_ 九州の侃々房の西崎憲個人編集ムック『たべるのがおそい』に、今村夏子のよっつめの短編「あひる」が載ったとき、すぐに読んで「ああ、これが五大文芸誌に載っていていれば芥川賞なんだろうに」と思った。
ところがである、直後の芥川賞候補作が発表されると、異例の地方からの抜擢により「あひる」が入っていて、それは常識外れの超ロングシュートが決まったような爽快な出来事だった。
あれには驚いたなー。しかし結局受賞しなかったことに、よりいっそう驚いた。
次点だったという。どんな選考過程だったんだろう。『文藝春秋』の芥川賞発表号がこれほど待ち遠しかったことはかつてなかった。
選評をみると、むろん平均的に高評価ではあった。しかし今村夏子に対する評言としては、驚愕も戦慄も滲まない鈍重なものばかり。ひとり小川洋子だけが、今村夏子の落選に切実に無念を表明していた。思うのだが、将来これは(小川洋子のちいさいけど輝かしい)勲章になるにちがいない。
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長いこと書いていなかった今村夏子だが「あひる」で水を得たのか侃々房から近々短編集が出るという。ほんとに? ほんとうに出るのかなあ。
その疑念をよそに電子雑誌『文芸カドカワ』9月号にも新作「父と私の桜尾通り商店街」が載った。今村めあてに『カドカワ』を買った人のコメントがあちこちに出ているのだが微笑ましいのは「電子書籍初体験!」というフレーズが頻発することで、今村夏子を追いかけるくらいの読書家なら今まで電子書籍に手が出そうな機会は幾度もあったろうに。今日この頃まで上がらなかった重い腰が、今村夏子に尻をはたかれてひょいひょい上がっているわけである。これはただごとではない。
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今村夏子は、心底希有な才能である。
作家になりたいと思ったこともなく、小説でも書いてみよっかなとふと思い立って書いてみたら書けてしまったはじめての小説「こちらあみ子」で太宰治賞。その作品を表題作として第二作「ピクニック」を加えた初単行本で三島由紀夫賞。授賞式で今後の抱負を問われ「そういうのないです。今後なにを書きたいとか、全然思わないです」と言い放って満場を凍りつかせた人は、やっぱりちっとも書かなくて『こちらあみ子』文庫化の際、掌編「チズさん」を収録したのみ。キャリア七年でたった三編。
たくさんは書けないのだろうと思う。むしろたくさん書いて欲しくないと思う。それでもこうしてひとつもうひとつと、あたらしい作品があらわれて、今村夏子の小説だけが触れてくる場所に触れてくれるのは、ほんとうにありがたい。
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私達はつねづね作家になる気満々の人の作品ばかり読まざるを得ないわけで、作家になる気はないのにとても読みたい読者とすごく書かせたい編集者がいるばかりにかろうじて世に出てくる今村作品には、作家になりたい人なるべき人からは出てこない見慣れない力が横溢している。
存在し得たとしても、ふつうは世に出てこない才能。
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小説を読むとき希に「ああ今小説を読んでいる」という異様な手応えを感じることがある。それは書き続け磨き抜いた名手の腕のほかには、僥倖なくして宿ることがない境地である。
それは予感なのだと思う。
私たちの心の営みは、ほとんど無意識の領域で進行する。心が掻き立てられる、という言い方がある。すぐれた小説は、私たちの心の不可視の領域をも掻き立てる。それは「なにかが起こりそう」という予感となって表層の遠景にたなびく。それが期待の色を帯びるか不安の感触を帯びるかは、読者の心性に左右されるとはいえ、さだかならぬ予感が、ひそやかにしかし広範に立ちこめるとき、さだかならぬ故にそれは不安と結びつきやすい。
同様にもうすこし素性が明らかなもの、たとえばあわい悲しみも、今村世界においては伏流水のようにひめやかに蓄積するので、後の段のかすかなふるえで決壊したりして油断ならない。読者を、異なった場所で悲しませそして、どうしてここで悲しくなるのか分からないと思わせる。
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今村夏子を評する人が、頻繁に「不穏」「こわい」「おそろしい」という言葉を使ってしまう所以はこのあたりだ。
世に不穏なけはいを持ち味にした作家は珍しくはないが、不穏なことを書いて不穏な味がするのは当然のことであって、からっと晴れ渡った風景を描いても、ほっとするような人と人の交情を描いてもなお不穏な今村夏子は、熟練もしてないし名手でもないというのにまことに目覚ましいことである。習いもしないで技が出る。これぞ天才の定義であろう。
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今村作品が終盤、絶妙に畳まれていく感じがするのも、プロットが練り込まれているからではなく、周到に伏線が張られているせいでもなく、広範な予感によって、読者が無意識にあらゆる心の準備をさせられているからだろう。
このゆえに今村夏子の傑作は、いわゆる「一字一句ゆるがせにしない傑作」ではない。物語のしからしむ力によって宿命づけられた「これしかない」という終着を要請しない。思い切って言えば、今村夏子はどう書いてもいいのだ。どう書いても一定の予感は果たされ、ほとんどの予感は余る。ゆえに後をひく。物語がどこにたどり着こうとも残るもやもや。それこそがふくらみであり広がりであり美点なのだ。
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世に実験的な作家たちがいる。小説を書くことにまつわる無意識の慣習や、小説を読むときにはたらく暗黙の規範を自覚し、それを無視したり誇張したり逆手に取ったりするのが好きな人たち。読者と小説をいきなり思わぬ場所に連れて行く、高度に技巧的な作家たちである。かれらはほぼ例外なくマニアックな読み手でもある人たちである。
今村夏子はたぶんマニアックな読み手ではないと思うし、計算し尽くして書くようなタイプでもない。それなのに、まるで卓越して知的な作家たちのように、高度な技をかけてくる。
「あひる」を世に出した西崎氏も、読者としての岸本佐知子氏も卓越した一節として言及しているが「人がいる」のくだりはほんとうにすごかった。
あえて読んでない人には意味不明であるように書くが未読の方はご用心ください。
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語り手は事態を俯瞰する視点に立つから、物語の外側の力によって幾許か持ち上げられている。二階の窓辺に立つ主人公は、威嚇的ではないが不意のひと言、自分に向けて浴びせられたわけでもない「人がいる」のひと言によって、それまでちょっと上から、つらつらと述べ立ててきた微笑ましい事態から、当人はしっかり疎外されていることを、いっきに告知される。自分と、読者に。語り手の足場という物語の外の位置エネルギーによって、物語の中で落ちる。あるいは読者に支えられていた主人公は、読者の心の中でことり、と落ちる。
主人公は突然の羞恥にじぶんに突っ込むことさえできないくらいうろたえている。そして読者もうろたえている。なににうろたえているのかよくわからないから、うろたえていることに気付く前に読み進んでしまう。
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エレガントな言葉ではないが、今村夏子に「天然」な魅力があるのは否めない。愚かな人本人のように愚かで、しかし異様に賢く、ところが理知的ではない。狭い視野でほとんど引く余地がないほど不自由なのに躍動的で客観的。
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芸術や音楽や数学など、突出した才能を持った知的障害者をイデオサヴァンと云う。語弊があると知りつつたとえれば、まるで賢さという突出した才能を持ったイデオサヴァン。
矛盾した、ありえない才能。
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_ まだはっきりしたことは言えないのだが、ぼくの大好きなあの詩人に関心を示してくださる版元があって、復刊企画が進行中である。かなうなら二冊の詩集に未収録の作品も集成してほしいなあ。
ただし部数が読めないのでまだ五分五分くらい。1000部がゴーサインのボーダーだそうである。
わくわくとはらはらで脂汗が滲む。どうにか。
ごく一部の人にはこの上ない大ニュースだと思うので、うやむやながら報告してみました。
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マックス・テグマーク『数学的宇宙』(講談社)が抜群におもしろい。世界の毛穴が見えるくらいぎりぎりまで寄って、ここまでくっきり見えると気持ち悪いかも。さらっと書いてあるけど、じっくり考えてみると鳥肌ものの知見がいくつも。
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寝仔さんが教えてくれた王城夕紀『青の数学』と、さいきん話題の二宮敦人『最後の秘境 東京藝大』を並行して読んでいたら、この二冊に背中を押されて、とてもしずかで見晴らしのよい崖っぷちに出ました。
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10月にイオンタウン店に異動します。ぼくのもとを訪ねてきてくださるお客様方には桑野の半分もないイオンの在庫では対応しきれないかも。コアな本はそもそも配本がないから、地道に手配してゆきます。よろしくお願いします。
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_ 寝仔 [雪雪さん、こんぱんは。 本をひとつ置いていきます。 「青の数学」王城夕紀(新潮文庫nex) もうご存じだと思い..]
_ 寝仔 [追伸 自分でもちょっと考え直してみます。 寝仔]
_ 寝仔 [雪雪さん。 こんぼんは。タイトルについては、 それだけの作家であるから大切にして下さいね。 という意味と解釈を..]
_ 寝仔 [こんばんは。 追記多くすみません。 私が不安に感じることは人も不安に感じるかもしれない、ということをまず除外..]