_ 考えたこともないことを質問されて、即答する自分に出会うと、自分の答えに自分で驚くことがある。人みなわが師、というけれど、自分自身にさえ教えられてみると、自分って頼りないなあと思うし、自分って頼りになるなあとも思う。
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「 ねえ、微塵(これはとあるローカルな場所での僕のHN)のトーテムってどんなの?」ナナイに訊かれて、それは考えたこともなくて、即答もできなくて、一週間くらいずっと考えていた。トーテム、トーテム、トーテム。答えはあると思ったが、手探りする考えの指先になにも触れてこない。
「小夜啼鳥」と言ってみようかとも思った。この鳥の名が光って見えるのは、フローレンス・ナイチンゲールの後背光で、それは「戦場の天使」と称ばれた看護師の理想像としてのフローレンスではなくて、卓越した統計学者として疫学の発展と普及に多大な貢献をした知的冒険者としてのフローレンスが、僕はとても好きだから(ちなみに小学館の伝記漫画シリーズ中『ナイチンゲール』の巻は、学習漫画史に残る傑作です)。
でもこれはちょっとこじつけくさくて、ナナイの求める答えではないなあ。
トーテム、トーテム、トーテム。ぶつぶつ。
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するうち、さっき台所でスクワットしていたときに思いつくともなく思いついた。トーテムのことを考えていなかったときに。
「次に思いつくのだが、思いつく予感のない着想」これだ。
でもこれは思いついてしまったので、このトーテムの名自体はもうトーテムじゃなくなったけど。
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_ どんなジャンルであっても、趣味が嵩じて鑑識眼が磨かれてくれば、どんどんお金がかかるようになる。食材であれオーディオであれ釣り竿であれクルマであれ、良いものは値が張り、すさまじく良いものはすさまじく高い。
その点書物は例外的であって、歴史的な名作でも掃いて捨てるほどの凡作でも、同じような価格設定で買える。国際的な声価を得ている村上春樹の新作だから1500万円で売り出される、などということはない。
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書物は活字に落とされ複製可能な形式となって初めて完成する。書店に並んでいる書物はすべて真物なのであって、マウリッツハイスに行って『真珠の耳飾りの少女』の原画を見ないうちはフェルメールを見たことにならない、という言い方はあり得ても、漱石の生原稿で読まないうちは『こころ』を読んだことにはならない、とは言われない。
性能や水準によって価格が左右されないから、書店員は人類の宝であるような書物であれ、一年後にゴミになるような書物であれ、自由に陳列することができる。買う方は買う方で、なぜか同じような値段で並んでいるダイヤモンドやエメラルドや銀や鉄やゴムやプラスチックや石ころの中から、ダイヤモンドを買ってもいいし石ころを買ってもいい。それは自由だ(まれにダイタモンドよりすごい石ころがあり、そういうものを拾うことこそ醍醐味かもしれない)。
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一定以上の在庫量のある書店はどこも、書物のルーヴルだ。三千年の歴史が蓄積した必読の名作に限っても、一個人では到底読み切れない物量が揃っている。それも所蔵品をお手頃価格で売るルーブル。モナリザを何枚も積んで売ってる、そんなルーヴル。信じ難くすてきな場所ではないだろうか。
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いかなる水準の作品であっても、とりあえず買えば買えてしまう以上、こと本に関しては、その人がじっさい読んでいる本が、その人のレベルを如実にあらわす。
これほど人間の意識の動向が不用意に露わになる舞台は希少であって、書店員という仕事はほんとうに学ぶところが多い。愉快なことも、愉快でないことも学ぶ。たのしい、そしてきつい。
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_ ナナイ [特別の関係の特定の性向の名前…?小道具のようなトーテムを思い浮かべてたからひっくり返るような眺めのトーテムを前にして..]