_ 今村夏子の二冊目の作品集が、異例の地方出版からの芥川賞候補作「あひる」を表題作として出た。ほんとうに出た。
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『あひる』に収録されていた書き下ろしの二編、つまり未読であった二編は、今までがまるで奇跡のように思えただけに、今度も今までの水準を保っていたらそれだけですごいと思うわけで、僕はただ小説を読み始めるだけのことなのに、覚悟を決めて読み始めた。奇跡が起こることと起こらないこと、両方の覚悟を。
おおげさに聞こえるんだろうけど、読み終えた僕はやっぱり動揺している。
どうして、こうなるんだ今村夏子。
意図的にやっているのか、天然にこうなってしまうのか。
「できる」のか「なっちゃう」のか判断つかない。
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たとえば誰かが、これは傑作になるぞ、という期待に満ちて書いているとしよう。物語はすすみ、いくつかの重要な分岐点を迎える。物語の埋蔵する可能性は豊穣なのだが、けっきょくはひとつの選択肢を選ばざるを得ない。未練を断ち切りながら結末に辿り着いたとき、旺盛に繁っていた物語は刈り込まれて、すっかりみすぼらしくなっている。
作者である誰かは、「書いている最中は傑作だったんだがなあ」とひとりごちる。
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通常、職業作家というものは、それで飯を食っていこうとしているわけだから、物語の種を拾ったら、できれば大きく育てたいと思う。書けるに越したことはないのだ。
今村夏子のすごさは、書けるだろうに書かないところだ。ぞくぞくするくだりは随所にあるが、ひとつだけ挙げれば、「おばあちゃんの家」の主人公みのりは中学でバドミントン部なのだが、79ページから7行、そのことについて記述がある。
これは短編一本らくらく仕上がるネタである。豊穣な選択肢が秘められていて、読者である僕でさえ、そこから先の方奥の方を書きたくなる。書けると思う。うずうず。しかし今村は書かない。というか書かずにいられる。ゆえに、「書いている最中はあった傑作の可能性」みたいな力が、物語に残る。
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ふつうの作家ならこれは、創作者の本能に逆らう行為である。
まるで腕におぼえのある料理人が「今日は滅多にないすごいネタが入ったんですよ。きっとすばらしい料理ができます」そう言って客に素材を譲るような。
ああ、ありえない。
そして、ありがたい。
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いわば可能性の収縮は作品の外にゆだねた不確定小説。
(物語内の力学に寄せて言えば、みのりがあの話題に深入りしないことによって伝わってくることが確実にある。あえてなのか、あえてではないのかはっきりしない。そして、どちらであってもおもしろい)
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