_ 街角を考えのように曲がると、見覚えのない通りに出る。
銀色の棒を適当に曲げて建物のふりをしたものたちが、見られる直前までしていたことをぴたりとやめて、かしこまった姿勢で建っている。
見覚えはないが、通りのほうはこちらを知っている様子でもある。
こんなところに曲がり角を設けたのはなぜ?
今に始まったことではないが、考えの考えることは、何気ないときほど胡散くさい。
_ 道なりに進んでも目的地が近づいてこないときは、自分の気を逸らしておいて、いきなり角を曲がる。今さっきしたみたいに。それで意外な景色だったら成功です。
「そろそろ潮時ですのでよろしく」そう粉をかけておけば、言ったことを忘れたころにぼくは、いきなり角を曲がる。
いつも上の空で忘れっぽいのも、この技法のためかも知れない。
_ けどだめだな。この程度の見覚えのなさでは。
電信柱だけが、街路の主旨に賛同できない風情で、変哲なく電線を張り巡らしているのが、意地らしいといえば意地らしい。
_ マスターはマスターをマスターと呼ぶ。
_ 呪砲の汚染によって廃虚となった街を、リュウとニーナが通り抜けようとしたとき、かれは全身をよろいで蔽った正体不明のキャラとして登場する。手脚のついた細菌培養器みたいでかわいい。呪い除去人仲間にも変わり者あつかいされているかれは、誰もが尻込みするなか、二人の案内を買って出る。「あなたが案内してくれるの?」「ちがいますよ。マスターがついていくって言ってます」じぶんのことを他人事のように話す。
複雑な仕掛けに出会うと、「こっちのレバーをリュウとニーナが、あっちのレバーをマスターが、同時に動かすといいようです」そんなふうにアドバイスをくれる。かれがしゃべるだけで楽しい。
まだ笑う以外の感情表現がよく身に付いていなくて、大ピンチに「ものすごく危険だそうです」と言ってくくくくくくくと笑う。「笑うところちがいましたか?」そう尋ねながら逃げ出す。ぺかぺか光りながらウィ〜ンとうなって走る。
頭に留まる小鳥を見ようとして頭部が左右にしか回らないので思うに任せないところも、へたっと座り込んで「マスターはおねむです」と報告するところもかわいい。言語獲得済みで知性を完備した堅牢無比な赤ん坊、という感じだ。
_ ぼくは一人称を使ってもなんだか三人称な感じがしてしまうほうで、自閉症の子と親和性があるのもそのせいかな?と思ったりするのだが、ゲームくんだりで思わぬトラップにかかったみたいに、どんどんマスターに感情移入してしまった。
_ 長い旅路と冒険(かれの正体をめぐる物語も重要な脇筋である)を経てのち、マスターはひなびた村で帝国軍に追い詰められ、長老とふたりきり窮地に陥る。「わたしのことはほっておいて逃げなさい」その長老のことばを受けてかれは、眼前の敵に「ほっておいて逃げろと言われたらどうしますか?」と意見を求める。かっこいいぞマスター。
_ 「マスターのおかげで見たり聞いたりできて、よかったようです」
辞世のことばも淡々としている。物語のなかでは、ぜんぜん淡々とひびかないのだが。
_ マスターを欠いた旅路の夜に、ニーナはひとりごちる。
「わたしたちの知っていたマスターさんはほんとうはいなかったことになるの?わたしがしんじゃうのとどうちがうのかな?」
_ 堅くてかわいくて物悲しくて笑えるふしぎなマスターには、『ブレスオブファイアⅣ』で会える。
ケンプテーヌの狩人たちは立ったまま本を読む。かれらの眼は地平線を見るための眼だから。足許に本を置いて足の指でめくる。
位の高い者なら書見台役の召使がいて、主人に向けて本を開いて立ち、主人がかるく顎を振って示す指示にしたがって近づいたり離れたりページをめくったりする。意外に重労働であり、私が逗留していた<漂う館>では、その役の娘が中庭で腕立て伏せをしているのを、しばしば見かけた。
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「うひー!」
「あ、ばか。眼の端でかすめるように見るのよ」
「神の屍骸ってうんと眼に沁みますねえ」
「神関連て、多宇宙の広い領域に及ぶから解像度がちがうのよ。私達のふだん見てる現実は近接した可能性の干渉で茫漠としてるけど」
「顕現のとき眼がつぶれちゃたりするのはそういうわけですか」
「一度に無限の同一像を見るようなものだからね」
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「惑乱の曠野はまだ誰にも思いつかれていない考えたちの国です。誰かがそれを思いつけば、そのとき夢現は消えます。いまで言えば、<まわるウェディングドレス>たち。ああして大群であらわれるものは、とうに臨界に達しているのでしょう。じりじりと待っているのかもしれません。もし思いつかれるとすれば、世界中でいくつもの心が、同時に思いつくことになるのでしょうね」
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「あなたのような不死人が増えていったら、生者と死者の帳尻が合わなくなるわね」
「そんなもの初めから合ってない。生まれてくる者が一億人いれば、生まれる前に死ぬか殺されるかする者が五千万からいるんだよ」
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枝の先で、ふるふるとふるえ落ちそうで落ちずにいるそれは、飛び立とうとして翼を知らずにいるもの。それは翼を知らぬままにいつか、進化の道程をゆっくりとたどって、眼というものを産み出すもののけはい。
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「まだ誰にも思いつかれていない考えなど存在し得るのでしょうか?時間が方便にすぎず、あらゆる可能性の分岐が斉一に実現しているとすれば、可能なすべての考えはすでに思いつかれているのでは」
「波動が収縮せず、観測され得るあらゆる可能性が実現しているとすれば、それは超越論的な決定論になりますね。まだ・いまだ、という意味が局所的にしか成立しない世界」
「そう思います」
「おおきな雪とちいさな雪が降ってきました」
「それが」
「雪という言葉を私が発声します。この事態—この空気の波動と、話した私聴いたあなたの脳内物理化学状態。これとまったく同一な事態が観測される世界は無数に存在します。けれどもそこで遣り取りされた意味は、同一とは限りません」
「超越論的決定論のなかでなお、意味は超越論的に恣意的であると?」
「超越論的なふたつのものが和合しないとき、語りえぬものが示されるのです。言葉あればこそ、言葉の外部があらわれるのです。言葉の限界の向こうにあるものにとっては、言葉がその限界です」
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「アテネに梟を持っていく」という古い諺はアリストファネスの言葉に由来する。
愚行、見込みのない商売、あるいは「釈迦に説法」くらいの意味である。アテナの使いである梟は、アテネの森にたくさん住んでいた。
「ニューキャッスルに石炭を運ぶ」というのが英語風の言い方である。ロシアでは「トゥラにサモワールを」になる。最近なら、「ブルガリアにコンピュータウィルスを」みたいな。
ハザールには「夢から名前を持ち帰る」と言う諺があった。動詞は天に由来する創造の言葉であり、名詞は人間に由来する死んだ言葉であるから、天に近しい夢の中からわざわざ名詞を産地に持ち帰るほどのうつけ者、ということである。
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街といえば猿である。
けだものには似つかわしくない禍々しい笑いを家並のあいだに張り巡らして、眼に沁みるほど臭い屁をひる街。
晴天を冒涜するように掲げられた真っ赤な尻が、区割りにひとつずつあって、来訪者へのランドマークになっている。それが青い空にとてもよく映える。
夕刻、見慣れぬ街がそばを通りすがるのを見咎めて、憎々しげに引き歪められた無数の口腔が飛び立つのを見る。
とち狂ったような軌跡で風をぶった切り、甲高い警戒音の針で虚空を縫う。耳元を通り過ぎるとき、がちがちがちと歯を噛み鳴らしてゆく。
_ カニというのは普通短尾類に分類されるのだが、タラバガニは異尾類である。わかりやすく言うとタラバはカニではない。ヤドカリである。
普通のカニは雄が交尾器を使って雌に体内授精するが、タラバは交尾器を持たず、雌雄が腹部を開いてすり合わせ体外受精する。しっかりヤドカリである。
と、知った風な口をきくが、わたしも最近知ったばかりである。しかし知って驚いた。
一般的な認識ではヤドカリは食い物のカテゴリーに入っていないから、ヤドカリと定義されただけで、味も変わってしまう気がする。いや、きっと変わる。食わせてみてくれタラバ。
思うに、概念もまた、味覚物質の一種なのだ。
_ 夢は、現実の記憶と混交しないようにという配慮なのか、ふつう記憶に残らない。たいていは、醒めてすぐ反芻しないと消えてしまう。
_ じっとりと汗ばんで、こめかみをどくどく鳴らしながら目醒める悪夢があるように、ある種の夢は体力を消耗する。
眼が覚めて、夢の記憶は一片も残っていないのに、からだには長い長い夢を歩き通した疲れが癒え残っていることがある。夢のなかで確かになにかが起こった。でもそれがなにか分からない。
昏睡したまま手術を受けたあとの目覚め。あるいは自分の結婚式の翌朝起きてみると記憶喪失になっていたときに似ている。
_ 夢のなかでいったい自分になにが起こったのか、つかみ所なく残存している印象の印象を、ほぐれぬように逃がさぬように手繰りながら進む。刻一刻遠ざかっていく夜の方角に眼を凝らし、暗がりのなかの失せ物を探そうとしているのに、邪魔だなあ、あの街灯の光。夜の時間の中途に、夜半物音に気付いてふと目覚めたごく短い時間の記憶だけが、むやみにくっきり残っていて、失われた夢の真ん中にぽっかりと浮かんでいる。そればかりが眼に付いて微妙な夢の印象が見えない。
島を見ているのに海がなかったとき、ちょうどこんな感じだった。
_ もしもわたしたちが、いまよりずっと高速で代謝していて、太陽なんか止まって見えて、一日に何世代も交代するような生き物だったら、日時計で世紀を計り、いまわたしたちが氷河期を想うように夜を想い、二畳紀の森のいきれに想いを馳せるようにして夏を夢想するだろう。
そんな「速きものたち」もおなじように、音なんか止まってみえる「もっと速きものたち」を想像する。
「もっと速きものたち」は、活発に行動するとすぐに壊れてしまうから、至極のんびりと暮らす。ふとした拍子に、波束が収縮する「過程」さえ垣間見ることができる。ぼくの下瞼に溜まった涙に都市を浮かべ、瞬きによって滅びる。と同時に、滅びない。
_ 電線の周りでカルマン渦がエオルス音を奏でる、とても静かな朝。
向かい側の歩道を早起きのお爺さんが歩いていて、ちょうど通りを隔ててぼくとすれ違うところで、足許にあった黒い石ころ然としたものをぽんと蹴った。
突然、天使の笑い声みたいな澄み切った音色が、驚くほど高らかに響き渡る。背後のガソリンスタンドの大きな箱型の空間が共鳴胴の役目をして、響きのあとを響きが、切れ目無く追いかけてゆく。奏でられた音がまた次の弦をはじくように。
水のような光で弦を張ったハープならもしや、こんな音を出すものだろうか。いままで聴覚が出会ったことのない音である。
お爺さんは咄嗟に身を守るように斜めに傾いでいたが、響きの末端が彼方の喧騒にまぎれると、さっと立ち直って何事もなかったように歩き去っていった。
ぼくは、好奇心を抑えきれず通りを渡って響きの主を探す。お爺さんが蹴る瞬間を見ていたから、すぐにわかる。漆黒のお椀みたいな金属製の物体。それはありふれた自転車のベルだった。まだぴかぴかだけど、ちいさなハンマーが当たるところだけ、塗装が剥がれている。くすくす。おまえだと分かっていれば、さっき聴こえたようには聴こえなかったかもしれないな。うまくやってくれたよ。
ためしに、もう一度歩道に置いて蹴ってみる。・・・・・・・ああ、やっぱり美しいではないか。なんて瑞々しい音なんだ。
どこにでもあるベルとガソリンスタンドと早朝の時刻が、偶然の楽器の構成部品になっているんだ。
_ ぼくは絵心など持ち合わせないので、レオナルドなどを見ても、「モナリザ」あたりより晩年の水のスケッチに心動かされてしまう。
「画家はあらゆることを知らねばならない。すべてを描くために」その言葉の殺気にも似た意志が、水を描き抜こうとする描線の運びに漲っていて、ぼくの瞳孔を押し開いてくる。
空気のなかに散るしぶきや流水の表面ならば、はっきりした境界があるだけに複雑といえども表現のしようがある。しかし、彼が捕らえようとしたものはむしろ、水のなかで踊り水に遮られ水を貫く水、水のなかを流れる水の姿だった。
小川のなかの棒杭のまわりで渦巻き流れる複雑で躍動的な水の振舞いを、あのよく知られた人体解剖図とおなじ視線で描く。いわば水の解剖図である。ことに水面下の水の動きを追ったスケッチがすばらしい。ほどけゆくその力によってよじれ合い、崩れ落ちるその力によって巻き上がる交響と錯綜を、驚異的な解像度で表現してみせる。
思い返せば雲の示す輝きと陰翳を、枝葉の織り成す無限の角度と奥行きを、「見えるがまま」に描こうとして何度挑んでも撥ね返されていたぼくのような者には、水のなかの水を見えるがままに描こうとする着想自体が憧憬の対象であり、それを現実にする技量は崇敬の対象である。
だがしかし、見えるがままに描かれたはずのスケッチの群れは同時に、エレガントな解を求めていたずらに書き散らされた数式の群れのようにも見える。ああでもないこうでもないと、撥ね返されながら幾度も、なにものかに挑みかかっている仕草に見えて、おそらく描き連ねられてゆく過程はそのまま「計算」でもあって、レオナルドにとって捕らえるべき「水の姿」とはすなわち、「流体の法則」でもあったのだということをひしひしと告げ報せてくる。
スケッチそのものはむろん美しい。そして、画面から逆算されるように見る者の視線の上に再生されるレオナルドの、灼け焦げた針のような知的な欲望の視線がまた、慄えるほどに美しい。
_ 神津カンナがまだちいちゃくて、天才少女扱いされていた頃、ある雑誌で彼女と天才おとなを引き会わせる対談企画があった。そのうちの一回が三島由紀夫で、彼は少女がいたく気に入ったらしく、穏やかにじぶんの秘密を打ち明ける。
「おじさんはね、もう見たいものはぜんぶ見てしまったんだ。だからもうすぐ死ぬんだよ」
自裁の直前のことである。
_ 見ることのできるもののうち、世界にあるものはほんの少しだ。
わたしたちが「見たい」と思い得るものはもう少し多い。
けれども、見たいとは思い得ぬもののなかにも、見るに足るものがある。むしろ見るべきものは、そちら側にあるようにさえ思われる。
求める者の前にはあらわれぬもの、あるいは経験になり得ない体験、そして一度も現在であったことのない思い出。単極の磁石のように、憶えることを経ずに忘れられていくこと。
もしくは、けっして起こらないということが、メッセージである出来事。
_ 心がなぜこれほどのものを埋蔵しているのか、わたしに報せるすべはあるのだろうか?
これまでのところ、わたしは(あるいは心は)失敗しているように思われる。思われるだけかもしれないが、仮に報せが届いたとしてもそれに内容がある必然性はなく、報せを受け取るのがこのわたしである保証もない。
(ここに置く的確な副詞がないが)このすべての構図。
価値などなく、美しくもなく、ただひたすらに玄妙な、上の空に懸かる星々。
_ 答えが見出されると、引き換えに問いを見失うような答えを探しているとき、大事な心がけはふたつある。
ひとつには問いと答えを同義語として扱うこと。言うなれば出口はどこかへの入口と、常にじぶんに言い聞かせておくこと。
ふたつには問うていたじぶんと、答えを得たじぶんを同一人物として扱わないこと。答えなどなにもないように思えるとき、問うていたじぶんに尋ねるために。
「私はどこに発つつもりで、ここに着いたのだったか?」
葉を羽ばたいて飛び立つ花。花。花。あのさえずりはどこから発しているのだろう。
目の前からめくれ上がるように消え去った群落を、東の丘が風のなかでつかまえて、スカーフみたいにふわりとまといつける。
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夢が誘う台地には、懐かしさによって餌を捕える街が、じっと息を潜めて訪う者を待っている。
分泌された懐かしさの余剰が、地下水に流れ込む。地の底を這って川に沁み入り下流の人々の夢見に混入する。五つ六つの季節を費やし、体験を欠いた思い出を、人々の内心に忍びやかに醸成する。
生まれ育った街より懐かしい街に擬態する〈それ〉は、街に身をやつす前、じぶんがなんであったのか知らない。気にも留めない。懐かしさは体液として〈それ〉の体内をめぐるだけで、概念を理解させるには及ばない。
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あまりにも激しく祈る者は、自分に向けられた祈りには応えないもの
遠くから戻ってきた記憶が、窓辺で踏み迷っている。わたくしは気付かないふりをして、書き物を続ける。
記憶の視線を、わたくしのもののように感じる。
スタンドの明かりが透けてピンクになったわたくしの耳の裏を、じっと見詰めている。
いま思い出してもらうか、それとも出直すか、思案しているのだろう。
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二の腕に白茶けたぶつぶつができた。眼に近づけてみると、それが墓場だとわかる。ひりひりするので舌で舐めると、石の味がして、鋭い角が味蕾にひっかかる。
軟膏で治癒してしまうような、はかない墓場に葬られる運命について、しばし考える。
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あの人の唇を出たときには確かに言葉だったのに、ぼくの耳の穴を通過するときには砂になっている。さらさらさら脳のなかに絶え間なく流れ込んでくる。じきにぼくはいっぱいになり、あの人は空っぽになる。
そういう夢を、砂時計がみている。
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「あれは・・・・見ているだけで視線が掻き鳴らされるようですね。なんという生き物ですか?」
「雪から雪へ飛び移る方法です」
「ああ、そうか、あの可動部分は踵なんですね」
「主要な感覚器が踵なのです」
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えんえんと爪を切る音が聞こえる。
_ 意識が液化気化してゆくはやさで、ぶつぶつと、頭のなかで独り言を呟いている。意図が指図のかたちを結ぶまでのあいだ。
そうやって浪費してしまうのが常なのだが、起きがけは奇跡の時間である。
_ 人の心を動かすもっとも強い力は、物理化学的にはさしたる強さではない。だから、強く激しく感動することは、ほんとうは貴重でも困難でもない。例の「火事場の馬鹿力」の逸話とおなじ伝で、心にも制限速度があって、ふだんはストッパーがかかっているのだ。
心にリスクがあるほどの強い感動というのが、そう度々あることではないから見逃されがちなのだが、強いだけの(衝突的な)感動にはあんがい学ぶところがない。
_ 出会い頭に絶妙にヒットしてしまったカウンターの手応えと、(相手の動きをジャブによって制御し視線を視線のフェイントによって逸らしそれらに連動するステップの切れで瞬時の判断を攪乱して四楽章で約一秒の)交響曲のクライマックスのように命中したフィニッシュブローの手応えは、たとえ威力がおなじだったとしても体験の質はまったくちがう。
_ 起きがけは心を管理する側もまだ調子を取り戻していないので、それより早くこちらが意図を取り戻すことができれば、緩みきった警戒態勢のなかで、ふだんは検閲されがちな種類のそこはかとない感動を盗み出すことができる。
強度への誘惑をなだめないと、チャンスは一度しかなくなってしまう。強い感動は警報となって半睡を一気に覚醒へと移行させてしまうから。
_ だからできるだけ微妙で、できるだけ奇妙な、そんな感動を集めるのがよい。
繊細な感動を鎖細工のように繋げて、その鎖を伝って昇る低い空のように、めずらしいことが取柄のちいさくて目立たない感情を逃走路にするのがよい。
起きがけに奇跡を見てから起きるためには。
_ Marilee [Suprelby illuminating data here, thanks!]