_ 生き続けていくことはほんとうに難しい。
実に鼻持ちならないと思うが、ぼくは自分自身の思いつくことや見つけ出すことにとても関心があるので、自分が死んでしまわないように地道に手当てをしてきた。その手管も経験によって磨かれてきた。しかし齟齬は残る。
誰かに対してメールするのが容易でない。苦痛は伴っていない。むしろメールしたい欲望があるのだが、実行できない。なにがそういうふうに作用しているのか理解はしているつもりなのだが、解決できずにいる。経緯はまったくもって私事であるから、説明はできないけれども。
こういう状況において、メールを求められることがプレッシャーである、ということもなくて呼びかけてもらえることは、むしろ嬉しく、元気づけられる。しかしやはり、レスポンスのタイミングが延々遅延してゆくことは申し訳なく思う。
無理はしない。無理をしないために、誰かに迷惑をかけたり期待を裏切ったりすることもままあるのだが、そのことは気に病まないことにしている。気に病むと危険だから。ごめんなさい。
もっぱらインターネットでしか繋がっていない大切な友人が幾人かいるが、ほぼ御無沙汰している。「大切にされていないなあ」と思われても仕方がないところだ。それぞれにいろいろな想いがあろうと思う。ぼくを見守ってくださっている人たち、目の端に引っ掛けてくださっている人たち、ほんとうにありがとう。
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もちろんぼくだけが突出してそうであるわけではないし、こういうことを口に出すのははしたないと思うが、ぼくは物凄く寂しがりやであって、理性の眼では、べつだん孤独でも不安でもないと分かっていても、ときに強い孤独感や不安感に捕えられる。
そのただ中にあるときは、これほど耐え難い精神的苦痛にどんな意味があるのかと思う。たとえば肉体的外傷の痛みは、ストレートに耐えることができる。耐え切れなければ喚くこともできる。対して精神の苦痛は、抵抗する意志さえ痛みに寄与する。我慢しようとすることさえ苦痛で、痛みを小さくする手立てもないまま、屈服し、降伏し、赦しを請い続けるほかない。諦めることでしか遣り過ごせない痛みであるから、時間が経過するだけで、命の芯が削り取られてゆく。雄々しく立ち向かうことができない敵。だからこそ、痛みから逃れ得ているときも、不安への不安、恐怖への恐怖、苦痛への苦痛がついてまわる。
体の痛みは心の力で耐えることができる。心の痛みは、その耐える力じたいの痛みなのだ。
不幸だからそうなっているわけではないから、幸福によっては癒されない。そもそもぼくは、ずっと幸福だったし、生きているということはじつにおもしろいことであるなあ、と思っているのだが。
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いろいろなことを学んで、考えているうちに、最近はだいぶ楽に生きられるようになった。
たとえば哲学は、自分から離れてゆく方法である。ぼくは癒されたわけではなく。痛みの遠くにいるだけだと思う。遠くからみれば、なんだって小さく見えるのだ。痛みとともに、現実も小さく見えてしまうことが、難点といえば難点かもしれない。
「小難しいことばかり考えているから死にたくなるんだ」というふうなことを言われたことがある人はたくさんいるだろうし、ぼくも度々言われたが、考えていなかったらもう死んでいるだろう。
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ここではないどこかを、もっとも遠いところを、目差しがちな人はやはり遠くに行く必要があるのだと思う。
ここではないどこかが、ここではないどこかに、とりあえずあることはさいわいである。
景色はとてもよい。
雪雪さんが遠くにいると知ることで、自分が生きている生活圏の距離感をより適切に見定められるような気がします。
僕はいままで哲学に興味を持った理由をうまく人に説明できず、誰の理解も得る力もありませんでした。でも、この文章を読んでその理由というか気持ちを感じてくれそうな人もいるんだなとうれしくなりました。<br>といっても僕は考えることも読むことも書くことも話すこともひどく下手で、いつも遠いところにいるように見える人に焦がれるばかりなのですが。
たとえば哲学は〜 のくだりを拝読して「はっ」としました。<br>久しぶりに、ほんとうに久しぶりに「はっ」としたので、思わずコメントさせていただきました。<br>わたしは自分からできるだけ離れることで、ここまで生き延びることができたのだと感じています。<br>ここではないどこか、のなかでは、わたし自身もただのひとりの登場人物でしかなく、そこではわたしの意識とは無関係に物語が進んでゆきます。<br>けれど幸福であることに変わりはないし、わたしが幸福だと思えば、それはどんなものであっても幸福になりうる世界を、少しだけ愛おしくも感じています。<br>ということに、雪雪さんのお言葉を拝見して、気づきました。<br>気づかせてくださり、ありがとうございました。<br>これで、明日からも、わたしは幸福であれます。
寂しがりやの雪雪さん 精神の痛みを痛みと自覚できるならその苦痛は、すこし離れてみれば、たいしたことではないと思えるでしょう。たいしたことがないと、どうしても思わなければ。意志の力で。 精神が壊れていくその恐怖を、壊れていっている当の本人は、自覚することすら見失う… それが本当の恐怖。人間は、本当の痛みのなかにあるとき、意識を失うことで救われるものだから、苦痛を感じる痛みなら、まだ臨界点からは程遠い。 その苦痛は、まだ、嗜好の域です。 声のない叫び だから雪雪さんは大丈夫です。
はじめてコメントさせていただきます。<br><br>学生時代、金もないのに高踏派気取りだった<br>私のような人間がなんとか生き残れてるのって、<br>雪雪さんみたいな腕のいい"逃がし屋"さんが<br>いてくれたお陰だと思ってます。<br><br>本当にありがとう。<br>恩返しが出来るようになるまで、<br>もうちょっと待って下さいね。
遅れて来てすみません。この記事にはお礼を言わねばなりませんでした。<br>あらためて、とおくを目指す(あるいは、眼差す)ことを心に刻みます。<br>それをしないと、何かに失礼な気がします。よく「自分に失礼」というけれど、それは自分ですらなくて。何に対してというのでもなく、ただ、そうしないことは失礼なのだろうと思います。
ここにいただいたコメントに、ひとつひとつ返信しようとすると、抜け殻のようになってしまいそうなので、諦めます。<br>でも、ぼくの中に長く痕跡を残すであろう言葉ばかりでした。しようとしていた何かをやめさせ、するとは思っていなかった何かを始めさせるような。<br>ありがとうございます。
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Aloha!lxow!
aqis!