◆夜夜中◆
地表面のもっとも太陽に近い一点を昼日中点と言い、その真裏、太陽から最も遠い一点を夜夜中点と称ぶ。夜夜中は自転の速さで地表を走る。その軌道を黒道と称ぶが、これは陰転して陽背半球を通るときの呼称であり、陽転して陽面半球に入れば白道と称び名は替わる。黒白道と赤道は年二回交わり、これを春分・秋分と称ぶ。
視程の及ぶ限り灯りの無い広野をえらび、黒道上に立って夜の更けるを待つがよい。
あなたは、地表の一点から天頂を差してまっすぐに伸び、高空で星光に触れて薄れる直線が、夜の闇を切り裂いて迫るを見る。振り下ろされる刀身を正面から見るように。それは夜闇の中でなおしるく、眼線が沁みるほどに深い黒の垂線。
怖じることなく踏みとどまれば、夜の中の夜が、あなたの眼と眼のあいだを通る。その刹那、磨きぬかれた夜は、光以外のすべてを映してみせるだろう。それはあたかも、線状の鏡のように。
◆郡山市営バス海岸線◆
バスで着くのならば馴染みの街であろうと見越しておとなしくしている。
停留所に止まっていないのに、乗客が微妙に増減している。後ろのほうにかたまっている濡れそぼった人たちは特に、何人いるのか数えようとすると、その数える勢いで増える。
床には無数の乗車券が散らばっている。かしこまった落ち葉のように張り付いて、人の老いのしるしのように、黒ずみの濃淡で世代がわかる。
バスの加減速の緩急が、エンジンの唸る音の旋律に遅れ気味で、歌に合ってない歌手の口パクを見ていた日のことを思い出す。
それがきまりなのかはやりなのか、乗客のうち、見当五歳以下の女の子は全員、いっしんに万華鏡を覗き込んでいる。万華鏡で運転しているつもりなのかもしれない。
湿ったバスに前後に揺られながら、揺られない自分の考えを頭が、追い越したり追い越されたりする。忘れかけ、忘れ切らぬうちに思い出しかけ、思い出し切らぬうちに忘れかけ、揺れながら揺さぶられて揺らいで、乗客たちはひとりひとりが崩れることのできない波頭であり、運転手の切り回すハンドルだけがひとり、渦の夢をみている。
バスが擦れ違う通行人はそのとき、海と擦れ違ったと思い、振り返り、四角い海岸線が遠ざかり小さくなるのを見送る。
_ こわい、すごい、でかい、はやい、かっこいい、かわいいについては、早くから会得していた。しかし「美しい」は難しかった。美しい景色も、美しい人も、美しい色もとんと疎かった。「美しい」はだいぶ遅れて学んだ気がする。世界の、予想外の側面を学ぶと共に「美しい」がわかっていった。たぶん人は、「美しい」と口に出した日から大人になり始める。
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紺野キリフキを読んでいるときのたまらない懐かしさは、おさなくて自己中心的で能天気な子どもの世界観にとって、長ずるにつれて露わになる世界の実相が、あまり予想外でなかった場合の世界に似ているからかもしれない(じっさいには予想外であるが)。
まだ「美しさ」を悟りきらない頃、ゆえにその対概念としての「醜さ」についても視野が狭かった頃。
紺野キリフキの世界では、たとえ「美しい」という言葉が使われても、ときに人を打ちのめすような強度を持つあの「美しさ」は存在しない。むしろ、強烈にかわいい。心臓を鷲掴みにされるほどかわいい。
各方面で『ツクツク図書館』(メディアファクトリー)の評判がよくて、同僚のIさんなどは「それほど読んできたわけではないですけれど、今までで一番です」と言うので心配になった。紺野キリフキは前作の『キリハラキリコ』(小学館)のほうが数段傑作であり、『ツクツク図書館』の三倍かわいく、五倍せつないので、『ツクツク』をそんなに気に入った人が『キリハラ』を読んだらどうなってしまうのか、と思うからである。
大人であるぼくの理性は、「こんな凡庸なエピソードがどうしてこんなに胸に迫るのか」と不審に思う。読み終えてしばらくすると、印象は薄れる。幼稚でふわふわした甘っちょろい話だったなと思う。そして、うかうかと読み返してまた泣きそうになる。
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2007の本屋大賞の冊子を見ると、一次投票で『キリハラキリコ』に3点入っている。明屋書店東予店の渡辺明人さんの推薦文が紹介されているが、文面からすると一位(つまり3点)に選んでいると思われるので、投票者はたった一人、そしてその一人が年度ベスト1と評していることになる。
きっと、一般的にはそこまでの作品ではない。でもキリハラキリコが2年7組の教室に行こうとして、うその2年7組に行ってしまうタイプだったように、『キリハラキリコ』を読むつもりで、『うそのキリハラキリコ』を読んでしまうタイプの人が、たぶんいるのだ。
_ 中学一年生のとき、班日記に「どうしてぼくはぼくなのだろう」ということを書いた。やさしかった担任の先生は「中学生ぐらいの頃は誰でもそういうことを考えるものです。先生も考えました」という返信をよこした。ぼくは「ぼくの考えている『どうしてぼくはぼくなのだろう』は、あなたの考えている『ぼくはどうしてぼくなのだろう』ではない」と思った。なぜならその当時、誰もがそういうことを考えている徴候は、世の中に見出せなかったから。ぼくにとっていかなる問題にも増して枢要であると思えるこの問題に、実生活でも書物でも、誰かが言及しているのに出会ったことはなかった。かと言って、いざ自力で言わんとしてみると、「その話ではない」とは言えても、「この話です」と言う方法がないのだった。
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書店の店頭で、レヴィナスの『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』を見付けたときには、どきっとした。このタイトルならきっとあのことについて書かれているにちがいないと思った。それはすごい本だったが、残念ながらずっと探し続けていたあの本ではなかった。柄谷行人の『探究Ⅱ』が、「私は十代に哲学的な書物を読み始めたころから、いつもそこに『この私』が抜けていると感じてきた」という一文で書き出されたときには、ついにあの話が始まると思った。しかしどこまで読んでもかすりもしないのだった。
ひとりウィトゲンシュタインだけが、灯し火のような存在だった。彼は、明白に「あの問題」を察知しているように思われた。けれどもルートヴィヒは、この問題に多言を費やしてくれない。語り得ぬことだから。
そしてぼくは高校二年生の二階堂奥歯と出会う。出会って間もない頃、喫茶店で好きな本の話などしているとき、脈絡なくとつぜん「ひとつ質問していいですか?」と彼女が言った。周囲の温度が、すっと低まる感触があった。「いいよ」
「独我論って、反駁できるんでしょうか?」
「できないね」
「え? そうなんですか?」彼女は眼をぱちくりした。「あー、そうなんだ、そう考えていいんだー」ぱっと明るみ、次いでほっとしたように緩んだその表情が多くのことを語っていた。質問がこのかたちになるまでに、いろいろな経緯があったにちがいない。
彼女も、どうにかして、あの話がしたかったのだ。
ぼくは今も、大切な本をひもとくように、その表情を読み返す。
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奥歯が仙台を離れ大学に行ってすぐに「雪雪さん、永井均って知ってますか?」「いや」「ウィトゲンシュタインが好きで永井均を知らないのはモグリだそうですよ」という電話での遣り取りがあった。そのときは、ふーん、とりあえずチェックしておくか、くらいに思っていた。インターネットが完備していなかったあの頃は、奥歯やぼくのような異様な本好きが、すでに四冊の単著があった永井均を知らずにいることも可能だったのである。
その翌日のこと、「奇縁」という言葉を思い浮かべてしまうタイミングで、他でもない『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)が新刊として入荷してきた。それを手に取り読み始めたときの驚きは、書物から蒙った驚きのなかで最大のものだった。言う方法がないはずの、「あの話」が始まったのだ。
今はない昔の勤務先、丸善仙台一番町店の、新刊陳列台の前でこの本のページを繰っていたとき、喧騒は遠ざかり周囲の景色は闇に退いた。曲がりくねった隘路しかなかったぼくの内面の視界は地質学的に開けていった。そして、望んでいたより遠くまで開けた。
「こんなところに通れる道があったなんて」後に奥歯とぼくは、そういうふうに感嘆しあった。
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永井均を師と仰ぐ作家として登場してきた川上未映子には、むろん興味を引かれた。『わたくし率イン、歯ー、または世界』を読んだが、追いかける気にはならなかった。そもそも永井均と埴谷雄高の両方に私淑できる、というスタンスは頼りなく感じる。
たとえば埴谷雄高の看板のひとつ「自同律の不快」が、ぼくは不快でならない。わがままだなあ、と思う。自同律の恩恵を思いっ切り享受しながらでなければ「自同律の不快」を切実に表明することはできない。親の脛を齧っていながら、小遣いの少なさを大問題のように語る大人。きもちわるい。
「子孫を残さない」ことを玉条とし、「子どもが欲しい」という奥様の真摯な懇請を聞き入れず、幾度も妊娠と堕胎を繰り返させていたことも、哲学的というよりは思想的、思想的というよりは備わった傾向性を止揚できず、弱さを思想に転嫁する幼稚さを感じる。避妊しろよ。でなければセックスすんな。
もちろんこの文言は、埴谷雄高の作家性を否定しようとするものではない。比類なくすばらしい作家だと思う。ただ、哲学を期待して読むと残念だ、というだけだ。固有の、独特の、魅惑的な視野から離れることができない不自由さが読みどころでもあるのだろうが、哲学からは遠く思える。
永井均の『西田幾多郎』の結びにこうある。
「西田哲学に対する誤解の原因は、西田自身が境地的自己理解と哲学的洞察を——当人にとっては当然のことなのだが——分離できなかったところにあるように思われる」
如上の言葉遣いを借りて言えば、埴谷は徹底して境地の人であったし、「境地的自己理解と哲学的洞察の分離」などということには頓着しなかったであろう。それは批判すべきところではない。だからこそ哲学者ではなく小説家だったのだろうから。川上未映子の資質も、永井よりは埴谷に近い。いつかすごい境地を見せてもらえたらと思う。
埴谷雄高が出てくると連動して想起される池田晶子も不自由な人であった。頑固一徹。その妥協なき人生観はすがすがしく、彼女のエッセイを読むとしゃきっとするところがあってとても好きだが、哲学的には独自の達成はなにもなかったように思う。哲学とは、苛酷なまでに徹底的な譲歩であろう。つまり断固として頑固でないこと。むろんそれは完遂はできないし、あまりにも柔軟だとかえって別の意味で不自由になるので、どこまでいっても目差す方角に過ぎないが。
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_ 生き続けていくことはほんとうに難しい。
実に鼻持ちならないと思うが、ぼくは自分自身の思いつくことや見つけ出すことにとても関心があるので、自分が死んでしまわないように地道に手当てをしてきた。その手管も経験によって磨かれてきた。しかし齟齬は残る。
誰かに対してメールするのが容易でない。苦痛は伴っていない。むしろメールしたい欲望があるのだが、実行できない。なにがそういうふうに作用しているのか理解はしているつもりなのだが、解決できずにいる。経緯はまったくもって私事であるから、説明はできないけれども。
こういう状況において、メールを求められることがプレッシャーである、ということもなくて呼びかけてもらえることは、むしろ嬉しく、元気づけられる。しかしやはり、レスポンスのタイミングが延々遅延してゆくことは申し訳なく思う。
無理はしない。無理をしないために、誰かに迷惑をかけたり期待を裏切ったりすることもままあるのだが、そのことは気に病まないことにしている。気に病むと危険だから。ごめんなさい。
もっぱらインターネットでしか繋がっていない大切な友人が幾人かいるが、ほぼ御無沙汰している。「大切にされていないなあ」と思われても仕方がないところだ。それぞれにいろいろな想いがあろうと思う。ぼくを見守ってくださっている人たち、目の端に引っ掛けてくださっている人たち、ほんとうにありがとう。
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もちろんぼくだけが突出してそうであるわけではないし、こういうことを口に出すのははしたないと思うが、ぼくは物凄く寂しがりやであって、理性の眼では、べつだん孤独でも不安でもないと分かっていても、ときに強い孤独感や不安感に捕えられる。
そのただ中にあるときは、これほど耐え難い精神的苦痛にどんな意味があるのかと思う。たとえば肉体的外傷の痛みは、ストレートに耐えることができる。耐え切れなければ喚くこともできる。対して精神の苦痛は、抵抗する意志さえ痛みに寄与する。我慢しようとすることさえ苦痛で、痛みを小さくする手立てもないまま、屈服し、降伏し、赦しを請い続けるほかない。諦めることでしか遣り過ごせない痛みであるから、時間が経過するだけで、命の芯が削り取られてゆく。雄々しく立ち向かうことができない敵。だからこそ、痛みから逃れ得ているときも、不安への不安、恐怖への恐怖、苦痛への苦痛がついてまわる。
体の痛みは心の力で耐えることができる。心の痛みは、その耐える力じたいの痛みなのだ。
不幸だからそうなっているわけではないから、幸福によっては癒されない。そもそもぼくは、ずっと幸福だったし、生きているということはじつにおもしろいことであるなあ、と思っているのだが。
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いろいろなことを学んで、考えているうちに、最近はだいぶ楽に生きられるようになった。
たとえば哲学は、自分から離れてゆく方法である。ぼくは癒されたわけではなく。痛みの遠くにいるだけだと思う。遠くからみれば、なんだって小さく見えるのだ。痛みとともに、現実も小さく見えてしまうことが、難点といえば難点かもしれない。
「小難しいことばかり考えているから死にたくなるんだ」というふうなことを言われたことがある人はたくさんいるだろうし、ぼくも度々言われたが、考えていなかったらもう死んでいるだろう。
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ここではないどこかを、もっとも遠いところを、目差しがちな人はやはり遠くに行く必要があるのだと思う。
ここではないどこかが、ここではないどこかに、とりあえずあることはさいわいである。
景色はとてもよい。
_ 2月24日に書いた「特撮ヒーローフェア」は、動きが鈍らないのでまだ引っ張っている。
実は、このフェアより反響の大きいフェアを並行して挙行中で、題して「いろんな意味で世界観(もののみかた)が変わる本」。
この看板なら、ぜひ読んでもらいたいと思う本を思いっ切り突っ込むことができると思ったし、この際ぼくの眼からウロコを落としてくれた本たちを可能な限り呼び集めた。誰かの眼からウロコを落としたという評判の本を加えて有名無名新旧とりまぜおよそ二百点。
『心の社会』マーヴィン・ミンスキー(産業図書)
『心の起源』木下清一郎(中公新書)
『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ(紀伊国屋書店)
『アメリカン・チャイルドフッド』アニー・ディラード(パピルス)
『脳の中の幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー(角川書店)
『徴候・記憶・外傷』中井久夫(みすず書房)
『火星の人類学者』オリヴァー・サックス(ハヤカワ文庫)
『転校生とブラックジャック』永井均(岩波書店)
『自閉っ子、こういう風にできてます!』ニキ・リンコ、藤家寛子(花風社)
『記録を残さなかった男の歴史』アラン・コルバン(藤原書店)
『定本想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン(書籍工房早山)
『ユーザーイリュージョン』トール・ノーレットランダーシュ(紀伊国屋書店)
『いかにして神と出会うか』ジドゥ・クリシュナムルティ(めるくまーる)
『サブリミナル・マインド』下條信輔(中公新書)
『もしも月がなかったら』ニール・F・カミンズ(東京書籍)
『光速より速い光』ジョアオ・マゲイジョ(NHK出版)
『宇宙をプログラムする宇宙』セス・ロイド(早川書房)
『トポロジカル宇宙』根上生也(日本評論社)
『魂の殺人』アリス・ミラー(新曜社)
『冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行』ジム・ロジャーズ(日経ビジネス人文庫)
『あなたのTシャツはどこから来たのか?』ピエトラ・リボリ(東洋経済新報社)
『アホウドリの糞でできた国』古田靖(アスペクト)
『AV女優』永沢光雄(文春文庫)
『究極の身体』高岡英夫(講談社)
『移植病棟24時 赤ちゃんを救え!』加藤友朗(集英社)
『その数学が戦略を決める』イアン・エアーズ(文藝春秋)
『ちくま評論選』岩間輝生・編(筑摩書房)
『哲学ファンタジー』レイモンド・スマリヤン(丸善)
『人生を完全にダメにするための11のレッスン』ドミニク・ノゲーズ(青土社)
『この人と結婚していいの?』石井希尚(新潮文庫)
『ムーたち』榎本俊二(講談社)
『わたしは真悟』楳図かずお(小学館)
などなどなどなどなど。
わたしが客なら、通りすがりに眼が点になり、時が止まるラインナップである。例によってぼくの都合により、読んだことはないが手に取ってみたかった本もまざっているし。
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「クリスマスプレゼントフェア」と入れ替わりにスタートし、このフェアから売れて行った本は、延べ千二百冊を超えた。正直、こうなるとは予測していなかった。一年半前に新桑野店が開店した頃は、郊外店の一般的なイメージそのままの、雑誌・コミック頼みの売上構成比で、人文書やポピュラーサイエンス系統は、仕掛けても仕掛けてもくすぶりこそすれ燃え上がることはなかった。
気がつけば二月の、たとえば科学部門は対前175%。結果がついてくると俄然やる気が出てくるなあ。
何度もリピートして、いろんな本を買ってくれる御客様もいるし、「世の中にこんな素晴らしい本があるなんて知りませんでした」と言って、おなじ本を贈り物として何冊も買ってくださる御客様もいる。うれしい。ありがたい。
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いくつかの本が、ぼくという人間を、読む前の自分には二度と戻れない程度に変えてしまったように、このフェアから旅立っていった本が誰かを変えてしまうかもしれない。ぼくの力は知れたものだが、それでもぼくが郡山に来なければ、この千二百冊のうちほとんどは、このタイミングでこの街に散ってゆくことはなかっただろう。そして本たちの力は小さくはない。
ぼく自身、日々あたらしい本に出会ってゆくので、フェアのラインナップも少しずつ変わってゆく。わくわくしながら追加発注する。発注される本たちも、わくわくしてくれているとよいと思う。
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陳列されるときには、本もどきどきしているような棚をつくりたい。差される本が両隣の本に「はじめまして」とあいさつするような。
並んでいる本が元気で、本の声や目配せが御客様に届く。それが本屋本来の活気というものだと思う。
_ 比較的マイナーであるがすばらしい本を、地道に売っているとしばしば、最後の一冊まで売り切ってしまう、ということが起こる。
「売れたー!」喜んで追加発注しようとしたとき、品切だったり絶版だったりしたときのショックは、常に心の準備をしていても大きい。
うちの店に在庫はあっても、版元ではすでに品切という本もざらにある。そのうちいくつかはおそらく、新刊書店で買える日本最後の一冊である(御客様のなかには、自分の持ち物でないものは大事に扱うという習慣がない人もいて、そういう一冊の帯が千切れていたりカバーがずれたまま棚に捩じ込まれてひしゃげていたりすると、一瞬で胃炎になりそうになる)。
この種の本は各担当者に「これだけは返品しないでね」と頼んでおくのだが、きりがないのでぜんぶを憶え込んでもらうことはできず、たまに返品されてしまう。そういうとき往々にして、版元の在庫表示は「品切」から「在庫あり」に復帰したりせず、闇から闇に葬られてしまう。無念である。
22日にフェアのラインナップの一部として挙げた本の中にもそういう稀少な本があって、気が付く方なら「あれをまだ持ってるのか」と思われたかもしれない。それがどれかを明言すると、僭越な言い方になるが、その本とあまり御縁のない方が「とりあえず」買ってしまうのではないかというおそれを感じるので内緒だ。
今回のフェアで品切まで売り切ってしまった本も、すでに何点かある。うれしいようなかなしいような。
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品切になってしまった本を、営業さんにしつこくしつこく「刷って刷って刷って、がんばって売るから刷って」と涙目でお願いしているとたまに刷ってくれる奇特な、というか血迷った版元さんもあるが、そういう御恩は忘れていません。まことに微力ながら末永く応援させていただきます。まことに微力なんだけどね。
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_ 今日は、リチャード・ブローティガンの『芝生の復讐』が、新潮文庫から復刊された。それは奇跡と言ってよいが、大袈裟に言祝いでいるわけではない。
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人生には奇跡しか起こらない。どんなに変わり映えのしなく思える人生も、ちいさな偶然やなにげない選択をひとつ足したり引いたりするだけで、まったく異なった人生になってしまう。
いろいろなヴォネガットが、カフカがゴッホがガロアがソクラテスが、マイケル・シェンカーが存在したはずである。
生命が奇跡であるというよりも、生命は奇跡を検出し保存するシステムである。人生は無数の奇跡による巨大建造物だ。
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世界が多世界に分岐し、いろいろなブローティガンが存在するとすれば、ぼくたちの世界のブローティガンは、すごく純度の高いブローティガンだと思う。ブローティガンの中でもほんとうに稀少なブローティガンだった(それは、このブローティガン自身にとっては、幸運ではなかったかもしれないけれども)。
『芝生の復讐』を読んでいると、読者は少しブローティガンになってしまう。ブローティガンの中でも特別なブローティガンの心にだけ映じたものを、ちらりと垣間見る。
ブローティガンになってみる必要のある人は、たくさんはいないかもしれないが、『芝生の復讐』をそれと知ってあるいはそれと知らずに探して訪れた御客様に、『芝生の復讐』を手渡す事が出来ない書店は不完全な書店だ。昨日まで、不完全な書店しかなかったのだ。
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最後の審判の日にもしも、神様がみどり書房に来たら、特別な日だからひさしぶりに髭をあたってさっぱりした神様に、『芝生の復讐』をおすすめする。
神様にとってぼくたちの一瞬は永遠にひとしいから、すぐに読み終わるだろう。
神様の表情はぼくには計り知れないけれど、勇気を持って質問してみる。
「この作家は自殺したんですけど、この人を地獄に送るの?」
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