_ 12月の27日と28日、仙台にいるあいだ各方面にご返事をするはずであったが、一行も書けなかった。
などということを今頃書いている。そういう体たらくである。
ごめんなさいです。
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調子というものの道のりにもいろいろあるけれど、少なくとも絶好調から絶不調までの単線的な段階ではない。書くに逸って、構想するより早く書き進んでしまえる時期であっても、かえってあらかじめの目途に沿って書こうとすると、ちっとも捗がいかない。
と、いうようなことはこうして書けているのだが、特定の誰かに向けて書こうとすると、はたと踏み迷ってしまう。
どこかなにかえらく調子が良いときには必ず、表裏をなしてどこかしら絶不調である。
否も応もなく、たっぷり重しが付いてしまった。沈めるだけ沈んだら、浮かび上がってきます。
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「沈む」、といえばローラ・カシシュケ『沈みゆく女』(角川書店)はすごい小説でした。手のなかで暴れ出すので読みにくい。『真鶴』に倍して読み進まない小説で、いつ読み終わるやも知れません。
うかうかしていると意識が本の外まで弾き出されてしまうような、圧力の高い比喩と比喩が、たがいを圧迫してどよめき、本を読み進んでいる場合ではなくなる胸騒ぎがして。こんなにも鮮烈に小説が書かれ得るのは、あんまりではないか、という気がしてきます。書く方にとっても、読む方にとってもです。
本の中から噴き出してくる風圧をからだで抑えて、しっかりつかまって読む。これは痩せる。
そんなことを言いながらも、心の切れ端がかさこそと、紙屑のように読んでいるぼくと本のあいだからさまよい出てゆくのを、横目でちらっと見るのはたのしい。
地球上にあるすべての三角波を数える宿題を終える。
みふみちゃんに電話をして答え合わせをする。ぴったり合ったので二人とも安心する。
ほっとしたねえ。
心配して待っていた三角波たちも安心して、一斉にさよならを言う。
さよなら。
ひと呼吸だけ海はすべすべに平滑になって、次の瞬間には次の世代の三角波が尖り湧き上がり、錯雑たる世代交代がたちまち海面を擾乱する。
三角波の系図をいちど、見たことがあるけれど、宇宙より大きな紙に書かれていました。
_ 文藝春秋の新企画、現代作家の自撰短編集シリーズ『はじめての文学』の、今月の配本はよしもとばなな。
たった七編の収録作の中に「ともちゃんの幸せ」が含まれていて、それは意外な、うれしい驚きだったが、ぼくは不安だった。その目次の示すページに、あの「ともちゃんの幸せ」があるかどうか、不安だった。
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アンドリュー・ワイルズは、長い間、そこに籠めることのできるすべてを投入してきたフェルマーの定理の、最終的な解決に到達した翌朝、幸福感ではなく不安の中で目覚めた。達成したことがあまりに大きく、それがあまりに長い間渇望してきたことだったために、昨日のことが、まさしく夢としか思われなかったのだ。
あんなことが本当に起こったのか? 信じられない。
彼は勇気を奮い起こし、重い荷物のように自分を、研究室の机の前にまで運ぶ。そして見る。
それはあった。本当に存在していた。
ワイルズは、フェルマーの定理の証明を発見した翌朝、自分がフェルマーの定理の証明を発見したことを発見した。
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ぼくはよしもとばななの「ともちゃんの幸せ」を単行本で読んだので、文庫本を手に取るときには少し勇気がいった。
「ともちゃんの幸せ」は勇気を持って書かれたものだと思う。思い切って書かれたものだと思う。あの、不安定な、終わっていない物語は、作者の中でも終わっていないはずで、書かれている最中のように迷われ続けているはずだから。
あの作品を、あのままにしておくのに、作者は耐えられなくなるかも知れない。そう思えたのだ。
文庫のときは大丈夫だった。今にも壊れそうな物語は、壊れずにそこにあった。
_ でも安心はできないのだ。あれはいつだって、まだ終わっていないのだから。
『はじめての文学 よしもとばなな』の目次に、「ともちゃんの幸せ」があるのを見つけたとき、うれしかったけど不安だったのは、そういうわけなのだ。
気がかりな場所ははっきりしている。ぼくはその一節にまっすぐ進んだ。
それはなかった。
あの唐突な語りが始まるその冒頭で、物語をぐらりと傾かせていた破格の四行が、きれいに削除されていた。お話のすじみちはなにも変わっていない。作者のメッセージも変わっていない。むしろ流れは少しく自然になり、完成度は高まったのかもしれない。しかしこれはもはや、微妙にバランスを欠いた、心持ち斬新な傑作にすぎない。
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終わらない物語は、支流を伸ばし、繋がり、伏流し、思わぬところに湧出する。そしていくつかの流れは涸れる。いま水源の近傍で主要な流れがひとつ涸れた。ひとつ涸れたにすぎないと言うこともできる。しかし水源に近過ぎる。
たくさんの人が、『はじめての文学』ではじめて「ともちゃんの幸せ」に出会うだろう。それは、残念である。残念ではあるが、ともちゃんに幸せと不幸せがあるように、「ともちゃんの幸せ」にも幸せと不幸せがある、ということであろう。
一読者であるぼくはせめて、このような文章を書いて、「ともちゃんの幸せ」の幸せを祈るばかりである。
役所だましいのある市役所が生きたまま、嵐の後の浜に流れ着き、意気に感じた沿岸の住民が急ぎでもない用事を捻り出しては、納入だの申告だのに出向く。市役所は利発で対応も良く、たちまち人気者になる。
元からあった村役場は寂れて、村が一足飛びに市に昇格してゆくのを、引き留める術もない。
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いつも顔にぴったりと貼り付いている世界を、面のように外して、世界の向こうに晒す素顔に、触れてくる風。もしくは素顔に吹かれて起こるそよぎ。
その偏移と流動を獣道として、粘膜の幼獣が走る。触覚と嗅覚と聴覚という持ち場を離れ、絞り上げる喉を得て、自己主張をしながら。
走り去る仕草をつくる足の裏が、夜襲の着弾のように、瞬きながら遠ざかる。
その後姿を見届けるために、視覚は残る。
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