_ ぼくの睫毛は細くて、長い。
片眼を閉じ、半眼になって、午下がりの太陽を斜め四十五度あたりに置くと、きらきらしたものがたくさんひっかかる。睫毛がすっと高度を下げて、魚を捕らえた鳥みたいに伸び上がる位置に、虹色の露のような輝きが宿る。それが重なり合いながら、数珠繋ぎに並ぶ。
焦点を合わせると、露のように膨らんでいるのではなくて、鉱物の剥片か、透き通った虫の翅みたいに、薄くて砕けそうな光であることがわかる。いちまいいちまいのかけらの中には、直線だったり、こころもち湾曲したりしている虹が、すこし乱れた縞模様を描いて、立ち並んでいる。いっぽんの睫毛にひとつずつ宿る、かすかな庭園。
輪郭を見ていると平らかなのに、内部の光を見詰めていると、虹の林の入り口のように奥深く見える。林のように見えても、ほんとうは、とても近くてちいさな対象だから、眼球の内部や表面の、微細な流れが映りこむ。泡状のものや、ねじれた線や、色の震えが、足並みをそろえて、いっせいに吹く風に運ばれるように、流れる。
虹の林をよぎる、半透明の風花。
誰かと一緒に眺めることはできない、睫毛ごしの景色。
_ 行き交う音は雪に吸われてしまい、とっぷり静寂に満たされた低空を、ヘリコプターが唸りながら近づいてくる。
頭上を通る。
低音が耳の中で座布団みたいに膨らむ。
骨だけが勝手に、貧乏ゆすりをはじめ、微妙に血のめぐりがよくなる。
うつらうつらしていた耳が目醒める。
かすかに救急車の音。方向がわからない。二台の救急車が、おなじくらいの遠さで、別々の方角を目差しているのだろう。
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踏切の警報機の音が好きだった。
カンカンカンカン、カカンカカンカカン、カンカカンカ、カカンカと、
だんだんパートが増えていく輪唱のように、 ずれてゆく揺れていく警報を聴いていると、さっきと今が、波のように干渉しあいながら伸び縮みして。
音が、音に追い抜かれ、また追い越してゆく。
先後の感覚が、とまどって立ち止まり、自分から自分が離れたときのように、ふわふわしてくる。
その感じが、とても好きだった。
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今も、踏切の音が聞こえる。
耳を澄ます。
最近は電子制御になってしまって、ずっと足並みがそろったまま。
つまらない。
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夢に重なる夢の地層に、潜む感情の化石を、先祖の指で掘り返す。
毛虫の毛皮。
蚊柱が倒れる音。
燭台の上に立ち、炎の髪を振り乱す女。
痙攣の歩幅。
名前を付けては、埋め戻す。
手を休め、顔を上げると、遠い波打際のゆらゆらの汀線が、不安の展開図になっている。海の向こうで、繁殖力旺盛な種族が、定住しつつある徴候として。
その方向から、伝令の鳥が戻ろうとして、次々と撃ち落されるのが見える。
冷たい発射音が、遅れて届く。
木霊のように。
列をなしてはじける。
空中に滲んだ命が、ゆっくりと海に、滴り落ちてゆく。
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始業式の三日前の夜に、漆黒の巨人が山から来て、しーんしーんと街を歩く。
巨人の体内には、昼の光が詰まっている。はちきれそうなくらいだから、鳩胸で猫背で撫肩にみえる。
家並みの野原で立ち止まり、うつむいた顔をゆっくりともたげる。きつく閉じた眼をふいに、口みたいにぽっかり見開いて、ふたすじの光を叫ぶ。
ある限られた種類の蛾を、呼び寄せているのだ。
ふたすじの光の河のなかにやがて、蛾群の星雲が、ちらちらと踊りはじめる。
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翌朝、早起きのお爺さんが、庭いっぱいに降り積もった雪でないものに驚く。
_ 生き物が遠くに馳せる想いを、いっそう掻き立てるように、神様が「近くの彼方」にそれを置いた。そういう説をどこかで聞いた憶えがある。
月は、いろいろな顔を持ち、いろいろな意味を持つ。
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ヨーロッパには、「新しい月に抱かれた古い月」という言い回しがある。空気が澄み渡った夜に、三日月に縁取られた欠けた領域が、ほのかに明るんで見える。その現象をあらわすうつくしい言葉である。
太陽の光が地球に反射されて、地球の明かりが月を照らしているのだ。天文気象用語では、地球照あるいは地球回照光という。
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地球回照光が最初に地球を訪れたとき、いくつかの光子は、もしかすると私のそばを掠めたかもしれないし、あなたに触れたかもしれない。
だから、地球を飛び立ち月に触れて還ってきた光が、涙に着水し瞳孔を抜けて網膜に達したとき、わたしたちは、
「やあ、前にどこかでお会いしませんでしたか?」
そう問いかけたくなるのだし、
古い月を見詰めていると、なんだかじぶんの一部が、月に届いている気がするのだ。
その音色のもとでは、真実しか語ることができぬ琴を携え、造物主トプソゾロドーマに問いかけた巫女があった。いつのこと?それは言えぬ。
琴を奏でながら巫女は問うた。
「なんのために人間をご創造になったのですか?」
トプソゾロドーマは、すかさず答えた。
「なんのためにでも」
琴の音はしばし乱れ、
「すみません。深遠過ぎてよく理解できません」
たどたどしく持ち直す。
「わたしもだ。琴がわたしにそう言わせるのだが、つまり、どのような答えでも、答えたことが正解になるのだ。造物主たるわたしが答えればな。どのような答えがよいか、そちに要望はあるか?」
「・・・あ、あのう、これまでのご託宣も、ずっとそういう仕組みだったのですか?」
「事の始めより宿命としてそうだったことにもできるし、ついさっき思いつきでそうなったことにもできる」
琴の音は途切れ、ふたたび爪弾かれたときはもはや、上の空の覚束ない旋律に変じている。
「えー、混乱しております」
「それは正しい理解である」
「あの・・・よく考えてみます。私の質問はなかったことにしてください」
「望みとあらば、なかったことに」
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なかったことになったこの質疑は、書き留められることも伝承されることもなかった。後世になんの影響も及ぼさなかった。そもそも起こらなかった。
それゆえ、この逸話を知る者は誰一人いない。知っているとすれば気の迷いである。
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【姫】は、美人ではないということを問題にしない美人だった。
【姫】に会うと、このような女性はかつて見たことがないと思う。そしてじきに、この人を美しいと言わずになにを美しいと言おう?という気分になってくる。誰しもが【姫】のとりこになるわけではないが、その人の美人の尺度は、【姫】の引力圏を取り巻く空間のようにぐにゃりと歪む。その余勢で、今まで美人に見えなかった人の一部が美人になり、美人の一部が美人でなくなる。そして、大なり小なり変人あつかいされるようになる。
原形どおりに再建されたはずの物見の塔は、なにやら微妙な次元に傾いているらしく、うかつな時間が不規則にひっかかるのだった。
窓辺では、過ぎし日そこに佇んでいた異国に嫁した姫君のにおいを嗅ぎつけることができた。眼下に広がる城下町を眺め渡せば、午後のほんのりした光の中に昨夜の断片が、あちらこちら棹のない旗のようにたなびいて眼を惑わせた。幸運に恵まれれば、東の窓に朝焼けを、西の窓に夕焼けを臨んで、その色合いを見比べることもできた。感嘆する私の溜息に、「誰?」という声が、虚空からかかることもあった。
しかしなによりもしるく胸に残った景色は、降り籠める夜半の雪のただなかに、ゆらりと懸かる翌朝の虹。
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上流にさくさくと崩れかけた帝国があり、下流で取水される飲料水から、規定量を超える権力が検出される。
半ズボンをちんちんの脇まで捲り上げた男達が、目の詰んだザルで、せっせとそれを掬っている。
妻達が、微量の権力を麦といっしょにこねて、<おべっか>を作る。
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死ぬ前に偏食していたせいか、棺桶のなかで左足の小指がつる。
ある日おかあさんが、ぼくの耳元に右手を立てて、こっそり言った。
「誰にも言っちゃダメよ。おかあさんね、おとうさんと離婚するかもしれないの」
ぼくは、その日を心待ちにした。おかあさんがきれいになっていくことが、その日が近づく合図のように思えた。
二年たった頃、おかあさんの方がいなくなった。
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「おとうさんに、似てきたね」
そう言われるたびに、「そうですかー?」と答えて、ぼくは笑う。
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大きな橋に並行する水道橋に付属した、ひたすら一直線の金属の歩道で立ち止まる。
両岸に公園をしたがえた広い川は、霞むほど遠くまで視界を吸い込む。
雲の端がきらめき、きらめきを増し、雲の中から太陽が這い出してくる。遠景からこちらへ向かって、駈けるように明るみが押し寄せてくる。陽射しの波にさらわれるように、マガモの群れが飛び立ち、その腹を雲とする雨が、川筋を走る。川面が乱れ、光の縮緬皺が躍る。
なにもかもが繋がっているという突然の認識が訪れる。ほとんどいわれのない幸福感が身中を満たす。
橋の上に立ち尽くしているのに、世界がぼくを中心に流れるのを感じる。ぐるぐる回って止まった直後のめまいのように。
いまこのときのために生きてきた気がする。
神はいる、と、確信する。
しばしその幸福感に浸っているうち、小腹が空いていることに気付く。
鼻をかんだ後のちり紙を畳むように、ぼくはその奇蹟をていねいにやっつに畳んで、橋の上からぷいと捨てる。だいじょうぶ、偉大な奇蹟だが、川を汚すほどに大きくはない。
さきほどのよい気分の残滓を、反芻しながら帰る。帰宅するまでに一編の詩が生まれる。と言うか一編しか生まれなかったが。
こんなふうに、だいたい週に一度の割で、健康のために、信仰心までの短い道のりを散歩している。自宅近辺には神がいないので。
荷車いっぱいの滝壺を、呼び売りする水音。
泡と草の街並を揺らす風が笑うと、春めいたえくぼが波紋のように浮かび上がる。
いそいそと荷車を追いかけ、財布を開く娘の息切れ。頬の赤み。
「虹は別売り?」
「おつけしときます」
滝壺売りは、品物を手際よく巾着袋に投げ入れ、こぼれかけたしぶきを手刀を切るように掬って、これも袋に収める。
まだおさない滝壺は、ひときわ高らかに鳴く。
突如音量が下がる。
袋の口が、閉じられたのだ。
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身を寄せてくる天に かいなを伸ばす海 そのかいなの肉付き
「あそこで読書してる人、インパクトあるルックスだなぁ。すごく色がうすくて、中から光っているみたいだ」
「彼はエルフよ」
「エルフって、あの物語に出てくるエルフ?」
「そのエルフ。物語にちなんで彼らがエルフと呼ばれるのか、彼らのことが語り継がれて物語のなかのエルフになったのかはわからないけど」
「言われてみれば、長い耳だね。でも思ったより細くてとんがっているんだなぁ。角みたい」
「耳を閉じているのよ。読書に集中しているのでしょう。耳介が外側から莢みたいに丸まって、耳の穴のそばの突起がぴったり蓋をするようになっているらしいわ」
「それは便利だ」
「エルフの突起って知ってる?」
「知らない」
「耳のへりの内側をなぞると、微妙だけど、つんと指に触れるしこりのようなものがあるでしょう?」
「あ、あるね」
「私たちがまだ、耳をせわしなく動かしてあたりを窺う、とんがった耳の動物だった頃のなごりよ。エルフたちはそこがもっと発達して、私たちは退化したのね」
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◆エピピエⅠ◆
エピピエの街では、人の命が重んじられる。命はこの上なく重く、ゆえに死は容赦なく人の心をさいなむ。
死を直視することは、あまりにも苛酷だから、死者が弔われることはない。死体はすべて、隣接する町村に設けられた墓地に埋められる。墓標もなく、供養に訪れるものもなく、死者は時を経て土に還るだけだ。
遺品は思い出のよすがが残らないように、そそくさと集められ、危険度の高いものは焼かれ、残りは海を渡る商人に売り払われる。
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◆エピピエⅡ◆
エピピエ人は愛する者に先立たれると、その打撃が身体にまで及ぶ。残された者は、悲嘆のあまりしばしば薄弱化する。胸に風穴が開いたように組織がぼやぼやと薄らぎ、心肺機能が低下する。顔の半面が半透明になって食べ物がぼろぼろとこぼれる。手足の先が、硝子に映り込んだ影のように変じ、本人に感覚はあるものの、意識を集中していない限り、物を取り落としたり地面を踏み外したりする。親を亡くした子供などは、半身が薄弱化することさえある。
心の傷が癒えるにしたがって、この薄弱化は治まるが、長く治まらない者もめずらしくはない。たとえ癒えても、本の余白に故人の書き込みを見つけたりすると、たちまちぶり返す。
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◆エピピエⅢ◆
エピピエの薄弱者たちは、充分な同情と保護を社会から享受する。
薄弱化の度合いを、愛情の強度と同一視することはできないが、配偶者や子供を失っても薄弱化しない人は、心ない讒言にさらされる傾向にある。
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◆エピピエⅣ◆
エピピエにおいて人を愛することは、大きなリスクを伴う。このゆえ恋愛や生殖という行為には、ヒロイックな陰翳が付加される。大家族と多情な人は、エピピエではドラマティックな存在である。
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◆エピピエⅤ◆
日常的に死と接する環境に耐えられるエピピエ人はいない。そのため病院関係者は基本的に余所者で占められる。
どのような文化でも、死の瞬間は定義によって左右される。エピピエでは死の定義は可能な限り遠くに措かれる。際限ない延命治療が施され、臨終の宣告は徹底的に引き伸ばされる。他の街ではとうに死者とみなされるであろう患者が、腐敗のために隔離されて、手厚い治療を受け続けている。
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◆エピピエⅥ◆
エピピエでは、自他の健康に留意し自他の命をまもることは、市民の最低限の義務である。不節制は暴力と受け止められ、肥満や偏食、過度の飲酒、生活習慣病は白眼視される。喫煙する者はいない。
自動車は、救急車や警察車輛など、特定の用途にだけ使用される。交通事故という死因は十年に一件あるかないかの頻度である。
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◆エピピエⅦ◆
エピピエでは自殺はテロリズムとみなされる。
数世代前まで、自殺者の一親等は三階級、二親等は二階級、三親等は一階級降等される法律があったが、今では廃止されている。家族から自殺者を出すことは、それだけで充分な劫罰であり、彼らもまたテロの被害者だからである。
_ 『世界から言葉を引けば』という本がある。古い本だ。作者は言わないでおきたい。
タイトルじたいがすてきなフレーズなので、よく言葉の接ぎ穂に使ってしまう。「それは、世界から言葉を引けばどうなるか?というような疑問だね」みたいに。
オリジナルのフレーズじゃないから、これは本のタイトルなんだと説明をつける。「どんな本?」って訊かれる。
「いままで出版されたことのない古本ばかり売ってる古本屋の話」
三人に二人は「それ読んでみたい」とくる。「探してまで読むほどじゃないよ」と答えれば、二人に一人は納得するが、残る一人は古本屋か図書館で探し出して読んでしまう。そしてきまって「あんまりおもしろくありませんでした」と言う。
だから言ったのに。この本は、タイトルがいちばんの傑作なのだから、タイトルを聞き知って、それをときどき思い出して「どんな物語かな?」と夢想するのが、いちばんよい読み方なのだ。
みんな黙ったまま、水の底で待つ。顔を上げて、眼を輝かせて。
裏から見上げる水面に白く、さいしょの泡の花が咲く。
次々と、深みに向かって伸びてくる、ななめにたなびく泡の飛行機雲。遠くから投げ込まれたしらせ。
ひとりにひとつ、掌に受け止める。
いい程合いに冷えた流星。
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紙袋からはみ出したパンを押さえながら、老婆が歩いてくる。
「あなただ!ぼくの捜していた人!」広場の噴水に腰掛けていた青年が、満面の笑みで歩み寄っていく。育ちは良さそうだが、身なりはかなりくたびれている。徽章がぜんぶもげてしまった軍服のようないでたち。
「人違いだよ」老婆は素っ気無く答えて、今来た道を戻ろうとする。青年はさえぎるように回りこんで、自分のふところをがさごそと探る。
「それでこそ!ぼくは、<捜されていた人と人違いされるおばあさん>を捜していたのです。ほら!」“指令書”と頭書きされた書類を振り回してみせる。
老婆は、書類を確かめようともしない。青年の顔を上目遣いで見る。ずっと前に食べたつもりのチキンを、冷蔵庫の奥で見つけたときの目で。青年は屈託なく微笑んでいる。
「いつかはこんな日がくると思っていたよ」老婆は観念したように溜息をつく。「確かにあたしゃ、おまえさんが言うとおりの者さ」
「ああやっぱり人違いだったのですね。よかった。もし人違いじゃなかったらと思うと、ほんとうにどきどきしましたよ」
青年は、老婆の荷物を持ってやり、連れ立って広場を出てゆく。
長く伸びた二人の影の先端が、噴水の水面で乱れる。
いちまいいちまいの絵の余白には、番号を振った短いキャプションがついている。
まるで、読み物の口絵だけを集めた画集のように。
「自分の幽霊に取り憑かれているので、生きているとおなじだ」
絵とみじかい言葉は、関連があるようなないような、言葉に触発されて誰かの頭に浮かんだイメージを覗き込んでいるみたいだ。どこかへ通じる窓を開くようにわたしはページを繰る。
「瓶の中の臓器のように 切り離されて変わらない感情が なにも言わず浮かんでいる」
「三人称が二人称に話しかけようとして果たせずにいる」
その次のページは少し長い文章で、絵のなかで画集を眺めている人物は、わたしによく似ていた。自分がいま、絵の中にいて、自分に見られているみたいな気分。
.
「空間に書かれた絵なのね。それも無限に重ね書きされてる。この人は自分が描かれた人物だと気付いているのかしら?」
「気付きつつあるところだね」
「おもしろいわ。次のページはどちらに開くの?」
「ここだよ。ぼくらのいるここが、次のページさ」
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そして意識以外のいかなるタイムマシンも、現在にたどり着くことはできないのだった。
_ 出不精である。しかしとあるご褒美で、タダで、しかもVIPあつかいで東京ディズニーランドに行けることになり、のこのこ出かけていったことがある。
_ もうひと昔前のことなので、今は様子が変わっているのかもしれないが、ゲートを抜けると、眼前にはアスファルトの更地が広がっていた。いったんなだらかに降り、遠景のメルヘンの王国のような建物群の手前まで、緩い登りになっている。おおきな浅い皿のように。このアンジュレーションで、じっさい以上の遠近感を作り出しているわけだ。感心した。
いろいろなものを見たが、あまりに驚いた出来事があり、その他の記憶は薄らいでしまった。様々なアトラクション群とはなんの関係もないことだ。
_ 好き!っと晴れた好天である。食べ物屋はあちこちにあり、テイクアウトで持ち出して、野外に散らばっているテーブルで、青空の下すこやかに食すことができる。園内の、客の視野に入るところは、徹底して清潔が保たれているが、テーブルの周りに、ホットドッグからこぼれたタマネギの欠片や、食い千切るときに転げ落ちたパン屑やら、飯粒ゴマ粒ぐらいは落ちている。
それを食べに、あたりの木立からスズメたちが舞い降りてくる。それがどんどんくる。ディズニーランドらしく、ふっくらとデフォルメされたようなフォルムのスズメたちが、エサからエサへとたどり、足許までちょこちょこ歩いてくる。団体で温泉に来たみたいにのんびりしている。あの臆病に羽毛が生えたようなやつらが、である。
人間の至近距離で悠々とエサを食べ、なおかつみずから距離を詰めてくるスズメなんぞ生まれて初めて見た。初めてなのに、いっぱい見たのである。驚いたのなんの。
来る日も来る日も、ウキウキしてメルヘンな人間にばかり出会うもので、生来の警戒心もすっかり緩んでしまったのだろう。スズメという種誕生以来の、革命的な集団ではないだろうか。(なにげにこれは大ごとだぞw)と思った。
_ モノの本を読めば必ず、スズメは警戒心が強く、飼おうとしても、ストレスのため衰弱して死んでしまうと書いてある。人間のそばにいるだけで弱る。
ところが、最近ローカルニュースなどで、ケガをしたスズメを治るまで世話をして放してやっただとか、懐いてしまって家の中で飼ってるとかいうエピソードを、ときどき見かけるようになった。
きっと、ディズニーランドからさまよい出たスズメにちがいない。そうでないとしても、おそらくこいつは関連がある。
「百匹目のサル」などという眉唾な説を引いてくるのは気が進まないが、なんというか、「百羽目のスズメ」みたいな事態が、起こっているのかもしれない。
_ うちの近所のスズメたちはまだ、5、6メートルも近づけばそそくさと飛び立ってしまう、昔ながらのスズメたちである。
わが町内の人間たちは、メルヘンの国の住人ではないようだ。
刑の執行を待つまでの最後の日々を、故郷の思い出話などをして過ごした。
「子どもの頃読んだ、あの本をもう一度読みたかったなあ」南部の排雲農場からきた雲形技師の青年が、ぽつりと言う。
タイトルを聞いても、誰も思い当たらない様子だ。青年は、こんな状況でも、空気を穏やかにする特別な明朗さを持っていたので、みんな彼の話の先をうながした。
「ふしぎな物語なんですよ。蜜柑の匂いのする切符を持って、透明な超高架線に乗って、<やがて単独なる駅>に行くんです。夢の巫女に誘われて。
そこは、世界の最後に残るはずの駅で、レーレンドール駅っていうんです。レーレンドールというのは、最強の魔法使い。世界の最後の謎を解こうとした人なんですけど、どうしてその人の名前が駅名になっているのかというと・・・・」
青年の語りは表情豊かで、おはなしがまるで、彼の周りに雲となって立ち籠めるようだ。みんな、ときおり質問や感想を差し挟みながら聞き入る。彼の記憶は正確ではなくて、思い出の中で彼なりに改変されていて、私でさえわくわくしてくる。
「・・・・世界を、書き手である神から取り返そうとして、レーレンドールはとうとう南南西天間隙の向こうまでたどり着くんです。想像を絶する戦い!、みたいのを予想させて手に汗握るんですが・・・・そこにはオレンジ色のリボンが結ばれた箱がひとつ置いてあるだけなんですよ。“レーレンドールさまへ”っていう宛名のカード付きで。そしてその差出人がなんと・・・・」
もっと暗鬱な、冷え冷えとした物語であるはずだったのに。しかし、いいではないか。彼はそれを読んだのだ。
彼がタイトルを言ったとき、「書いたのは私だ」と、言いそびれてよかったと思う。
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