_ 白磁の皿の端に置かれたふたつか、みっつの苺。
そんなふうに見えた。
卓越した熟練を示す、メッシの脳内。
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文芸の本領は静寂にある。
音楽が演奏されるように演劇が上演されるように文芸が読書されるとき、周囲の状況はほぼ攪乱されず、空間もさほど占有されない。黙り込むひとりの人が、世界の片隅に腰掛け、こころもち俯いてゆっくり息をし、ときおりページを繰るだけ。
絵画や彫刻も静かであるけれども、文芸とちがって時は流れない。文芸の中では、なにもかもが起きる。雛が生まれあり得ないものが育まれ世界が滅びるが、いずれにしてもごく微量のカロリーが消費されるだけだ。
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たとえばサッカー選手が、ゲームの中でボールをトラップしパスを出す。そういうありふれた動きのなかで、凡庸な選手の脳内と、最高の選手の脳内で起こっていることがどう違うか?という番組をみかけた。
最高の選手のサンプルはリオネル・メッシとクリスティアーノ・ロナウド。対照群はJ3あたりの選手たちだったと思う。
白く表示された側方からの脳画像のなかで、ふつうの選手たちの場合は、頭頂部がすこし濃くて、あちらこちらに醤油が乾いたような薄ぼんやりした赤みが広がっているのだが、メッシやロナウドの場合は、頭頂部にだけ、くっきりしとした赤い領域がごく小さく、しかし鮮やかに刻印されているのだった。そこは運動野の、足の動きを計画制御するあたり。あとは真っ白。静寂の中の、果実ぐらいの太陽。
もっとも活性化された心は、もっとも静かなのだ。
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読書することにおいても、熟練するにつれ、そういう節約的な洗練が起こってくる。読むことじたいに関するストレスは低減し、「うわー分厚いな-」と思っても尻込みしない。
瀬古利彦が日本マラソンのエースだった頃、テレビに出演するために局のクルマで送られていたが、大渋滞に巻きこまれてしまう。ほとんど前に進まない。このままでは収録に間に合わないとあって「あとどれぐらいですか?」瀬古が問う。「10キロぐらいですね」スタッフが答えると、瀬古は「なんだ、10キロですか、じゃ僕、走りますよ」クルマを降りて走り出した。
僕は仕事の休憩時間に本を読むので、ちょくちょく「そんな分厚い本どのくらいで読み終えるの?」とか「そんな難しそうな本よく読めるね」とか言われるのだが、そんなとき、瀬古の気持ちがちょっと分かる気がする。
以前勤めていた書店で同僚だったある女性は、定年を間近に控えていたが、これまで仕事も家庭も忙しく思うように本が読めなかった。だから余裕が出来たら読もうと思って本を買い溜めてあったのだけど、「失敗だった」と言った。
読書も運動と同様に、読むための筋力が要る。読み続けていないと、どんどん筋肉は落ちてしまうのだ。
「さいきん読み始めたんだけど、だめね。すぐ疲れてしまうの」
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文芸の文体の魅力というものは音楽になぞらえることができる。音楽ほど多彩ではないけれど、音楽よりも繊細な部分がある。というよりも、音楽には、音響という震動では激しすぎるほど繊細な部分がある。
文芸が召喚する静寂の中でしか聞き取れない微かな音楽。
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金子千佳の詩「夏彦」に出会ったとき、はじめて余韻というものを知った。いや、もちろん印象的なフレーズを読み終えた後に、心に尾を引くクオリアをいつも味わってはいて、それを「余韻」と呼んではいた。しかしそれとは異なる事件だった。
金子千佳を読んでいるとき、僕の心は静かに静かに静かになり無風の湖面のように凪ぐ。ふだんは想うことのバックグラウンドノイズに埋没しているほどの、微かなけはいが触れてくる。
鏡のような水面に落ちた滴だけが広げることのできる波紋のゆくえ。
空気よりももっと抽象的な媒体を伝わる音ではない音。
それを聞き取ってはじめて、心の次元がひとつ増えた。動くことができるとは知らなかった方向に、心が動いた。ああ、僕は今まで読書によって起こることの半分しか知らずにいたのだと思った。
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詩が読めないという人がいる。とくに現代詩は意味がわからないと。
しかしながら人は、旅先で出会った息が止まるような風景を前に、この風景の意味はなんだろうと問いはしない。
詩は風景なのだ。紙の上の文字の配列は、空であり森であり海であり鳥であり道であり街であり風であり腐臭であり酸化であり重力であり虫であり落日なのだ。
ひとは詩の中に歩み入り、言葉の起伏に沿って揺れて傾き狭まり広がる景色を眺めたり嗅いだりしながら、最後の一文字を踏んで出てくる。余韻のなかへ。出てくるときには、歩いていないかもしれない。
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言葉では表現できないことがある。言葉なんて無力だと、言う人は多いけれども、言葉の世界はすでに、人間にとってもうひとつの自然と言えるほど奥深い。森の中に咲く花の中に繁る森の中に咲く花のように。言葉で表現するという行為にも、言葉では表現できないことがある。
むしろ、言葉が旺盛に消息する場所でこそ、言葉では表せないことがもっとも鮮烈に曝露するだろう。だからこそ、文芸は書かれるのだ。
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金子千佳『婚約』、エマニュエル・ボーヴ『あるかなしかの町』、クリスティン・ヴァラ『ガブリエル・アンジェリコの恋』、クリストフ・バタイユ『時の主人』、川上弘美『真鶴』、レアード・ハント『インディアナ、インディアナ』。
千冊に一冊、出会えるか出会えないかの、静寂の書物たち。
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道を知れば、ふたたび訪れることもできる。
たとえようもなく透明で静かな場所に運んでくれる本は、大切な装置だ。静寂の中でしか踏み出すことのできない思考の方角があり、静寂の中しか知ることの出来ない知識があり、静寂の中でしか甦らない記憶がある。
静寂の書物は、僕を賢くしてくれるのだ。僕はそこでは、驚くほど賢くなっているのだが、驚かない。
そして、より静かに読むためには、より熟練する必要がある。
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Before...
_ 捕らわれの蝉 [もっと早くお会いしたかった]
_ 雪雪 [寝仔さんへ 認知できる思考の前の思考について知りたいのは、そこがいちばんおもしろいからです。 それから『デジデリ..]
_ 雪雪 [捕らわれの蝉さんへ 僕も、もっともっともっと早く。可能な限り早くお会いしたかったです。]
_ 寝仔 [ワンダー、ですね!]
_ はやかつ [図書館はもちろん、Web書店の検索でも全く見つからなかった金子千佳詩集が、期待せずに久々に図書館を検索したら在架して..]