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雪雪/醒めてみれば空耳

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2008-03-12 「自同律の不快」の不快

_ 中学一年生のとき、班日記に「どうしてぼくはぼくなのだろう」ということを書いた。やさしかった担任の先生は「中学生ぐらいの頃は誰でもそういうことを考えるものです。先生も考えました」という返信をよこした。ぼくは「ぼくの考えている『どうしてぼくはぼくなのだろう』は、あなたの考えている『ぼくはどうしてぼくなのだろう』ではない」と思った。なぜならその当時、誰もがそういうことを考えている徴候は、世の中に見出せなかったから。ぼくにとっていかなる問題にも増して枢要であると思えるこの問題に、実生活でも書物でも、誰かが言及しているのに出会ったことはなかった。かと言って、いざ自力で言わんとしてみると、「その話ではない」とは言えても、「この話です」と言う方法がないのだった。

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書店の店頭で、レヴィナスの『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』を見付けたときには、どきっとした。このタイトルならきっとあのことについて書かれているにちがいないと思った。それはすごい本だったが、残念ながらずっと探し続けていたあの本ではなかった。柄谷行人の『探究Ⅱ』が、「私は十代に哲学的な書物を読み始めたころから、いつもそこに『この私』が抜けていると感じてきた」という一文で書き出されたときには、ついにあの話が始まると思った。しかしどこまで読んでもかすりもしないのだった。

ひとりウィトゲンシュタインだけが、灯し火のような存在だった。彼は、明白に「あの問題」を察知しているように思われた。けれどもルートヴィヒは、この問題に多言を費やしてくれない。語り得ぬことだから。

そしてぼくは高校二年生の二階堂奥歯と出会う。出会って間もない頃、喫茶店で好きな本の話などしているとき、脈絡なくとつぜん「ひとつ質問していいですか?」と彼女が言った。周囲の温度が、すっと低まる感触があった。「いいよ」

「独我論って、反駁できるんでしょうか?」

「できないね」

「え? そうなんですか?」彼女は眼をぱちくりした。「あー、そうなんだ、そう考えていいんだー」ぱっと明るみ、次いでほっとしたように緩んだその表情が多くのことを語っていた。質問がこのかたちになるまでに、いろいろな経緯があったにちがいない。

彼女も、どうにかして、あの話がしたかったのだ。

ぼくは今も、大切な本をひもとくように、その表情を読み返す。

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奥歯が仙台を離れ大学に行ってすぐに「雪雪さん、永井均って知ってますか?」「いや」「ウィトゲンシュタインが好きで永井均を知らないのはモグリだそうですよ」という電話での遣り取りがあった。そのときは、ふーん、とりあえずチェックしておくか、くらいに思っていた。インターネットが完備していなかったあの頃は、奥歯やぼくのような異様な本好きが、すでに四冊の単著があった永井均を知らずにいることも可能だったのである。

その翌日のこと、「奇縁」という言葉を思い浮かべてしまうタイミングで、他でもない『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)が新刊として入荷してきた。それを手に取り読み始めたときの驚きは、書物から蒙った驚きのなかで最大のものだった。言う方法がないはずの、「あの話」が始まったのだ。

今はない昔の勤務先、丸善仙台一番町店の、新刊陳列台の前でこの本のページを繰っていたとき、喧騒は遠ざかり周囲の景色は闇に退いた。曲がりくねった隘路しかなかったぼくの内面の視界は地質学的に開けていった。そして、望んでいたより遠くまで開けた。

「こんなところに通れる道があったなんて」後に奥歯とぼくは、そういうふうに感嘆しあった。

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永井均を師と仰ぐ作家として登場してきた川上未映子には、むろん興味を引かれた。『わたくし率イン、歯ー、または世界』を読んだが、追いかける気にはならなかった。そもそも永井均と埴谷雄高の両方に私淑できる、というスタンスは頼りなく感じる。

たとえば埴谷雄高の看板のひとつ「自同律の不快」が、ぼくは不快でならない。わがままだなあ、と思う。自同律の恩恵を思いっ切り享受しながらでなければ「自同律の不快」を切実に表明することはできない。親の脛を齧っていながら、小遣いの少なさを大問題のように語る大人。きもちわるい。

「子孫を残さない」ことを玉条とし、「子どもが欲しい」という奥様の真摯な懇請を聞き入れず、幾度も妊娠と堕胎を繰り返させていたことも、哲学的というよりは思想的、思想的というよりは備わった傾向性を止揚できず、弱さを思想に転嫁する幼稚さを感じる。避妊しろよ。でなければセックスすんな。

もちろんこの文言は、埴谷雄高の作家性を否定しようとするものではない。比類なくすばらしい作家だと思う。ただ、哲学を期待して読むと残念だ、というだけだ。固有の、独特の、魅惑的な視野から離れることができない不自由さが読みどころでもあるのだろうが、哲学からは遠く思える。

永井均の『西田幾多郎』の結びにこうある。

「西田哲学に対する誤解の原因は、西田自身が境地的自己理解と哲学的洞察を——当人にとっては当然のことなのだが——分離できなかったところにあるように思われる」

如上の言葉遣いを借りて言えば、埴谷は徹底して境地の人であったし、「境地的自己理解と哲学的洞察の分離」などということには頓着しなかったであろう。それは批判すべきところではない。だからこそ哲学者ではなく小説家だったのだろうから。川上未映子の資質も、永井よりは埴谷に近い。いつかすごい境地を見せてもらえたらと思う。

埴谷雄高が出てくると連動して想起される池田晶子も不自由な人であった。頑固一徹。その妥協なき人生観はすがすがしく、彼女のエッセイを読むとしゃきっとするところがあってとても好きだが、哲学的には独自の達成はなにもなかったように思う。哲学とは、苛酷なまでに徹底的な譲歩であろう。つまり断固として頑固でないこと。むろんそれは完遂はできないし、あまりにも柔軟だとかえって別の意味で不自由になるので、どこまでいっても目差す方角に過ぎないが。

本日のコメント(全25件) [コメントを入れる]
_ おさとウサギ (2008-03-12 15:38)

ほとんどこちらの都合だけで、点的に、失礼します。<br>このインターネット時代に、川上未映子が永井均を師と仰ぐ作家であることも知らなかった私、でもこのタイミングに「空耳」で永井均、そして池田昌子の名を耳にするとは…これは空耳、あるいは奇縁でしょうか。<br>この二人の全著作に目を通しているつもりの私です。<br>池田晶子氏(巫女?)については、もっと自由になればいいのにと思っていたのに、不自由なまま(むしろ時を経るにつれ不自由になり続けたまま)亡くなってしまったことを、ある感慨とともに、どこかで「そうでもあろう」と受け取ってしまったのも私です。それは、ともすれば「頑固にも断固とした態度」を選んでしまいがちな私自身への戒めでもあったのですけれど。「在るを在る、無いを無い」と認め、語ることが哲学であるならば「哲学的に独自なる達成」は既にしてありえないのかもしれない、とも思いつつ、けれどもそれをこのように語るということにおいて、誰もが「自由なことば」と対峙しなければならぬ、と改めて思い知らされます。<br>自分に備わった弱さ、幼稚さを痛感し、それでも自由でありたい、と、そう願います。<br>はい、セックスするなら避妊します!!?

_ gerda (2008-03-16 13:55)

一切、本を読めなくなってしまった自分にはこちらにコメントするシカクもないと思うのですが、ワタクシ率・・・をぱらぱら開いて即読むのをやめてしまいました。文芸誌をめくっていたときにちらりとみた某賞受賞作もやはり同様でした。世の流れの不思議さよ。自分には児童書のほうが向いているのかもしれません。(ここは往来が激しそうですが、なんとなく、つい)自分には哲学すら縁遠いものですから。

_ 雪雪 (2008-03-17 00:04)

gerdaさんこんにちは。<br>ぼくもほとんどの本は読めなくなってしまいました。けれども、触れることのできる本はたくさんあるので、たくさんの本を手に取っては置き、手に取っては置き、ごく稀に、たまたま置くことのできなかった本を読んでいます。そうして見つかる本がたとえ、百冊に一冊であっても、読み切れない数の本が残ります。

_ gerda (2008-03-17 13:06)

世の中には多読の方が星の数ほどいらっしゃいますから、前提としてこう申し上げてから書き込むべきと考えました。非常に多読でいらっしゃる雪雪さまは、最近の文芸賞受賞作やショウセツカの方に対し、どのようにお考えなのかと思ってつい深い意味もなくコメントしてしまいました。)自分は特に最近の日本のショウセツに全く手がのびなくなってしまっておりました。そう申しますと逆に自分の内の「読みたいスイッチ」がオンになったりするかもしれません。ご返答、本当にありがとうございました。(長々と失礼致しました。)

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