_ 稀に逢着者がいて、もっと稀に往還者がいる。
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たとえば148キロがぎりぎりであった投手が放った一世一代の150キロと、155キロを出せる投手が余裕で放った150キロのちがい。そういうことにも、似ているかもしれない。
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高校時代の友人Fは写真が得意で、たびたびコンクールに入選して、副賞の撮影旅行で海外に行ったりしていた。自費ならとても手が出ないようなカメラを賞品としてもらうので、カメラを買ったことがないと言っていた。何人かで連れ立って出かけたとき、キオスクで買ったインスタントカメラでおたがいのスナップを撮り合った。
プリントが上がってくると、Fの撮ったものだけは、はっきりと分かった。
使っているカメラも、被写体も、光も背景も日付けもおなじ。しかし、見えているものがちがう。だから、撮ろうとするものがちがうのだと思った。ぼくには見えないもの、ゆえに撮っているときには無かったものが、Fの写真に写っている。
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才能の限界は人それぞれであるが、言語の限界は万人に共通の問題であり、言語の限界ぎりぎりで語ろうとするとき、話者はおなじようなことを語りがちになる。読者にしてみれば「またその手の話?」と言いたくなるような、ありふれた難解さ。読み解く努力を開始する前に訪れてしまう既視感。感覚が励起する前に漂ってくる疲労感。
言語の限界の境界線は、たとえれば左右にどこまでも続く鍵盤の配列によって引かれている。そこでは誰もがそのピアノを弾くしかない。
精一杯手を伸ばして、ようやく鍵盤に指先が触れ、かろうじて音を出す人が稀にいる。そしてもっと稀に、限界の向こうから戻ってきて、そこから背後には鍵盤がないもので、仕方なく鍵盤の向こう側に座って演奏する人がいる。
言語の限界が到達点である人と、言語の限界が通過点である人はどうしても似通ってしまう。ちょっと出て戻った人も、彼方から還り着いた人も、語るときにはある決定的な凡庸さをまとわざるを得ない。言語の限界がひとつだから。
(漂流物の辿り着ける限界である海岸線に漂着物が打ち寄せるように、言語の限界には人が集まりがちであるから、そこまで辿り着けず、ちょっと手前で漂っている人の方が、自由で個性的に見えたりもする)
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逢着者たちと往還者たちがいて、おなじ鍵盤でおなじ曲を弾く。その鍵盤を弾く人はそもそも稀であるとはいえ、歴史は長く、あらわれては消えた無数の才能があり、遺されたものは多く、聞き飽きるくらい繰り返されてきた曲ではある。しかし時に、繰り返すことのできない演奏がある。言語を、一瞬にせよ安いカメラにしてしまうような光が、撮られることがある。
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必死に伸ばした指先がやっと届く場所として燃え尽きるように限界を書く人と、言語の限界の向こうから戻ってきて、冷えながら余熱で書く人。
書き落とす言葉は似通っていてもそれはやはり決定的にちがう。
ボクシングにたとえれば、言語を相手として青コーナーから出る人と、赤コーナーから出る人のちがい。つまり言語に挑戦する人と、言語の挑戦を受ける人のちがい。
「誰」が往還者であり「この演奏」が奇跡の例であると、言挙げることはときとして破壊的である。さあ奇跡が起こるぞ、という心の準備をして出会う奇跡は、出会う前に古び始めているから。
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言語の限界線は、私たちの知るもっとも壮大な境界線のひとつだ。しかしそれはときに、たった一人の力で動く。