながれてゆく

そうして明るい雲を浮かべた夜空になる

.

_ 328

エスカレーターに乗った蟹を見かける。

手帳になにかメモしていた。

_ 329

水溜りで、体温計が泳いでいる。

.

_ 330

どっきんどっきんすると思い込んでいたが、気がつくと馬跳びの馬になっている。

次々と激しい鼓動のようにあたらしい両手がわたしの上半身を揺らす。

このままずっと馬跳びの馬のままなのかわたしは。

そういう夢を心臓がみている。


2003-08-18 叙景集

_ 331

ひとめぼれ されて戸惑う 透明人間

.

_ 332

鳥の瞳を借りて高みから眺めてみると、石造りの円塔の屋上に、あざやかな空色の自転車が一台駐まっているのが見える。

まあたらしい自転車だけど鍵はかかっていない。

あそこに乗ってきて、あそこから乗っていけるのはたぶん、持ち主だけなのだろう。

.

_ 333

一時間目は「落ち葉に恋する数学」

二時間目は「青い上の空」

三時間目は「妖精の民法」

四時間目は「顔でないものの表情」

そして給食。

.

_ 334

「たとえ話」の狩人が今年いちばんの大きな比喩を仕留める。

.

_ 335

プレゼントに誕生日をください。


2003-08-19 あかちゃんのおちんちん

_ 『人生でいちばん大事なこと』という本があって、ボー・バウマンという物怖じしない十三歳の少年が、タイトルどおりの質問状を千通出して、戻ってきた回答を集めたものである。

冒頭に挙がっているのはスティーヴン・ホーキングの答え。

わたしが人生で学んだことは、

じぶんがいまもっている力をぜんぶ使えということです。

_ ホーキングに言われると、この言葉、いっそう威力があるなぁ。

ほんとうに錚々たる面々が並んでいるけど、テリー・ギリアム、ジョン・ケージ、ノーアム・チョムスキー、カート・ヴォネガット、スパイク・リー、ウィリアム・S・バロウズみたいな一癖も二癖もある連中が、こういうストレートな問いにどんなふうに答えているか、なかなか興味津々な本なのだ。

_ ぼくもいろいろな人にいろいろな質問をして、いろいろ大切なことを教わったけれども、

「世界でいちばんてざわりのよいものはなにか」

という問いに、何人かの女のひとが、まったくおなじ答えをくれた。

うかつなことにぼくは、それにさわる機会を見過ごしてきた。無念に思う。

それのてざわりを知っているはずなのに、別の答えを言う女の人がいると「あれはどう?」と尋ね返してみる。するときまって、けらけらとかわいく笑って「あ、あれはね、いちばんね」と認める。そして「でもないしょよ」いたずらをたしなめるように念を押すのだ。

「みんながさわりたがったら困るでしょう?」

「うん、俺には特別にさわらせて」

「残念ね。もう旬は過ぎたわ。うまれてまもないころだけなのよ」

「なんだいケチ」

_ ばらしてしまったが。


2003-08-20 叙景集

_ 336

遅刻しておまけに早退する夏(自分がどんな季節なのか忘れている顔の)

.

写真と写真のあいだの畦道をたどり

どっちつかずの秤みたいに

二次元と三次元と四次元のあいだをふるえながら

未完成のまま朽ちてゆく寺院へ

.

(蝉の声の紙吹雪が舞う)

扉を開けて顔を出したのは

似ているところがひとつしかない双子

ぼくと彼らの似ていないところを遣り取りして

.

(三角形の目くばせ)

風平線観測儀を借り出す

.

山彦と

山彦が

宙空で出会うあたりに置く

.

耳を澄まし

息を整えれば

やがてひびきわたる雉の鳴く声の

こだましにゆるめられて

後頭部でつむじが

.

(風を噛む歯車)

ゆっくりと巻き戻りはじめる音


2003-08-21 蛇行

_ 南三陸の岬を、どこまでもぐりぐりと深入りしていくと、道は思い切り蛇行しまくり、地図上でほんの少しの距離が、なんか果てしのない殺風景な行程。

_ もうほとんど滅びかかった観光地で、なにもかも活動を停止している観光施設の看板を念仏のように読み上げながら、濃霧注意報の濃厚な白い空間に沈んでいく。

空気の底まで沈むと、海水面の近くだけ、けちくさく視界が開ける。

_ 先ごろの地震でぼろぼろになった港で、波に不意を打たれて濡れる。

いちばん低い雲が、山に腹を擦ってずるずる音をたてながら、気のないあいさつみたいに、ひと粒ふた粒、雨を撒いてよこす。


2003-08-22 叙景集

_ 337

鏡を見ていると、この顔が自分の墓石だという気になり、神妙に手を合わせてしまっている。

.

_ 338

「ひまわりだったときの記憶がある」と、夫に告白される。

.

_ 339

おなじ夢のなかで相手の虚を突いて、先に目覚めさせたほうが勝ち

.

_ 340

地平線まで見渡す限りのトウモロコシ畑を両手でめきめきと割る。

成層圏にかけらがこぼれる。

.

_ 341

彼のひたいにとても恥ずかしい格好をしたわたしが飾られているのを

わたしだけが今気づいている

.

_ 342

奇数ページしかない本のめくり方について教えてもらったのですけれど。

「こんなことができるのは、じつは世界が二枚の合わせ鏡のあいだに存在しているからなんだ」

右からの横顔しか持たないその人の話を、わたしは真剣に聞くのですが、いつも半分しか伝わってこないのです。


2003-08-24 叙景集

_ 343

「あのへんがぼくのうちだよ」そう言って遠くに伸ばされた従兄の指が、きらめくほどに震えているような、粘液に濡れ光っているような、きっとよくないもののなかに差し込まれているにちがいなく思えて、そちらを見まいとするのだけれど、気がつくと飴色のつるつるする階段を「おじゃましまぁす」と言いながら自分は下り始めている。

そこは妹と昔下っていった階段とおなじ階段なのだが、以前の経験が生きるわけでもなく、それというのも、ひんやりした大理石であろうと、腐食したゴムの滑り止めが付いていようと、無闇にきついつんのめりそうな角度であろうと、どこもかしこも階段であることには変わりなくて、上らないとすれば下るほかなくて、どこをどうたどっているのか憶えようとしても意味がないからだ。

妹と来たときは、踊り場に住む皺びた家族に生ビールをすすめられたりしながら、下りに下ってけっきょく空腹のあまり踊り場のひとつに居を定めることになり、蹴込み板の暗がりに刻まれたなぞなぞを解いたり、一気に滑り降りることができる長い手摺を探したりして暮らした。空気も古びた深みで顔を上げ、無数の鏡から鏡へ投げ渡されて運ばれてくる光の軌跡が塵を吸って年老い、ぼくの足許にほのじろく蹲るまでを、ありがたい教えとして眺めた。

順応性のある妹とちがって、ぼくは移動可能な梯子を集めて呆気なく地上に出られる回り道などを仕立てて、地上と地下のあいだを行き来していたものだから、従兄の指に誘い込まれて久々に妹のもとに帰ったりもできたのであるが、妹は二年前と変わりない様子で「今度地上に出たらあたらしい靴下買ってきて」と言う。

従兄にはあれきり会わない。南方に出征してそれきりという噂を新聞で読んだ気もする。

そんな昔のことを思い出しながら、日溜りの縁側で皺びてしまった妹と茶などすすっていると、庭先の階段を上って桃色の頬の青年が姿をあらわし「ここは地上ですか地下ですか」などと尋ねてくるものだから、居間も屋根も路地も隣の蒲団屋も空気もみな階段になって、その向こうの小学校の校庭を延々上って区役所に行くのさえひと苦労な現状に、想いは立ち返る。

おりしも下の孫が、校門から蒲団屋を経て庭先まで転げ落ちてくると、割れた額を押さえながら「ただいま」とつぶやく。

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2003-08-26 叙景集

_ 344

誰かが見ている

振り返れば新月

眼を逸らせば満月

.

_ 345

石の奥に沁み込んでいった夏がふたたび滲み出してきたときにはもはや

故国は滅び次の次の夏

.

_ 346

あなたを名付け、最初から三十遍めまでを呼んだのが、このわたくしです。

余命のあいだにあなたは、あと二百と二遍、名を呼ばれることができます。

一遍一遍を大切に呼ばれますよう。

くれぐれも。

.

_ 347

冷えたアスファルトの道を、首のない天使がまたひとり、ぴったぴったと通り過ぎてゆく。

荷台に積み上げられたかれらの首が運ばれてゆくのを、いつかどこかで私は確かに見た。我が家の食卓の上にもそれは、乗ったのかもしれない。

天使の後姿はおのが光でほっこりとふくらみながら、黄昏の坂道を登ってゆく。

しばしのち、拍子の狂った足音がまた、左手から聴こえてくる。

ぴたんぴったん。ぴたんぴったん。ぴたんぴたん。

風向きが変わり、傷ましいにおいが、一足先に届いてくる。

私は湧き上がってきた唾を、咳払いでごまかしながら飲み込む。

.

_ 348

幼虫のままでいるあなたの背中にもたれて、成虫の羽根の砕けゆく音を聴き取る。


2003-08-27 夕刻の鱗

_ 川に踏み込んだ熊のにおいを

嗅ぎつける鮭たちのように

血管を

下流へと逃げる

.

腰骨のあたりから

神経に沿った

商店街が

赤く引き攣れて

銀鱗の主婦たちを

おそれによって

呼び込む

.

誰もがみな

赤ら顔で

.

磨きぬかれた刃の献立

散り敷かれた胎児の顔の石畳を踏んでも

気付かずにいる

.

おさない頃沈んだ水を

紡錘形に

睫毛で切り分けて

鮭の群れとして授精しあう

はなやぎ

うめき

夕刻のオルゴール

.

刃が育てる鮭たちが

堪え切れずに立ち昇る

きらめく煙の

まわり道

.

食卓を囲み家族が居並ぶように

そろってくる痛み

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2003-08-28 叙景集

_ 349

真夜中の砂場に埋めるための友達

.

_ 350

石碑に彫られた文字が、這い込む虫をもぐもぐと噛む。

.

_ 351

三年分のお弁当を作っておきました。

.

_ 352

◆単独なる駅◆

単独なる駅から旅立てば単独なる駅に着く。

やがてという時を経ることもなく。

.

車窓にあるわたしをホームで見送り、到着するわたしを出迎えるまでのあいだ、ステーションホテルの部屋にもどり旅立ちの準備をする。

到着時刻に遅れそうになり、階段でわたしとぶつかってしまう。ひとしきり罵倒しあって、はたとばかばかしくなり、笑顔で手を振りながら別れる。わたしたちのあいだにも誤解はあり得るということ。

降りてきたわたしからおみやげを受け取り、入れ替わりに乗り込む。わたしでほとんど満員。

あぁ、おみやげを買うのを忘れた。そう思ったが、今もらったおみやげを流用すればよいのだと気付く。

単独なる駅と単独なる駅は延々と増築されて重なり合い、完了した増築部により合わせ鏡の像のように遠ざかる。

今は単独なる駅、次は単独なる駅。

わたしの待つホームに、列車は滑り込んでゆく。

.

単独なる駅が、わたしたちを旅している。

わたしから旅立ちわたしに着く。


2003-08-30 叙景集

_ 353

綿毛の人を追尾すべきか、和装の蜜柑を追尾すべきか、南南西天間隙に指示を仰ぐ。レーレンドールを目醒めさせる方法を、レーレンドールの夢に尋ねるような、見込みの薄い企てだが。

終わりたがらない夢を終わらせる方法、それを当の夢のなかで訊けるはずがあろうか?

いずれ他の道はない。南南西天に向けて差し上げたエンデュラムの槍に、ぼくの腕を伝って蚤たちが帰還してゆく。充分に繁殖している。みるみる手許から、辺鄙なる者の槍は赤みを取り戻していき、鍵として螺旋状にほどけてゆく。

風を噛む歯車の音が、風平線の円環と重なる。

ぼくは耳を澄ます。

澄まし切る。

耳が鏡になるまで。

.

_ 354

「エンデュラムの槍がほどけたな。絶師のけはいがする」

「お顔色がすぐれませぬな姫」

「絶師を想えば痛む」

「深く繋がり合っておられるからでしょう」

「繋がっていないからだ。絶師は妾に愛されることを幸福と観じ、妾は絶師に愛されることを幸福と観じた。けれどたがいを愛してはいなかった。たがいにおのれを愛するほか、愛に余白はなかった。

けれど、心は画然と境界づけられはしない。妾の辺境が苛まれる。妾の縁がぱりぱりと焦げて反り返る。槍はこの世の周縁なるがゆえにひときわ」

「槍を奪回いたしましょう」

「無理であろう。しかし試みよう。そなたはすでに不要であるから。ウィンジュレーにとって無害に見える仮面を与えよう。砂時計を束ねた街の、光と影の境目で会えるであろう」


2003-08-31 叙景集

_ 355

主人の帰りを、門柱の脇で座って待つハープシコード

.

_ 356

浴槽の底に漂う息子の触角

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_ 357

針の裏側にびっしりの蟲が、時計をすすめている。

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彼女は物知りで気が短い。

「ね、神様になってみたくない?」

「う、うん」

「ちょっとむこう向いてみっつ数えてくれる?」

正直とまどうが、逆らうと怖いのでぼくは素直に後ろを向く。

「いーち、にーぃ、さーん」

ぱん、と手を打って「いいよ」と彼女が言う。

振り向こうとすると、世界となったぼくが、さっきまでのぼくを軸にぐるりと回ったので、盛大にめまいがする。

でもこいつはおもしろいや。とっさには表現できない壮大な視界だ。

ちいさく見えるぼくの背中ごしに、彼女と目が合う。

ウインクしてみる。

いきなりぼくの体に落雷して、彼女がはしたないポーズで吹っ飛んでゆく。