_ すばらしい本のなかにも、色褪せてしまう本と色褪せない本がある。色褪せる本が、色褪せない本に劣っているとは限らない。
一冊の本を咀嚼して吸収して、やがて自分の血肉になってしまえば、その本はわかりきったことしか書かれていない本になる。しかしそういう本こそがむしろ、その人にとって必要欠くべからざる本なのではないだろうか。
人によっては、もう読み返すこともないから古本屋に売り払ってしまって、読んだことさえ忘れてしまった本のなかに、人生でいちばん大切な本が含まれていたりするだろう。むろんその場合、売ってしまったことが軽率であるわけでもない。
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_ インターシフトのポピュラーサイエンスは、『野生の知能』『ひとの目、驚異の進化』『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』などなど、内容の平均水準は非常に高くてすてき。ありがとう。応援します。反面、装丁の平均水準が非常に低い。この無味乾燥なジャケットデザインの数々。どうにかならないのですか。
このほどデイヴィッド・ドイッチュの『無限の始まり』が出て、すでに高い平均点が爆発的に高まったが、この本の装丁もかっこわるい。
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_ ドイッチュを読んでいるとき感じる、寒いほどの爽やかさの素は、今はまだ現実的でないから徹底してそうだというわけではないが、著者の頭の片隅に人間以外の読者の可能性も射程に入っていることだと思う。同様の感触がある書き手は、他に樫村晴香がいる(この人には「人工知能のための人間入門」という副題が付いた、想定読者がまだ生まれていない評論がある)。
『無限の始まり』はまだまだとびとびに拾い読みして、広範で遠大な約600ページを右往左往している段階だが、使い古された数文字のタームが、自生する伽藍のように壮大に変貌してゆく様は絶景。曰く「説明」曰く「楽観主義」「啓蒙運動」「美学」「持続可能性」「ミーム」まるで、昔の同級生にひさびさに会ったら、名乗られてもしばしきょとんとするほど別人だったみたいだ。
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この本は刷部数もそこそこだろうし、注文せずに書店の店頭で手に取る機会も少ないだろうから、さわりを引用してみる。
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〈そうしたわけで、決定不可能な問題も、計算不可能な関数も、証明不可能な命題も、数学的に特殊なものではない。それぞれどう転ぶかは物理に左右される。物理法則が違えば、無限になる物事が違うし、計算可能な物事が違うし、理解可能な―数学的および科学的―真理が違う。数学者の脳やコンピューターや計算用紙といった物理的物体でモデル化される対象がどの抽象的な実体や関係なのかは、ひとえに物理法則で決まるのである。
一部の数学者はヒルベルトが挑戦を挑んだ当時、有限性は証明にとって本当に不可欠な特徴なのだろうかと考えた(彼らが考えたのは数学的に不可欠かどうかだ)。何しろ、無限は数学的に意味をなすのだから、無限証明だって意味をなすのでは? ヒルベルトは、カントールの理論を大いに擁護していたにもかかわらず、このアイディアをあざ笑った。この件に関しては、ヒルベルトも彼を批判する者もゼノンと同じ誤りを犯していた。どちらの側も、ある種の抽象的実体が物事を証明できることと、どの種がそうなのかを数学的な推論で特定できることを前提としていた。
だが、物理法則が今のわれわれがこうだと思っているものと実は違っていたなら、われわれがどの数学的真理を証明できるかが違ってくるだろうし、証明に用いることができる演算も違ってくるだろう。われわれの知っている物理法則は偶然にも、NOT(でない)やAND(かつ)やOR(または)といった演算に特権的地位を与えており、それらは個々のビット(二進数でも真理値でも)に適用できる。だからこそ、こうした演算は―そしてビットも―われわれには自然で、基本的で、有限だと思えるのだ。物理法則がたとえばインフィニティーホテルの場合のようなものだったら別の特権的演算が存在し、ビットからなる無限集合に適用できるだろう。また別の物理法則のもとでは、NOTもANDもORも計算不能である一方、われわれの世界で計算不能な関数のいくつかを自然で、基本的で、有限だと思えるだろう。
この話に絡んで、物理法則に左右される区別をもう一つ挙げたい―〉
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ぶつ切りにして気をもたせてみたが、この節は『無限の始まり』の、中盤の章の中盤に出てくる。この本に縁がある人は、どういう前半を経てこの論点にたどり着き、そしてここからどういう後半に向かうのか知りたくてたまらなくなるであろうし、ぴくりとも食指が動かない人はこの本に無駄金を払わずに済む。
この辺り、ドイッチュ以外の筆者なら一書の終端部に持ってくる大ネタだと思うが、『無限の始まり』においては壮大な論脈のほんのワンステップに過ぎない。こういうことをさらりと書いてくれるデイヴィッドが、僕は大好きだ。
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読みかけの本が無数にある。長かったり、そそられなかったり、難解だったりして「この名作を、結局死ぬまでに読み終わらないだろうなあ」と呑気にひとりごちたことは何度もあるが、この本で初めて、「余命が足りない。この本を読みこなす前にたぶん僕は死ぬ」という胸を突かれるような実感を抱いた。
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_ ジャンプコミックスの『ワールドトリガー』の1巻が新刊台に積み上がっているのを見たとき、胸がきゅっとした。なぜかはわからない。そのときは忙しくて、そのまま通り過ぎた。ささいなことだ。すぐに忘れ去ってしまうくらいの。
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_ 多和田葉子が五冊に一冊くらいしか文庫化されないのはどうしてなのか。多和田版ハリー・ポッターと言ってよい(よくない)『飛魂』が文庫化されたのは嬉しいが、いちばんすきな『変身のためのオピウム』、持っているはずの単行本が見つかりません。早く文庫にしてください。
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_ スーザン・ブラックモア『ミーム・マシーンとしての私』。言葉に興味がある方におすすめしたくとも長年入手困難だったが、デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』で言及されていたものでひさかたぶりに検索してみると、なんと増刷されているではないですか。言葉のエサみたいな本ですよ。読むと脳内で(広い意味での)言葉たちがが「おいしーよう!」ってほっぺたが落ちるような表情をします。そして元気に駆け回る。あ、駄目駄目そっちは危ないよ!
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_ 安田剛士の『振り向くな君は』、とってもキャラが立ってわくわくするサッカーマンガでしたが打ち切りになって編集部をうらめしく思いました。ところが次の連載『DAYS』がまたしてもサッカーマンガで、いい根性してるなあ安田剛士。そんでふとマガジン開いて『DAYS』みてみたら、『振り向くな君は』の主人公たちの高校と試合している!思わずにんまりしてしまいました。書きたかったんだなあ、彼らを。
ひと昔前、打ち切りが迫っても、あたふたと伏線を回収したりせず、必殺の大ネタをひっそりと胸に秘めて復活のときを待った『べしゃり暮らし』の森田まさのり、あるいは『エビアンワンダー』のおがきちかを思い出したり。
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_ 打ち切りと言えば『賢い犬リリエンタール』。斬新なところはないのに、すごく新鮮で、得体の知れないマンガだった。打ち切りになったとき、当店のスタッフにはリリエンタールファンが何人かいて、そのうちのひとりKさんが「うちの娘がね、『おかあさん今週リリエンタール載ってないよ。どうして?』と訊くから『終わったの』と答えたら『終わってないよ終わってないよ』と言って泣いちゃったのよねえ」と言った。大好きなマンガが打ち切りになるたびに、人はおとなになってゆく。葦原大介は最終巻に40ページ近い加筆をしてくれて、それはすてきな加筆だったから、嬉しくていっそう悲しかった。
葦原大介には『リリエンタール』しかなかったから、『リリエンタール』の話をすることあっても葦原大介という固有名詞を口にする機会はあまりなくて、次作を心待ちにしていたにも関わらず、薄情なことに僕は名前を忘れていた。
先日、Kさんに「Aさんがね、コミックで加筆されていることを知らなくて、今頃買っていったよリリエンタール」と話しかけると「彼、今描いてますよね」と言う。「え?知らん。なになに」「ワールドトリガー」「あー、あれがそうか」道理で。
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_ 未完のままいくら時を経ても、忘れられずつづきを待っている。高山和雅『ノアの末裔』。堤抄子『エスペリダスオード』。たとえ終わっていなくても、コミックとしての、前者は私的なベストSF。後者はベストファンタジー。
待っている。オレンジ党だって33年ぶりにつづきが出たのだ。
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王子の恋愛が成就しない腹いせに、青い高い塔を造った夏。落成直後に、毛深い飛行船が恋文の返事を届けてきたので、塔を見上げ「徒労だった」と呟く田舎の王子さま。王子に随行してリアルタイムにライティングをプロデュースするのが私の仕事だったが振られた。クビにはならなかった。腹いせに逆上がりをした。
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においによって架構された猫の神社に、姉崎の裏の牝猫が詣でている。皮膚病の快癒を願かけているのだ。
高台にある工務店の庇の上でふとった牡猫がそれを眺めている。それが俺だ。もういくつ寝ると発情期。ああいう信心深い牝を嫁にしたいが、あの病気がなあ。しかし腰高で尻尾が長いところが、どうにも好みである。こっちが頭だ、といわんばかりの高飛車で敏感そうなあの尻尾たまらん。
牝猫が立ち去るのを見計らって、のたりと地に降り神社に向かう。人に飼われたことがないので、文字で書ける名前はない。においが名前である。名前を発散して歩く。名前は足跡とともにほとほとと道に捺され、しばし残る。
境内に入り、俺も彼女の快癒を願う。木漏れ日をよぎって瞬くように彼女の名前が漂っており、俺の名前と混ざる。えもいわれぬ。仔ができれば、この名前が付くのであろうか。付けばよいなあ。
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_ 越水利江子 [確かに、そうだなあと思いました。 知識や人間の内奥を探った本などは、ある程度読みこなして、いつの間にか血肉になって..]