「<地を歩む星>よ。そなたの臣民が待っている。たとえようもなく長い年月を待っている。北西に向かうがよい」
透きとおるような気配の、樹牌師の言葉にしたがって、エピピエから北西に向かって歩いた。
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郷愁は赤かった。夕映えに赤らむ平原を背景になお赤かった。それは北西の彼方から飛んできた。風を縫う糸のように、きらめく軌跡を引いて。嬉々として。
そしてウィンジュレーの瞳孔を蔽う涙に着水した。一瞬眼が燃えた。熱のない火で。
轟音のような懐かしさが心の内壁を乱打し突然の祝祭のように炸裂したが、たちまち歓喜の残響を残して遠ざかってゆく。減速が追いつかず、表層を通り越していったのだ。
ウィンジュレーは振り返り、自身の奥地のほうへ落ちてゆく赤く澄んだ光を、心眼で追った。その行為は同時に、井戸の底に落ちる灯心を見るように、彼に自分の深度を測らせもした。心細くなるくらい深かった。
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失われた故郷を見出したこの最初の詩塵の名は、後に<地を歩む星>の星都の名になった。人の言葉にそのまま写すことはできないが、ウィンジュレーが口ずさむときは「インチェルトハーピ」と聞こえた。
_ ただ球形であれ。傍らに佇むみずからを見出すまでは。
濡れなさい、しかし。
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世界にまだ想い出がひとつもなかったころ
雨もまた降りかたを知らずにいた。
滴ることが可能になるまでは、溜まることも流れることもしんねりと黙り込んだままで。
液化の寸前でためらわれ、流動に向かうよろめきをこらえ、落下は重力に上の空で
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ぽかんとして。
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咲くという行為を発見したばかりの花。
「思わせぶり」に沿ってなびいている。泡立つものをけどりながら、時の岩場を昇るようなたどたどしさでそよぐ。
(呼ばれる虫はまだ存在していない)
散発的に芽吹く主語さえ収まりかたを模索していて、群落してうつらうつらする文の肩を叩いては、自己紹介をしている。
ひょんなことから収まることもある。
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あれかし。
しかし。
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世界の肌理は半睡のまま湿り気を呼び露を帯び、拍子を合わせてぱたぱたと扉、扇、瞼めいて振り返る蜜柑様光沢の表情を、及ぶかぎりの次元の隅々まで羅列している。台所の隅まで。ぴっちり。
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橙色。
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いちめんの橙色。
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眼に沁みる橙色の匂いのなかで瞬きながら、今日も取引に行く。橙色と橙色のあいだにも道はあると知り。知り初めし。知ることの。知りながらの。
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まだ固体に近い花々の波は、流れきたる方向に乗ることができる。
そこを取引が行く。
肉のなかに潜り命を取りにゆく刃物のように。
(二枚綴りの、伝票を持って)
とある色と隣接する色のあわいを。
行く。
(進化の支払いに釣りがあるとき、きまって小銭がない)
置く。
(まだ固い波のうえに)
なにをか。
なにをか。
(さては想い出をか)
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触れず交叉するところを知る曖昧な交易のいとおしさ。可愛さ。滲み出してくる。しんわり沁みる。
見開いた眼球に、橙色が歩いてくる。
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濡れなさい。