_ 寒暖の差が激しい今日この頃。想うところが途切れなく、ちょっと上の空になっていたせいか、風邪をひいてしまった。
熱や、喉の痛みがあると、頭がわるくなるので退屈であるが、退屈はすこし新鮮だ。
退屈は強制的な休養であることもある。脳は、ふだんは、全消費カロリーの二割前後を費ってしまうから。
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_ みどり書房桑野店の、文芸エリアの一角に「みどりオススメ」というコーナーが棚一本設けられている。在庫の中から、代表監督がメンバーを選ぶような気分で、スタッフと相談しながら選び抜いた本たちがそこにいる。とりあえず全力で差別化を図っているわけである。読んで驚くな、くらいの意気込みである。高飛車だ。完全に店員目線。しかも上から。
これが自分のチームだと思えば、この上なく心強い面々だが、売上にはさほど貢献しない。もともと、そっち方面はそんなに期待していない。とはいえ、この棚から一冊でも売れたりすると、それはやはりちょっと格別な出来事であり、疲れなどいっぺんに吹き飛んでしまうのだ。
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言語は意識の揚力である。幸福や安全をいくらか犠牲にすれば、我々はこの力をもってして飛び立ち、行ける限りの処へ行ってよい。
言葉という風に乗って、もっと力強く羽ばたく方法を、風を読む感覚の磨き方を、気流に身を委ね休む姿勢を、秩序立てて教える学校はない。言葉に関しては実地しかなく現場しかなく本番しかない。地図は土地であり、土地は地図であり、旅行記じたいがつねに旅行である。
言葉の世界の気候と地勢は、地学的なそれよりも活発に変化する。言葉の棲む世界についての、できるならば最近のドキュメントを用意しておきたいと思う。
まさしく今、自力で飛んでいる人のための地図として、今遠くへと吹いている風を掴んで飛んでいる本を、並べておきたい。旅の案内としての棚が、今その場で乗ることの出来る風であり、降り立つ事の出来る土地でもあるような、そういう棚を用意しておきたい。
ターゲットになる読者は、千人に一人もいないと思うけれども、日本のどこかにそういう棚があったっていいだろう。千人強に一人なら、それはもう数え切れないくらいいるだろう。
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この棚のメンバーはおおむね在庫が薄いので、どんどん入れ替わってゆくのだが、今日現在のラインナップを挙げてみる。
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新井豊美『草花丘陵』(思潮社)
瀬崎祐『雨降り舞踏団』(思潮社)
廿楽順治『たかくおよぐや』(思潮社)
覚和歌子『ゼロになるからだ』(徳間書店)
天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(ブッキング)
天沢退二郎『夢でない夢』(ブッキング)
天沢退二郎『オレンジ党と黒い釜』(ブッキング)
天沢退二郎『闇の中のオレンジ』(ブッキング)
天沢退二郎『魔の沼』(ブッキング)
天沢退二郎『オレンジ党、海へ』(ブッキング)
天沢退二郎『ねぎ坊主畑の妖精たちの物語』(ブッキング)
小池昌代『井戸の底に落ちた星』(みすず書房)
打海文三『一九七二年のレイニー・ラウ』(小学館)
辻村深月『ぼくのメジャースプーン』(講談社)
リチャード・ブローティガン『突然訪れた天使の日』(思潮社)
チャールズ・シミック『コーネルの箱』(文藝春秋)
クリストフ・バタイユ『時の主人』(集英社)
ドリス・レッシング『老首長の国』(作品社)
シークリット・ヌーネス『神の息に吹かれる羽根』(作品社)
スーザン・フレッチャー『イヴ・グリーン』(バベルプレス)
レアード・ハント『インディアナ、インディアナ』(朝日新聞社)
ベルナルド・アチャーガ『オババコアック』(中央公論新社)
ニコール・クラウス『ヒストリー・オブ・ラブ』(新潮社)
テッド・チャン『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF)
リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』(白水社)
エマニュエル・ボーヴ『あるかなしかの町』(白水社)
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新井豊美の『草花丘陵』は、もし仮に年度版『この詩集がすごい!』というような企画があったとしたら、ほぼ間違いなく最新版の一位だったと思われる傑作であり、一人につき詩集に対しては一生に一度しか使えないだろう「完璧」という評言をさえ漏らした人がいたのだが、さりとてもぜんぜん売れてないようだ。
詩人自身としても常にない手応えを覚えたにちがいなく、これほどの隘路を無事くぐり抜けて世に送り出された仕事は、よい読者に恵まれてほしいと思う。
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_ 稀に逢着者がいて、もっと稀に往還者がいる。
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たとえば148キロがぎりぎりであった投手が放った一世一代の150キロと、155キロを出せる投手が余裕で放った150キロのちがい。そういうことにも、似ているかもしれない。
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高校時代の友人Fは写真が得意で、たびたびコンクールに入選して、副賞の撮影旅行で海外に行ったりしていた。自費ならとても手が出ないようなカメラを賞品としてもらうので、カメラを買ったことがないと言っていた。何人かで連れ立って出かけたとき、キオスクで買ったインスタントカメラでおたがいのスナップを撮り合った。
プリントが上がってくると、Fの撮ったものだけは、はっきりと分かった。
使っているカメラも、被写体も、光も背景も日付けもおなじ。しかし、見えているものがちがう。だから、撮ろうとするものがちがうのだと思った。ぼくには見えないもの、ゆえに撮っているときには無かったものが、Fの写真に写っている。
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才能の限界は人それぞれであるが、言語の限界は万人に共通の問題であり、言語の限界ぎりぎりで語ろうとするとき、話者はおなじようなことを語りがちになる。読者にしてみれば「またその手の話?」と言いたくなるような、ありふれた難解さ。読み解く努力を開始する前に訪れてしまう既視感。感覚が励起する前に漂ってくる疲労感。
言語の限界の境界線は、たとえれば左右にどこまでも続く鍵盤の配列によって引かれている。そこでは誰もがそのピアノを弾くしかない。
精一杯手を伸ばして、ようやく鍵盤に指先が触れ、かろうじて音を出す人が稀にいる。そしてもっと稀に、限界の向こうから戻ってきて、そこから背後には鍵盤がないもので、仕方なく鍵盤の向こう側に座って演奏する人がいる。
言語の限界が到達点である人と、言語の限界が通過点である人はどうしても似通ってしまう。ちょっと出て戻った人も、彼方から還り着いた人も、語るときにはある決定的な凡庸さをまとわざるを得ない。言語の限界がひとつだから。
(漂流物の辿り着ける限界である海岸線に漂着物が打ち寄せるように、言語の限界には人が集まりがちであるから、そこまで辿り着けず、ちょっと手前で漂っている人の方が、自由で個性的に見えたりもする)
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逢着者たちと往還者たちがいて、おなじ鍵盤でおなじ曲を弾く。その鍵盤を弾く人はそもそも稀であるとはいえ、歴史は長く、あらわれては消えた無数の才能があり、遺されたものは多く、聞き飽きるくらい繰り返されてきた曲ではある。しかし時に、繰り返すことのできない演奏がある。言語を、一瞬にせよ安いカメラにしてしまうような光が、撮られることがある。
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必死に伸ばした指先がやっと届く場所として燃え尽きるように限界を書く人と、言語の限界の向こうから戻ってきて、冷えながら余熱で書く人。
書き落とす言葉は似通っていてもそれはやはり決定的にちがう。
ボクシングにたとえれば、言語を相手として青コーナーから出る人と、赤コーナーから出る人のちがい。つまり言語に挑戦する人と、言語の挑戦を受ける人のちがい。
「誰」が往還者であり「この演奏」が奇跡の例であると、言挙げることはときとして破壊的である。さあ奇跡が起こるぞ、という心の準備をして出会う奇跡は、出会う前に古び始めているから。
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言語の限界線は、私たちの知るもっとも壮大な境界線のひとつだ。しかしそれはときに、たった一人の力で動く。
ぼくがホームランだったら、観衆でいっぱいのスタンドが引っ繰り返って、ものすごい速度で倒れ込んでくる光景にびっくりしながら見蕩れるだろう。
ホームランでバットを打つときの快音が詩の定義だとする。
そのとき時間を跳ね戻ってスタンドからバットめがけて飛来するボールはその軌跡の途中でみずからの発した快音の残響に衝突し、初速の逆勾配で急加速してバットを打つ。その瞬間に快音はぜんぶ一点に戻ってくる。視線も得点もぜんぶ、一点に戻ってくる。その力でボールはひしゃげてバットにへばりつき、見えない手を伸ばしてバットの真芯を、力一杯握り締める。
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肉は滅んでにおいだけになったオオカミが、うちの庭先で力尽き倒れる。おぼろであるぶん断末摩も、のんべんだらりと間延びしてなかなか死なない。私が出かける度に、無い眼をぎょろりと動かし鼻を突くにおいで睨むから、鼻の奥で睨み返してやる。
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頬杖としてあてがわれた手の甲に凭れているその横顔を眺めていると、大切なことはぜんぶ分かってしまいそうになる。
もちろん横顔の主が、なんでも分かっているわけではない。
真理そのものは、じぶんを理解しない。すべてを知ってしまうと、なにも知らないときとおなじように、なにも分からなくなる。
ぎりぎりのぎりぎり手前で眼を閉じる。瞼の裏に残った残像込みで、ちょうどぎりぎりになる見当で。答えが先に出ちゃうくらい速い暗算で。
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駆け上る光が細く、川を裂き分けてゆく。川と川のあいだで、魚が跳ねる。沈んでいた小学生は跳ねない。
これ以上細くなれないところまで分かれた川は放散し、ひらひらとリボンのようにどこまでもたなびき、その左右を岸辺と定義してゆく。左岸右岸左岸右岸左岸右岸左岸右岸。せわしなく首を振る水面が。
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昇降龍の呼吸が安定するまでのあいだ、熱のない延焼は続いた。シャンドルニーの紋章たちは変色してゆく城塞の襟に留まることを選び、おたがいを文字とし、繋いだ手から手を経由する好意や悪意を文法として、帝国の威信を視覚的にも概念的にも支え続けた。
ファンファード・ニルインが鈴なりに吊り下げられた紺碧流線遡上風の屈曲部には、様々な材料でこさえられた昇降龍の雛形が鏡像分枝を構成して、温度を奪われ響きを賦加された森のように、微細な条彫りのある斜面を浸潤し緑化していく。
一般に白い、極窓属のヤンダンさえも、右の皮殻には鮮虹色の「思い惑い刳月」がひとつふたつと浮かび上がり、城塞が慣性で規定線を押し遣り弾力で過去北方にゆるりと戻されるその軌跡に、思い込みの強い泡の痕跡を剥離しかけた塗料として残した。つまり、指の腹で押すと、それはしゃりしゃりと潰れたのである。
シトカン、ラルド、パロー、そしてカートツァーツからコームリンゲルンに到る、殊更に教義に無理解な避難民は、いまだに忘却は整数次元ではないと信じており、結果的に北西アドードに残存する瞬膜階級の支援者としての役割を果たすことになった。無論、本人たちの意図を離れたところで。
ちなみに「コームリンゲルンの右の冠毛」という故事はこの出来事に由来し、ニルシマーにある電離語法鞭の見返しには、その当時すでに五本あった猿の指の指紋が、くっきりと残されているといわれる。
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