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雪雪/醒めてみれば空耳

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2013-12-12 人気商売としての考え事

_ 齢とともにいずれ衰えていくとして、知性はどのように経年劣化してゆくのか興味があったが、たとえて言えば「人気」の問題であるように思う。意識に対する無意識たちの人気。意識がステージに立ってスポットライトを浴びているアイドルだとして、アイドルが齢をとったとき、ファンである無意識たちがついてきてくれるかどうか。

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すてきな着想を得たときの快感は、喝采の大きさによる。すごいことを思いついたとき、その適用や応用の全貌までは見えない。しかし着想は今じぶんが注目していない記憶の領域にも響き渡り、無意識をどよもす。その着想の適用域が深く、応用範囲が広ければ、無意識のレスポンスも大きい。

頭の中に世界がすっぽり入る容量はないから、誰の世界像も不完全である。すごいことを思いつくと、空白だらけの地図に、さっきまでなかった山や川や島や気流や海流や国境や道が無数に書き込まれる。無数の手が同時に、莫大な書き込みを行う。頭の中の地図は、頭の中の大地だから、地図の改訂は地質学的な変動である。とある概念を、次に喚び出したとき、その姿は変わって見えるという予感がする。あの概念も、あの概念もきっと変わっている。満場の予感たちによる喝采。あれって、ほんとうに途方もなく快感だ。

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齢をとると発想力着想力が衰える、というより、おなじレベルのことを思いついても、若い頃のようには、ファンが盛り上がってくれない。無意識にとって意識が、魅力を失いつつあるのだ。

アイドルが限界を悟る。ファンたちもファンとしての限界を悟る。足並みそろえて。

するうち、考えることの娯楽性は次第に低減するが、ファンの動向に左右されずに済む分、歓声による慣性に引き摺られずに、勢いでは曲がれない繊細な曲がり角を曲がれるようになる、とも言える。すごいことを思いついた!という昂奮を伴わないすごいことは、見逃されがちなのだ。たまに夢の中で喝采が起こって、目醒めるとすごいことを思いついたという実感だけがあって内容がないことがあるが、その逆だ。

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のろのろ走って、おっとっとと曲がる。老眼を細めて、見知らぬ街路の、神秘の表札を読む。

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2013-12-24 悟る二歳児

_ 僕に前世があったとしたら、記憶と感情によほどこだわりがあった人だと思う。物心がついた頃から「記憶と感情は宝物である」と、思っていた。文字通りにそう思う語彙はなかったが、思い出と気持ちに僕は幼い頃から執着していた。

将来なにを考えていくにせよ、その源泉と素材と手掛かりは記憶と感情にあって、僕にとってのそれは僕の心の中にしか起こらない。僕が失えば、それは世界から消えてしまう。守ってゆく者は唯一僕自身しかいない。それが幼少期のライトモチーフだった。

『忘れてはならない』ということを「忘れてはならない」ということを忘れてはならない。

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人は語り聞かせられたことを像として制作し、やがて体験の記憶と混同してしまう。ゆえに自分自身を外から見た姿が、記憶の中に登場したりする、というような記述によく出会うが、僕はそういう記憶の変造や捏造に強い警戒心を抱いていた。あらゆる捏造を、完璧に拒むことはできないにせよ、僕の体験の記憶はすべて自己視点で、夢の中でさえ絶対に自己視点から離れない。

こういう性向だから、幼少期の思い出をテーマにしたエッセイの類には目がない。長い間再生される契機のなかった記憶や感情を、甦らせるよすがとなってくれるからだ。

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_ 天才的な才能は、できること感じることの自由度を拡げてくれるから、天才どうしは凡才どうしより似ていない。そして凡才どうしの格差より、天才どうしの格差のほうが遥かに大きい。凡才が天才を高みに振り仰ぐとき、天才も別の天才を遥か高みに振り仰いでいる。あるいは、彼方に隔絶して感じている。フォン・ノイマンが、アインシュタインをして「彼の前では自分が馬鹿に思える」と言わしめたように。

子どもはまだ、自分の定義が定まっていないから、おとなよりも感情や判断の振り幅が大きい。自由過ぎて、その自由を扱いかねているから大なり小なり適応不全で不自由である。そして世の中で使いようがないほど基本的に天才である子どもたちどうしは、おとなたちどうしより似ていない。

幼少期の手記は、おとなになってから書かれるから、実状より似たり寄ったりになってしまうのだが、稀に、子どもの頃の鮮烈で危険極まりない自由を残存させている人がいて、おとなには絶対書けないことを読ませてくれる。

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_ ヘレン・ケラー『わたしの生涯』と、アニー・ディラード『アメリカンチャイルドフッド』、土方巽『病める舞姫』あたりは、その本にしか書いてないことが書かれてある希少な書物だが、ひさびさにこのラインに一冊の本が加わった。

アメリー・ノートン『チューブな形而上学』。二年前に訳出されていたのに気が付かずにいた。新しい提携店舗が盛岡にできて、そこはうちの店の二倍以上の規模なのだが、開店準備の手伝いに行ったとき、実際に手にしたことがなかった本にたくさん触れたのである。なかでもこれが収穫だった。

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ヨーロッパにおいては当代最高の人気作家のひとりアメリーは、ベルギー領事の娘。日本で生まれ5歳まで日本で育った。

生まれてから二年間、ほぼ植物状態で動くことも話すこともなく過ごし、ある日いきなり絶叫とともに覚醒する。ついで二歳半のとき、ホワイトチョコレートとの出会いをきっかけに世界の実相を悟る。

それから卓越した学習能力と判断力で、異様なまでに戦略的にふるまうアメリーの、冒険的日常が始まる。その知力に見合った経験の蓄積がないゆえ、子どもらしくない広い視野はいつひっくり返ってもおかしくないほど、アンバランスでダイナミック。

『病める舞姫』もそうであったが、ついぞ人の言葉としては読んだことのない配列で言葉が連なってゆく。三歳にして死にかけ、死を目前にした三歳児が滔々と語る死生観! おもしろそうであることは充分に伝わると思うから、内容には踏み込まないし引用もしないが、終盤、季節にことよせて二歳、三歳、四歳という年齢の決定的なちがいが語られるくだりでは、頭から尻の穴まで貫かれるような歓喜に打たれ、思わず射精しそうになった。

この本のおかげで、意識下のあちこちで、ひさびさに思い出されようとする記憶が、かさこそと蠢動するのを感じる。脳内の啓蟄。痒い。

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本日のコメント(全5件) [コメントを入れる]

_ 寝仔 [こんばんは。 読み終える前にお勧めするというアクロバットをしました「どきどき 僕の人生」を年末に読み終えました。 ..]

_ ナナイ [ねえ、微塵のトーテムってどんなの?]

_ 寝仔 [「小さなアリストテレス」だったこと、あったんだろうかと、子どもの体がまるごと問いになるような感じをたぐってみた瞬間に..]

_ 雪雪 [寝仔さん、 『どきどき 僕の人生』と出会わせてくれてほんとうにありがとうございます。買切なのでちょっと積めないけど、..]

_ 寝仔 [雪雪さんのお返事を読んでいてまさにそのようにしてみることを意識的にしたんだなーと納得していました。 自分から、記憶..]