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雪雪/醒めてみれば空耳

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2015-05-18 苺ほどの多重恒星系

_ 白磁の皿の端に置かれたふたつか、みっつの苺。

そんなふうに見えた。

卓越した熟練を示す、メッシの脳内。

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文芸の本領は静寂にある。

音楽が演奏されるように演劇が上演されるように文芸が読書されるとき、周囲の状況はほぼ攪乱されず、空間もさほど占有されない。黙り込むひとりの人が、世界の片隅に腰掛け、こころもち俯いてゆっくり息をし、ときおりページを繰るだけ。

絵画や彫刻も静かであるけれども、文芸とちがって時は流れない。文芸の中では、なにもかもが起きる。雛が生まれあり得ないものが育まれ世界が滅びるが、いずれにしてもごく微量のカロリーが消費されるだけだ。

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たとえばサッカー選手が、ゲームの中でボールをトラップしパスを出す。そういうありふれた動きのなかで、凡庸な選手の脳内と、最高の選手の脳内で起こっていることがどう違うか?という番組をみかけた。

最高の選手のサンプルはリオネル・メッシとクリスティアーノ・ロナウド。対照群はJ3あたりの選手たちだったと思う。

白く表示された側方からの脳画像のなかで、ふつうの選手たちの場合は、頭頂部がすこし濃くて、あちらこちらに醤油が乾いたような薄ぼんやりした赤みが広がっているのだが、メッシやロナウドの場合は、頭頂部にだけ、くっきりしとした赤い領域がごく小さく、しかし鮮やかに刻印されているのだった。そこは運動野の、足の動きを計画制御するあたり。あとは真っ白。静寂の中の、果実ぐらいの太陽。

もっとも活性化された心は、もっとも静かなのだ。

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読書することにおいても、熟練するにつれ、そういう節約的な洗練が起こってくる。読むことじたいに関するストレスは低減し、「うわー分厚いな-」と思っても尻込みしない。

瀬古利彦が日本マラソンのエースだった頃、テレビに出演するために局のクルマで送られていたが、大渋滞に巻きこまれてしまう。ほとんど前に進まない。このままでは収録に間に合わないとあって「あとどれぐらいですか?」瀬古が問う。「10キロぐらいですね」スタッフが答えると、瀬古は「なんだ、10キロですか、じゃ僕、走りますよ」クルマを降りて走り出した。

僕は仕事の休憩時間に本を読むので、ちょくちょく「そんな分厚い本どのくらいで読み終えるの?」とか「そんな難しそうな本よく読めるね」とか言われるのだが、そんなとき、瀬古の気持ちがちょっと分かる気がする。

以前勤めていた書店で同僚だったある女性は、定年を間近に控えていたが、これまで仕事も家庭も忙しく思うように本が読めなかった。だから余裕が出来たら読もうと思って本を買い溜めてあったのだけど、「失敗だった」と言った。

読書も運動と同様に、読むための筋力が要る。読み続けていないと、どんどん筋肉は落ちてしまうのだ。

「さいきん読み始めたんだけど、だめね。すぐ疲れてしまうの」

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文芸の文体の魅力というものは音楽になぞらえることができる。音楽ほど多彩ではないけれど、音楽よりも繊細な部分がある。というよりも、音楽には、音響という震動では激しすぎるほど繊細な部分がある。

文芸が召喚する静寂の中でしか聞き取れない微かな音楽。

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金子千佳の詩「夏彦」に出会ったとき、はじめて余韻というものを知った。いや、もちろん印象的なフレーズを読み終えた後に、心に尾を引くクオリアをいつも味わってはいて、それを「余韻」と呼んではいた。しかしそれとは異なる事件だった。

金子千佳を読んでいるとき、僕の心は静かに静かに静かになり無風の湖面のように凪ぐ。ふだんは想うことのバックグラウンドノイズに埋没しているほどの、微かなけはいが触れてくる。

鏡のような水面に落ちた滴だけが広げることのできる波紋のゆくえ。

空気よりももっと抽象的な媒体を伝わる音ではない音。

それを聞き取ってはじめて、心の次元がひとつ増えた。動くことができるとは知らなかった方向に、心が動いた。ああ、僕は今まで読書によって起こることの半分しか知らずにいたのだと思った。

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詩が読めないという人がいる。とくに現代詩は意味がわからないと。

しかしながら人は、旅先で出会った息が止まるような風景を前に、この風景の意味はなんだろうと問いはしない。

詩は風景なのだ。紙の上の文字の配列は、空であり森であり海であり鳥であり道であり街であり風であり腐臭であり酸化であり重力であり虫であり落日なのだ。

ひとは詩の中に歩み入り、言葉の起伏に沿って揺れて傾き狭まり広がる景色を眺めたり嗅いだりしながら、最後の一文字を踏んで出てくる。余韻のなかへ。出てくるときには、歩いていないかもしれない。

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言葉では表現できないことがある。言葉なんて無力だと、言う人は多いけれども、言葉の世界はすでに、人間にとってもうひとつの自然と言えるほど奥深い。森の中に咲く花の中に繁る森の中に咲く花のように。言葉で表現するという行為にも、言葉では表現できないことがある。

むしろ、言葉が旺盛に消息する場所でこそ、言葉では表せないことがもっとも鮮烈に曝露するだろう。だからこそ、文芸は書かれるのだ。

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金子千佳『婚約』、エマニュエル・ボーヴ『あるかなしかの町』、クリスティン・ヴァラ『ガブリエル・アンジェリコの恋』、クリストフ・バタイユ『時の主人』、川上弘美『真鶴』、レアード・ハント『インディアナ、インディアナ』。

千冊に一冊、出会えるか出会えないかの、静寂の書物たち。

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道を知れば、ふたたび訪れることもできる。

たとえようもなく透明で静かな場所に運んでくれる本は、大切な装置だ。静寂の中でしか踏み出すことのできない思考の方角があり、静寂の中しか知ることの出来ない知識があり、静寂の中でしか甦らない記憶がある。

静寂の書物は、僕を賢くしてくれるのだ。僕はそこでは、驚くほど賢くなっているのだが、驚かない。

そして、より静かに読むためには、より熟練する必要がある。

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本日のコメント(全11件) [コメントを入れる]
_ 寝仔 (2015-05-18 15:31)

雪雪さん。 <br>今「四季 春」森博嗣(講談社文庫)を読んでいます。 <br>(本編?のほうは「幻惑の死と使徒」までです) <br>私は、雪雪さんほどに生来の自分の感覚を裏切ることができずにたくさんの知識をそのために求める人を一人知っています。 <br>四季もそのような人に私には思えます。 <br>私はそれほどには明晰ではありません。いつも混迷の中にいます。 <br>しかし、この本を読んでいて、すとんと静寂のエアーポケットに落ちたように、思い出すことのなかった懐かしさを初めて知るような、聞かれ通ずる言葉を持たなかった子どもの頃の私の、そばにいるような感覚を覚えました。 <br>それにはあえて名前をつけません。 <br>なぜこの本のどこがそれほどに懐かしいのか、まだわかりませんし、分かることのないほうがまた、そこに戻ることができるような気もします。 <br>人は生まれた時にすべての人が天才ですが、自分の孤独に忠実であれる人は(それを過信しないという意味でも)とても少ないか、居ても人と交わらないのかもしれません。 <br>(もちろん、そのバランスをとることのできた別の意味での天才もいるのでしょう) <br> <br>いつも長文失礼いたします。 <br>上に雪雪さんが挙げられた本のうち二冊が家にありますので、そして一冊は大好きな遠方の図書館の棚にあります。 <br>ものぐさをせずに本を読む体力のリハビリをしようと思います(場所や自分のコントロールの限界の角度を変えてみることも含めて) <br> <br>シゲさんの書き込みがあって、私の書き込みはこの日記の読者にとって余白の染みのごとくと思いますのでほっとしました。 <br>モモとカシオペイアのようにすすんでください。 <br>待つ人がいることは、時間の制約ではないと思いますので。 <br> <br>草々

_ 寝仔 (2015-05-18 15:53)

追記:本を置いて行きます。 <br> <br>「ヨハンナ電車のたび」カトリーン・シェーラー(西村書店) <br> <br>「リュシル」デルフィーヌ・ドゥ・ヴィガン(エンジン・ルーム) <br>*だめだと感じられる場合読まない事と、読む場合に本文最終ページをはじめに読むことをお勧めします。文章がきれいであってもこういう本でも平気で勧める私の神経をお許し下さいとは言いません。 <br> <br>「夏のおわりのハル」畑野智美(講談社) <br> <br>くれぐれもお暇な時に。ヨハンナはかわいいです。 <br>書いていたら私はお腹が空いたのでパンを食べます。 <br>

_ 寝仔 (2015-05-27 20:25)

雪雪さんは言葉ではない思考の中にいる人でしょうか。 <br>言葉になる前の、と書くべきか迷いました。 <br>眠たすぎて赤っぽい革のソファー(格子に模様の打ってある)が置かれているアスファルトの屋外が出てきてしまって、 <br>続きを思い出せません。 <br> <br>最近私の「考え」、言葉になる前の意識が同時並行で違うことを考えるともなく流していることに気がつきました。 <br>それはたやすく私の意識からは離れます。 <br>けれどそのように考えているので身体が疲れるのだなあなどと思っております。 <br> <br>数年ぶりに日記が復活した時に、いらした方々の、記憶の中にたぶん雪雪さんは住んでいて、 <br>思い出されては訪れると思います。 <br> <br>私のなぜなぜ癖は、私自身の疑問ですから、ここにある膨大な言葉をヒントにしながら、自分のカンテラを下げて旅ゆくことができます。 <br> <br>どうぞ、急がずに、よい旅を。

_ 雪雪 (2015-06-08 03:03)

寝仔さん。僕はながいこと、言葉になる前の思考として認知できる思考の、そのまた前の思考について考えています。 <br>というのも、じつは僕は、自分は「思考の仕方」など知らないと思っているからです。ふだん自分がしている気分になっている「思考の仕方」では、このじっさい起こっている思考のオペレーションとしてはまったく不完全であり、たとえば人間が内省的に「自分の思考を操作する方法」だと思っている仕方を、インターフェイスとして整理して、人工知能に移植することはできないでしょう。というかそれでは機能しないでしょう。 <br>現状、わたしたちは、みずからの抽象的思考を抽象化することができないのです。

_ 寝仔 (2015-06-13 18:39)

※長いのでお暇なときにお読み下さい。 <br> <br> <br>雪雪さん。 <br>私はたぶん形にとらわれていた、と思います。 <br>お返事をいただいてからある種逃避的習い性である読書が道の角に当たったようにどん、と止まりました。 <br> <br>そして頭の中を行ったり来たりしています。 <br> <br> <br>私の「声」は転んだときには「痛い」、と感じたり考えたりするよりも前に言います(あんまりに痛いとき以外は黙って転ぶので、10代のころは友人に稀少動物のように面白がられていました、余談です)。 <br> <br>この痛い、は言葉というより身体化された反射的反応なので、意識がついていかないにせよ意識の範囲なのでしょう。 <br> <br>「言葉になる前の思考として認知できる思考の、そのまた前の思考」を抽象化できない、というのは私たちはそれをいずれの方法でも扱える大きさに切り出す(観測する)ことが今はできないということですね。 <br> <br>それは既に脳のなかでまとめられバイアスを受けた編集物としてしか触れることができない。 <br> <br>(考えながら書くと長くなっていけませんね) <br> <br>私は論理的思考よりも勘に頼るタイプで、感情のバイアスも受けやすいです。そのぶんのんびりしているのであとからせっせと感情に圧された部分を押し返してみたり翻してみたりします。それでもどこか元の道筋を外れきれないことに「苦しんだり」します。 <br> <br>なんでしょう。書くべきことを書けていない気がします。 <br> <br>私は、書くときにしか文脈的に考えることがありません。 <br>あるいは頭のなかで「言うこと」が止まらないとき以外は。 <br>なにかばらけたままに(注意欠陥的に)、言葉の前の考えのあたりに押し込んで(それはどうも勝手に動いて頭のサーキットをドライブよろしく流しているらしいのですが)日常を何とかこなします。 <br>ほとんど常に、書く人たちが簡潔に言い表すことに至る、削る作業について忘れて、暴走し怠けます。 <br> <br>それでいてこの混沌とした「感じ」を言い表す言葉をいつも探しています。 <br>断言しすぎ、しばしば後悔します。 <br> <br>もうちょっと、本やネットをあたりながら、そこいらをぶらついてきます。 <br>(でもこれは、この今は私にとりとても大切なことです) <br> <br> <br>(追伸。私にとって本は、ある時から、ある状態を作り出すためのプログラムに似ています。その状態はひとつに限らないのですが)

_ 寝仔 (2015-06-23 14:55)

雪雪さん、質問です。 <br>雪雪さんが、認知できる思考の前の思考について知りたいのは、それを予感したことがあるからですか、あるいは人間の進化の方向としてそれが有力だからでしょうか。 <br>プライバシーなので秘密! もありです。 <br> <br>またこれは以前からお伺いしたかったのですが、「デジデリオ」は評伝としても読めますか? <br> <br>私のなぜ、と嘘はあんまりつきたくない癖とが非常識なくらい(気味が悪いくらい、でしょうか)発露していますが、あー、私につきあうことは誰にとっても義務ではありません。 <br> <br>最近止まらなくてすみません。

_ 捕らわれの蝉 (2015-06-24 03:30)

もっと早くお会いしたかった

_ 雪雪 (2015-06-24 04:34)

寝仔さんへ <br>認知できる思考の前の思考について知りたいのは、そこがいちばんおもしろいからです。 <br>それから『デジデリオ』は評伝としても読めます。 <br>

_ 雪雪 (2015-06-24 04:36)

捕らわれの蝉さんへ <br>僕も、もっともっともっと早く。可能な限り早くお会いしたかったです。

_ 寝仔 (2015-06-26 16:05)

ワンダー、ですね!

_ はやかつ (2017-01-29 10:49)

図書館はもちろん、Web書店の検索でも全く見つからなかった金子千佳詩集が、期待せずに久々に図書館を検索したら在架していたという奇蹟のようなことがありました。最長2週間×2しか家にはいてくれないのだけれど、とりあえず手許に。 <br>寄贈されたに違いありません、それも「合わなかった」とかではなく、長いこと手許に置いた末に「読んでほしい」と思った篤志家からの。 <br>今更のコメントですが、やはりこのエントリに報告するのがふさわしいと思い、こちらに。