雪雪／醒めてみれば空耳

_ 『電脳コイル』は天沢退二郎の闇黒児童文学へのオマージュである聞いて、それはもう聞き捨てならない話なので、すぐにノベライゼーションを開いてみると、なるほど対照的な少女二人（一人が天沢姓で名の読みがおなじ）が軸になるところも、見えないものを見る道具立ても舞台設定も天沢臭芬々たるものがある。アニメのほうは５分ほど見たことがあり、たいへんおもしろかったが、そのときは天沢臭を嗅ぎ付けなかった。あんまり黒くなかったし。

天沢成分は常に不足しているのでノベライゼーションが代償になればしあわせだと思ったが、残念ながら臭いまでで味はしなかった。コミックにも手を出してみたが、こちらはもっと臭わなかった。

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天沢世界の再現が困難であるのは、文体の夢幻性が卓越しているからだ。夢幻的という惹句で括られる作家群には度を越した名文家が目白押しなので、そのなかで天沢は目立って文章がうまいというわけではないと思う。しかし、こと夢の質感を現世に喚び出す力においては、他の追随を許さない。

明識的な意識の外のことだから確言はできないけれども、天沢を読んでいるときには、覚醒時には眠っているはずの、夢の人格が目覚めてくる。脳の、夢を司る部位が、眠っていると思い込んで活動を始めるのだろうか。

生れ落ちた世界に適応するために、覚醒時の私たちの心は、この現世用にカスタマイズされた人格を使っているけれども、夢の中で現世から離脱すると、私たちの人格は退行する。つまり、まだこの現世に応じて象られ終わっていない心に戻る。洗練され固着した世界観は普遍の方向にほとびて、心理的社会的な抑制は弛み、物理法則は柔らぐ。

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天沢を読んでいないとき、ふいに、天沢を読み返したくなる。もし、手許に天沢がなかったら、その欲望は禁断症状と言っていい強度まで昂進するだろう。

天沢を読んでいるとき、ぼくは過去に想いを馳せることとは異なる懐かしさに囚われる。そして常ならば存在しない方角が、心のなかにあらわれるのを感じる。覚醒したまま、夢の中では水準が低下している知性と判断力が、活性を保ったまま夢を見ているからだろう。

帰郷。

生れ落ちなかった世界への帰郷。

それは叶わないのだが、生れ落ちなかった世界への方角、通常、覚醒時にはけっして開かれることのない方角を、ぼくは望むのだ。

目の端で。

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天沢作品の中でももっとも構成が整ってわかりやすい『オレンジ党と黒い釜』が、ぼくにとっていちばん頼りになる地図であるのは、おなじ方角に長く歩くことができるからだと思う。

_ 「すごくがんばったことをほめられたら、うれしいでしょう。でもね、『えっ、こんなことで？』と思うようなこと、『ふつうのことだよ、ほめられるようなことじゃないよ』そんなふうに思えることで感謝されることがあったら、もっとうれしく思いなさい」

これは、ぼくの母の教えである。

「だって、あなたはがんばらなくても、いつでもその力が出せるんだから。そういう力があなたのほんとうの力で、いちばん頼りになる力なんだよ」

この言葉をもらって二十年以上経つけれど、時を経るごとにありがたく思う。

母はもう忘れているだろう。きっと、なにげなく、ふつうの気分で言ったのだろうから。

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このごろ夢をみない。本棚に、買った憶えも借りた憶えもない本が増えてゆく。読んだ憶えもないが、内容が印象に残っている。きまって長く奇妙なタイトルの、読後感しかない本。それが本と本のあいだに生まれる雛だとすれば、両隣の本が両親なのか。その憶えのない本を一冊、棚から抜いて見当違いのところに戻すと、読後感が変わる。心細く変わる。

_ 久世光彦、日野啓三、小川国夫、森茉莉、スタインベック、フォークナーあたりがお好きなＹさんは、引退なさって今は悠々自適、読書三昧の日々である。週に三度ほどのペースで御来店されて、渋いところを拾ってゆかれる。「さいきんの作家にはとんとうとくて」とおっしゃるので、Ｙさんのお好みから勘案してお薦めした松浦寿輝、堀江敏幸、辻原登あたりは気に入っていただくことができた。

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夕刻のみどり書房に、Ｙさんから電話があった。物静かなＹさんの、声の音量がいつになく大きい。「今ね、辻原さんの『夫婦幽霊』、読んでいるところなんですが。いやー、これはおんもしろいねえ。お忙しいだろう、お店でお会いしたときにしようと思ったんですが、読み進めば読み進むほどおもしろくて耐え切れず、この感動を分かち合いたくて思わず電話してしまいました。ごめんなさい」いえいえ。わざわざありがとうございます。今日の私は幸福な書店員です。

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「こないだ薦めてもらったあの本、よかったよー」と言われたことは何度もあるけれど、読んでいる最中に電話をもらったのはお客様では初めてである。

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薦めておきながらぼく自身は読んでいなかったので、そんなにまでおもしろいのかと手にとって冒頭数十ページをさらっと読む。うわ。これは滅茶苦茶おもしろいわ。落語にはてんで造詣のないわたくしでもずるずる引き込まれる。腰巻で編集者が「当代一の小説家」と言い放っているけれども、それはさほど大袈裟ではないなあ、というのは今初めて思ったわけではないけれど。

導入部のぞくぞくする展開は、なにかを思い出させる。あれだ。以前紹介した森下典子『前世への冒険』。あの本の解説ではいとうせいこうが「無類のおもしろさ」と評していて、ぼくもそれには同意だったが、これでついに無類ではなくなってしまったぞ。