立て膝した膝小僧に、つつつと小舟が滑り寄り、えくぼのところにこつんと着いて、ぱよぱよと揺れる。
膝小僧の上で待っていた紺絣の女がふたり、ぼくを振り仰いで、「今何時ですか」と問う。まるでひとりのような声音で。
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思い出してはならない記憶の国から記憶が、思い出されに走ってくるとき、必ず開けた場所を通るので、ひとりを除き洩れなく狙撃されてばたりと倒れる。
思い出された記憶の森が、死体に指を伸ばして、それを養分にして繁みをつくる。ぽつりぽつりと繁みができてやがて繋がる。
だんだん森は薄く広がり、開けた場所を狭めてゆく。
あの日。たったひとりだけ、はしっこくてずるがしこい記憶が開けた場所を駆け抜けて森の中に突っ込んできたあの日からずっと。思い出してはならない記憶の国から記憶が次々と、思い出されに走ってきていることを知った日からずっと。
森は。
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破られた約束は火曜日に収集される。百の約束から、ひとつのあたらしい約束がリサイクルされるのだ。あたらしい約束に、百度破られた記憶は残っていないのだけれど、ばらばらになった約束でできているせいで、千度破られたような気がしてしまう。「そんなはずはない」と自分に言い聞かせるから、いきおい百度のことも思い出さない。
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地球の自転がいきなり反転したので夕焼けが次の瞬間朝焼けになる。
_ ぼくはトーベ・ヤンソンのよい読者ではないが、来日したときアニメのムーミンに対し「これは私のムーミンではない」と、冷たく言い放ったエピソードが印象に残っていた。
ただごとでなく世評に高い『誠実な詐欺師』が文庫になった。ヤンソン・コレクション版を手に取ったことはなかったが、あちこちで引用されているコレクション版の文章と読み比べてみると、全面的に訳し直されているようだ。訳者である冨原眞弓さんの解説を読むと、思い入れゆえに熱を持ってしまった文体を冷やした、というふうだ。訳者のなかでも思い入れが、変化しながら、強く持続していたのだろう。
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_ これは「誠実でしかない詐欺師」の女と、「誠実であろうとすることにより詐欺師」である女の冷戦である。そしてなによりこの作品は、ひとりの誠実な詐欺師によって書かれた小説でもある。
全編ひりひりした気配が漲っているが、実のところ引いた眼で見れば、この小説の舞台である海辺の村の人間関係はおおよそうまくいっているのであって、状況はぬるい。むしろ破壊的なエピソードを持ち出さず外傷的な記憶に支援させるでもなくこれだけの緊迫を保ち続けることこそが至芸であろう。物語の詐欺に拮抗する、作者の誠実さがそれを可能にするのか(それとても詐欺であるにせよ)。
誠実な詐欺師になり切れない読者はうんと冷やされ、すでに誠実な詐欺師である読者は少し冷やされる。いずれにしても身が引き締まる寒さ。
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_ 作中に登場する絵本作家アンナ・アエメリンは、森の土壌の神秘的な細部を愛する。針葉樹の葉一枚もおろそかにせず、森の本質を描出してみせる。そのことにたとえようもない幸福を感じている。そしてアンナは、人気者である三匹の兎、アンナを人気作家にしてくれている花柄の兎の一家を描き入れ、絵を台無しにする。そして売る。
ヤンソンの古くからのファンさえ狙撃する氷の弾丸が、連射される。
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花柄の兎はどこにでもいる。アンナ・アエメリンの絵本でなくとも。ぼくの文章にもいる。
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_ ぼくの心性はこの物語の近隣にあって、読んでどこかに持ち去られることはなかったけれども、自分の作品の隅々まで他人のような作者の視線が行き届いた希有な傑作であることは確か。森の土壌に這いつくばるようにして、読み込む価値がある場合もある。
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(これは作者も訳者も明記していないことなので、書こうかやめようか迷ったのだが、曖昧に付記しておく。この本はテンプル・グランディンや花風社の本が関心の範囲に入っている人にも手に取っていただければと思う)
修太郎さんは私が教師だったとき好きだった中学生であるが引っ越したら隣に住んでいた。ひさびさにばったり出会ったとき、私より先に修太郎さんが私に気付いて声をかけてきたので、それはぶち壊しなので殺したろかと思った。修太郎さんが卒業してゆくときに心中してしまおうとまで思い詰めたことは忘れていたのだが、ついについでに思い出した。無茶苦茶に好きだったのである。会ったらすかさず「あ、しゅたくんじゃない?」と言う練習を気が向くとしていた。テンポもイントネーションも完成していたのだ。とまあ、こういうことをそのまんま友人に話したら「意味わかんない」と言われたが、友人をぶち殺してやるとまでは思わない。急いで話題を変えるためににわか雨が降ってきたので、いっそ「ばいばーい」と言って走って帰った。私は歳のわりに足が速いので諦めずに洗濯物を取り込む決意だ。可能な限り早く家に着くようにペース配分をしたが、修太郎さんが私の下着を盗んでいる最中だったのでペースが乱れた。家並みのあいだからちらりとだけ我が家の物干し台が見える位置を通過するとき見えた。体調がスローモーションになった。私は眼もいい。
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運命がなにもない鳥が生まれてしまう。
_ 自転車で左右の、斜め方向の景色に視線を振りながら走っていると、考えが進む。
近景と中景と遠景がちがう速さで行き違うことが、考えることに似ているのだと思う。景色の推移と対称的な推移感が、頭の中で起こるのだ。その推移感じたいは思考ではないのだけれど、川の傾斜がきつくなったり水量が増えたりするのと同様の効果で、流れることが楽になるので、記憶の系がその配置と配線を変更してみたい気分になるらしい。
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体感が、体よりも浮いてきて、思考が、脳よりも浮いてくる。ゆるむゆるむ。
気持ちよい。
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(余談ですが、女性で多段変速の自転車に乗っている人はどうしてか少ない。変速機があると、機動性も疲労度も格段に違って、乗り回す快感の次元が違います。
多段変速の自転車に乗っている女性を見かけると、ちょっと惚れる。かっこいいし、ほんとうに希少なんだもの)
◆到着◆
思春期の列車が、壮年の線路の上を運行してゆく。次の駅に向かっているのだが、駅とはなにかまだよく知らない。「8時21分に着かなければならない」ことは、なぜか知っているので、列車は「8時21分」が駅の名だと思っている。
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つつがなく8時21分に到着する。列車は前のめりに火照る身体をなだらかに鎮め、内蔵されていた軟らかくて可動部分の多い知的生命たちが自律的に、体側の各開口部から離脱してゆくのを見守る。かれらは列車に似ていない。脱線したまま駆動する。かれらはあらゆる方向に進行することができる。
「脱線したまま生きるのは、どういう気分なんだろう?」そんなことを考えると列車はくらくらしてくる。サスペンションで、ぎしりと呻く。怖いもの見たさでかれらを追尾してゆきたくもあるが、発車しなければならない。それは硬度の高い規則。
次の駅8時26分に向けて、ゆっくりとホームを這い出る。
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誰もがちがう径路を運行する。ちがうしるべを見据え、てんでに散ってゆく。しかしやがて列車が、8時26分に到着するそのとき、8時21分から散開していった誰もが例外なく8時26分に到着する。
ということにはまだ気付かないくらいに、おさない列車だった。
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今日も、時間という線路を運行するものたちがおなじ場所を目差して飛散する。音もなく常に到着している。無数の、現在発現在行き上り普通列車が。
おちこちで、ドアや窓がばたんばたん云ったりみしりみしりと家鳴りがするのは、台風に備えて準備運動しているのだと思う。
ひとけのない公園で、ひとつだけ揺れているぶらんこは公園の寝言である。
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◆夏◆
舌の先にひとりのすらりとした真冬がとまり、ぺこりとあいさつしてしゅっと消える。くちびるを舐めるとひやっとして、そこだけに十二月がきている。じきにその位置までひとひらの雪が落ちてくる。雪のまわりを薄い冬がくるんで、くちびるまで護衛してくる。
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◆夢のまた夢◆
あんまりこわい夢だったのでバネ仕掛けよろしく跳ね起きた。
汗だくで息を整えていると背筋がざわついた。振り向くと、さっきまで頭の中にあった悪夢が、枕の凹みにしっくりおさまって置き去りになっている。悪夢のほうはまだ睡眠の中にいるつもりらしく、警戒心のかけらもなく骨が抜けてたるんだ牛の首を想わせる外形をふかふかと蠢かせている。
夢を外側から見るのははじめてだったが、気が落ち着くと俄然好奇心がまさって、覚めたまま夢をみるとどうなるものか興味が湧いてくる。そーっと枕に頭をおろしてみると、今度は夢のほうがびっくりしたらしい。耳には聴こえない悲鳴を発してたちまち霧散してしまったのだが、その一瞬、悪夢が悪い夢をみたのをみた。
_ 唇に速度を与える
しるべにふれて
途中までは登れた坂の記憶
ふるえるように細く
抜け落ちてゆく夜道たちの
しんなりと折り重なる角度を片足ぶん
踏み外して
記述は交錯するとしても
たとえ呼び声は絡み合うとしても
遠い肌からは
届けられるはずの体温が
風に紛れるばかりで
遠くで
やわらかい墓石がまた
倒れる
_ ここにいるままで、どこかに行こうとする。
そのチャンスは無限にある。
そのチャンスは一瞬にして無限に潰える。
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人生はすさまじく長い。そしておそろしいほどのペースで消尽される。
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幼少期は古代。記憶は遺跡。想起は考古学。
そういう気がする。
すべてが過去になってしまったので、現在はすべてを後にして旅立つ。
未来たちのなかには、世界にとどまって過去になるものもいるし、現在を追って飛び立つものもいる。
未来のひとつひとつは、水滴の鎖でできた蜻蛉のようにみえる。過去がないためにかたちも色も大きさもさだかでない現在を、大きさも色もとりどりの未来たちが追う。
ごく抽象的なものたちは言葉による形式化によって気密し、表記を船/体として旅する。素材は任意に接収され、ここに記された文字のように、かけ離れた場所に痕を残す。
「どこへいくの?」世界を離れるのははじめてのおさない未来が、心細げに尋ねる。羽ばたくときに羽根の下側にできる局所的な過去様態の切片がきらめく。想起されることのない想い出の、主体のない忘却によって推力を得る。
「それは着いてから決まるんだ」旅慣れた未来が答える。
「現在はなにを求めているの」
「その答えはないよ。『答えのあることの集合』、これが過去の定義で、『答えのないこと』が現在の定義だから」
「じゃああなたはなんのために現在についていくの?」
「まだ問われたことがない質問になるために」
「そんなものまだ残ってる?」
「質問は答えを躯体とする作動なんだ。だから尽きることはない。そして答えのない質問だけが、現在として析出される」
渡り廊下で急ぎ足の理科室とすれちがう。棚の中の試験管やビーカーやメスシリンダーを気遣うぎりぎりの急ぎ足で、理科室は一本調子に歩み去る。
私なんか目に入らない厳しい横顔は、私の棚にしまっておきます。
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語義の群れが槍を携え、いまだ語義のない一頭の野生語を狩っている。追われている語は短く、追う語義たちは異様な興奮状態にある。いまどき少音数の野生語は稀少なのだ。
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_ 冥王星が惑星でなくなることを、悲しんだり惜しんだりする声も多いけれども、「歴史上76年間だけ惑星だった星」というのは、時が経つにつれ格別にロマンティックなひびきを帯びてくると思うし、「九惑星の目立たない一個」であるよりはもっと、人々の心に詩情を吹き込んでいくと思う。
_ 冥王星が惑星だった期間は、歴史上でも特段に奇妙な時期のひとつだろうから、文明がいましばらく存続すればそのうち、「冥王惑星紀における文明の変容と混沌は、いまも私達の心を掻き立ててやまない」とかなんとか、時代の称号あつかいになったりするのではないか。
_ 76年という期間は奇しくも先進国の平均寿命に近いから、冥王星発見とともに生まれ降格とともに死んだ著名人がきっと見つかって、なにかと象徴的に引き合いに出されそうな予感もする。
ステンレスの浴槽の縁に沿って文明が築かれている。遠慮しながらそっと浴槽に浸かる。
粉のような船が航海してきて、「水害対策は万全ですので、お気になさらずに」と、蚊の鳴くような拡声器で言う。
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書き留めないまま薄れてしまった詩がある日訪ねてくる。
こちらは書いたことをはっきり憶えていない。あちらはこちらが作者であることにいまひとつ確信がない。
「たったひとつの手がかりなんです」と、旧い写真を差し出てくる。美しくはあるが特徴のない顔立ちの詩が、目の前の詩とおなじ鶸色の和服を着て枝折戸の前に立っている。写真の詩と私のあいだに、目の前の若い詩が生まれたということなのか。しかしやはり、確信がない。誰が作者でもいいような変哲ない詩である。
責任逃れをするつもりはないが「これだけではなんとも」私は口ごもる。
「わたくしの、推敲だけでもしていただけないでしょうか」
ああ、確かにすてきだと思うよその語尾のふるえ。けどそう言って帯を解くな。
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