_ なにか書ける気がぜんぜんしないのに書けてしまって、状況が状況だからおそるおそるupしてみる。
この悲しみをとりまくいくつかの場所にほの見える殺伐とした熱と冷気を、いくばくか平熱に近づけたく。
_ ぼくのことはこの際どうでもよいのだが、誰かがぼく、そして別の誰かを心配している。ぼくも誰かを心配している。そうしていくつかのメールや電話が行き交う。
ひとつの危機が別の危機を誘う。それをあやぶんで。
_ ぼくに対する私信ひとつひとつに、すぐには返信できないかもしれません。でもほんとうにありがとうございます。どうかご無事で。
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私信が届く。
それはすてきな出来事。
上げず返信できずにいるのに、届くのはひどくありがたい。なんて自分勝手なんだろう。
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いまいちばん危険なのは誰か、静かに、考えている。
ぼくの知らない人かもしれない。
誰かが知っているかもしれない。
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あまりにも大切なひとだった。
ぼくにとっても、誰かにとっても。
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注意深くあつかってください壊れやすいものは。
あつかうことに逡巡しないでください今しも壊れゆくものは。
_ 心が不足しているので、補うために本屋に行く。
ぼくはやすりのかかった本が嫌いだ。指の腹に触れるもっさりした感触がいやだし、小口が汚れやすいのも。やすり本を買うぐらいなら重版を待つ。
だからやすり本が家にあれば、それはどうしてもそのときに読む必要があった本だということが分かる。
_ 今日は、やすりのかかった本を二冊買った。
_ 車の通過も間歇的な深夜だが、四車線どうしが交わる大きな交差点だから、しばらく眺めるうちにはそれなりの数の車が行き交うのをぼくは見送っている。
ひとつ西に向かう道だけは、そこからあらわれる車も折れてゆく車もない。どうなっているのだろう(ぼくの関心がその道へと折れてゆくのが見える)。
広々とした道は、街灯のふちどりもなく寝静まった住宅地のくらがりへと伸びていて、少し先でこうこうと明るんでいる。
遠くで鳴った舌打ちのように聞きつけた音は、頭上で信号が赤から青へ切り換わる音だ。
ゆっくりと通りを渡り西への道に入り込む。やはり車の気配はないので、まんなかを歩く。意味もなく蛇行してみたり。
少し先のほうで、道路の幅員いっぱいにガードレールが行く手を阻んでいて、その向こうに赤いしましまの看板が立っている。広告みたいにライトアップされている。遠くから見えた明るみの正体だ。
「転落事故防止のため、この場所に入ったり遊んだりしないでください」
広告ではなく、警告だった。入ったり遊んだりせず、入るだけにしよう。
ガードレールを越えて看板の後ろへ進む。背後の明るさに押しやられた闇がくろぐろとわだかまっているが、足許に気をつけながら歩いてゆくうちに眼も慣れてくる。
四車線の舗装路が、いきなり断ち切られたように終わっている。のぞきこむとその先は、ばったりと倒れた野原のようだ。丈高い雑草の生い繁る急斜面が、ざわざわとさやぎながら落ち込んでいる。斜面の裾から先に眼を遣ると、区画整理済みの整然とした家並みが平然と続いているばかり。この道の将来を暗示する伏線はなにも見えない。
「おまえいったいこれから先どうするつもりだったの?」
思わず道に話しかけてしまうが、道は黙ったままだ。
視界ははるかに開けているが、低い雲の腹がほどけてぼんやりとけむっている。中景を裂くように横たわる濃淡のない暗がりが、右手に向かって幅を広げてゆくのを眼で追う。それは河口に近づきほとんど傾きをなくした静粛な川だ。
遠く市街地の夜あかりが靄に映えて暈をかぶり、巨大な誘蛾灯のように見える。そのサイズに見合った蛾がおびき寄せられていけば、この距離からでも視認できることだろう。そう思って、誘蛾灯のまわりを見張る。煙草を一本喫い終わるあいだ。
こんな、なにを考えてもよい時間には、どうしても死んでしまった彼女のことを考えてしまう。
彼女についてなにか書きたいと思う。
書けると思う。
書けると思ったのは道路の切断面に立っていたときで、書けると思ったから帰ってきたのだが、こうしてさっき見た景色のことなんぞ書いている。
三年たって自分の文章を読むと、決まって身悶えるが、ここ数日はふとした拍子に三年たつ感じだ。書けると思った自分の気持ちが、書こうと思ったときにはもう別のものに変わっている。
どんどんどんどん変わっていって、いつ落ち着くのかわからない。
いろいろな想いが、道路のように、ぷっつり終わる。
_ 書店で手に取り、最初のワンシーンを読んで、たちまちファンになってしまうなんて久々のことだ。伊坂幸太郎 『重力ピエロ』のことである。
生来のチェック魔もこの頃は休眠中で、これで四作目になる作者の名前さえ知らなかった。
即決買うことにしたが、やめられず数十ページ読み進むあいだに、このところ脳裏から離れることがない女の子を想わせるエピソードがふたつ出てきたので、「シンクロニシティって言葉も陳腐になっちゃったよね?」と、虚空に語りかけてみたり。
_ 一節一節が、あるいはそれに挟まれた一行一行が、ひとつの作品と言いたくなるほど濃い。こんなに濃いのはピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』以来だなと思う。いや、ちょっと言い過ぎたかなw でもかなり濃い。
_ この作品のモチーフを別の著者が扱ったなら、はるかに殺伐として重厚な作品に仕上げることもできただろう。「魂のきしみが聴こえる」みたいなw
確かに苦い。
ほろ苦いのではなく、ものすごく苦い。
しかしものすごく苦くてすがすがしい。
軽快な筆致は、ひとつところに長くは留まらない。苦さを、またはすがすがしさを、あるいは切れのいいペダントリィを味わいたければ、該当箇所で立ち止まって、どうかじっくり味わってください。あなたの好きな配分でお読みください。物語は立ち止まりません、という筆致である。
体裁以上の器量があり、ページ数以上の度量がある。
_ 迂遠な表現ばかりだが、内容に立ち入るのはためらわれる。絹を巡らすように、繊細に張られた伏線群。絹を幾本か切らずには、内容に触れられない気がする。なるべく予備知識なしに、この本に出会っていただきたいと思うから、やっぱり内容は迂回しよう。
十年に一度なんて大仰な言い方は、この十年の本をすべて読んでいるわけではないからしないけど、まあ言ってるも同然かな?という傑作である。
重さよりは速さを、腹に応える衝撃よりは眼の端をかすめる閃きを、という気分の方には、ぜひ手にとっていただきたいと、思うんだが売れてるのかなこの本?
_ 鉄棒というものはみな、「あか」という色を思い出そうとしている黒いろに錆びている。
_ 眼を近づけると、思ったより細かいでこぼこが地形のように複雑に入り組んでいる。
こうべを傾けて鉄棒の上にこめかみをことん、と落して片眼をつむってみると、円筒形の大地がはるか彼方まで伸びているみたいに見える。
大地の尽きるところは、もっと大きな大地に立つ巨大な塔状建造物の、最上部と接合している。
_ 円筒形の大地で人々は、光のない内側の曲面に住んでいる。光のない世界で彼らは眼というものを知らないだろう。彼らはきっと耳で風景を見るだろう。
_ ちょうどぼくのいる公園の脇を始発列車が通過するとき、時をおなじくして、微細な針のような列車が鉄棒のなか、ぼくの耳の真下あたりを通り過ぎて行く。そのひびきが伝わってくる。
急用のある人々を乗せて、ぼくの頬の方向に向かって離れていく。
_ 微塵のような乗客のなかでただひとりだけ、ぼくのけはいに気付いて、
はっと息を詰めたことがどうしてかわかった。
_ 夕暮、椅子に腰掛けて、死について独り言を呟いていた。できるだけ暗い気分になりたかったので。
女の子が一人向かい側に座っていた。女の子のようには見えなかったけれども女の子だということは分かった。
「私も、ずっと死ぬことにあこがれていたの」そう言って、あとは時折相槌を返すぐらいで、黙ってぼくの話を聞いていた。ぼくのほうは喋りながらぼくの話を聞いていた。
ながながと話した。今日はじめて会ったのに。
いくらでも話すことはあった。
_ いつの間にか男が一人、そばに立っていて、挨拶抜きで口を挟んできた。
「誰だって死ぬ時は死ぬんだ。生きるも死ぬも意味なんかない。詩人気取りで死のことを口にするのは滑稽だ」
まさしく。
「うん、その意見には同意するよ」ぼくが答えて、彼女とぼくはくすくすと笑った。
もちろんおたがいの声は聞こえなかったけど。
ネット上だから。
_ この世界を離れて別の世界を目差すひとむれの人々と今しもすれちがいつつある
絶望を通過したあとの希望と絶望のなかに歩み入る希望とがつまさきで立ち止まったまますれちがいつつある
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この世界の不幸は もしかすると別の世界で幸福に転ずるのかもしれないし
転じないのかもしれない
別の世界の幸福は不幸と呼ばれているかもしれないし
なんとも呼ばれていなくて
こまるのかもしれない
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雪かと思えば名前である
雪というにはほんのりとおぼろで
付くことのできるあらゆるところに付こうとして
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私の不幸があなたの幸福であるとき
私があなたになるとき
あなたが彼女である私であるとき
彼女である世界が名前である私の幸福であるあなたの不幸であるとき
名前である不幸が世界である私の幸福であるあなたの彼女であるとき
名前のように世界がふる 幸福と私に
名前のように名前がふる あなたと名前に
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しんしんとふりこめる沈黙のように鳴きつのるものたち
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言葉は 定義するために遠くに見える網膜
私を離れてあなたに行きたがる私
さもなくば
世界を離れて 別の世界に到着しない旅程
そして
倒れ方を知らずにとるバランス
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水のような未来で素足を濡らして
つま先立ったまま涙だと気付いていた
_ ぶるぶるっと身震いをする。
それがぶるぶるぶるぶるぶるぶるっと続いたら、驚くであろう、気味が悪いであろう。
そんなふうに本州も気味が悪いのではないか、と思うほど長い長い地震であった。
震度6や5、というところが広範にあるが、その割りに人的被害が少ない。地震に驚いて自宅の二階から飛び降りた十八歳の少年が腰を打って病院に運ばれた、という情報が繰り返しニュースで流れている。この少年は有名になってしまうであろう。
_ 営々と「家庭の地学」によって堆積した我が家の本の地盤が緩み、広い地域にわたって崩れた。床一面が見渡す限り本で埋め尽くされている。
まるで、書物の海である。
ああ、この海を整理して積み上げなければならないのか、そう思っているつもりがいつの間にか、ほんとうの海を整理して積み上げる情景などを夢想して呆然としている。
_ おざなりに垂直な海水面ごしに、一斉に振り返るマグロの大群と眼が合う。
図書館の扉が粉々に砕け、怒濤のように本が脱走してくる。
黒雲のような本の群れが、はらはらと落丁しつつ西の空に去ったあと、
呆然とした司書がよたよたと歩みでてくる。
その手に一冊だけ残った本を、私は奪取して次女にプレゼントしなければならない。
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公平を期すために。
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つむじ風に沿ってめまいする、その手ほどきを