たとえば誰かが、これは傑作になるぞ、という期待に満ちて書いているとしよう。物語はすすみ、いくつかの重要な分岐点を迎える。物語の埋蔵する可能性は豊穣なのだが、けっきょくはひとつの選択肢を選ばざるを得ない。未練を断ち切りながら結末に辿り着いたとき、旺盛に繁っていた物語は刈り込まれて、すっかりみすぼらしくなっている。

作者である誰かは、「書いている最中は傑作だったんだがなあ」とひとりごちる。

通常、職業作家というものは、それで飯を食っていこうとしているわけだから、物語の種を拾ったら、できれば大きく育てたいと思う。書けるに越したことはないのだ。

今村夏子のすごさは、書けるだろうに書かないところだ。ぞくぞくするくだりは随所にあるが、ひとつだけ挙げれば、「おばあちゃんの家」の主人公みのりは中学でバドミントン部なのだが、７９ページから７行、そのことについて記述がある。

これは短編一本らくらく仕上がるネタである。豊穣な選択肢が秘められていて、読者である僕でさえ、そこから先の方奥の方を書きたくなる。書けると思う。うずうず。しかし今村は書かない。というか書かずにいられる。ゆえに、「書いている最中はあった傑作の可能性」みたいな力が、物語に残る。

ふつうの作家ならこれは、創作者の本能に逆らう行為である。

まるで腕におぼえのある料理人が「今日は滅多にないすごいネタが入ったんですよ。きっとすばらしい料理ができます」そう言って客に素材を譲るような。

ああ、ありえない。

そして、ありがたい。

いわば可能性の収縮は作品の外にゆだねた不確定小説。

(物語内の力学に寄せて言えば、みのりがあの話題に深入りしないことによって伝わってくることが確実にある。あえてなのか、あえてではないのかはっきりしない。そして、どちらであってもおもしろい)

本日のコメント(全5件) [コメントを入れる]

_ 寝仔 (2017-01-17 00:20)

世界で一番短いミステリー小説、 のかさねあわせ、 と苦労して書きました。 (なるべく的確に、のためにフリーズして笑ったあと書いてます。) 本年もよろしくお願いいたします。 当該ページ数を開くまでにここまでかけたズボラ者な 寝仔m(_ _)m

_ 寝仔 (2017-01-18 21:52)

本来書こうと思っていた書き込みをします。 ここに来たら別のことを書いていってしまいました。 秋に新しいお店、繁忙期など、たくさんお忙しいと思いますが、雪雪さんは、お元気ですか？ 私はぼちぼち元気です。 仕事につくことができたら。それまでしばらく、もう少しぼんやりせずに身体を動くようにしていけたらなと思っています。 今までもしも深く傷つけ続けていたのなら心からごめんなさい。 それでは

_ 寝仔 (2017-08-22 21:31)

雪雪さん、こんばんは。 本を置いて行きます。 「最後の辺境──極北の森林、アフリカの氷河」水越武（中公新書）カラー版 本屋さんの面出しで出会いました。お守りみたいな本です。

_ 寝仔 (2017-09-27 18:40)

言葉が鏡、だったのですね。 （私の脳はサーキットに耐えられないので、今はこの表記で） 私は鏡を見える状態で部屋に置きません。そして普段はあまり見ません。 それはの向こう側にこそ正視できる世界があるような感覚を後天的に身につけたからです。 （とはいえそれは怖いもの。たとえばカーペンターの映画のように） 人間と重度自閉症のあいだにいるような私にとっては、人間と類人猿のあいだの認知、知覚、意識、そして言語、「ANK」に出てきた自己鏡像認識とは別ですが、鏡像段階の機能について、 その他にもぼやぼやぼやと拡散しております。 （遺伝子について私がふれないのは、知識不足もありますが、それに対する認知の歪みがありそうです）

_ 寝仔 (2018-04-22 22:39)

「シュレディンガーの猫を探して」フィリップ・フォレスト（河出書房新社） フォレストさんの本はいつもかなり近くの軌道をかすめて行きます。 雪雪さんの本を追いかけているうちに自分の読書を見失っているのではないかと、時々思い、町の地図とにらめっこしながら本屋さんを巡る旅をまたしてきます。 私のなかの道しるべは頼りないですが、雪雪さんがたくさんの人にそっと寄り添うような本を送り出し続けてくれた一年間に支えられ生きました。 そのことを大切に思っています。 おみやげ楽しみにしていて下さい。