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雪雪/醒めてみれば空耳

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2013-11-04 絶望的に大きな希望

_ インターシフトのポピュラーサイエンスは、『野生の知能』『ひとの目、驚異の進化』『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』などなど、内容の平均水準は非常に高くてすてき。ありがとう。応援します。反面、装丁の平均水準が非常に低い。この無味乾燥なジャケットデザインの数々。どうにかならないのですか。

このほどデイヴィッド・ドイッチュの『無限の始まり』が出て、すでに高い平均点が爆発的に高まったが、この本の装丁もかっこわるい。

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_ ドイッチュを読んでいるとき感じる、寒いほどの爽やかさの素は、今はまだ現実的でないから徹底してそうだというわけではないが、著者の頭の片隅に人間以外の読者の可能性も射程に入っていることだと思う。同様の感触がある書き手は、他に樫村晴香がいる(この人には「人工知能のための人間入門」という副題が付いた、想定読者がまだ生まれていない評論がある)。

『無限の始まり』はまだまだとびとびに拾い読みして、広範で遠大な約600ページを右往左往している段階だが、使い古された数文字のタームが、自生する伽藍のように壮大に変貌してゆく様は絶景。曰く「説明」曰く「楽観主義」「啓蒙運動」「美学」「持続可能性」「ミーム」まるで、昔の同級生にひさびさに会ったら、名乗られてもしばしきょとんとするほど別人だったみたいだ。

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この本は刷部数もそこそこだろうし、注文せずに書店の店頭で手に取る機会も少ないだろうから、さわりを引用してみる。

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〈そうしたわけで、決定不可能な問題も、計算不可能な関数も、証明不可能な命題も、数学的に特殊なものではない。それぞれどう転ぶかは物理に左右される。物理法則が違えば、無限になる物事が違うし、計算可能な物事が違うし、理解可能な―数学的および科学的―真理が違う。数学者の脳やコンピューターや計算用紙といった物理的物体でモデル化される対象がどの抽象的な実体や関係なのかは、ひとえに物理法則で決まるのである。

一部の数学者はヒルベルトが挑戦を挑んだ当時、有限性は証明にとって本当に不可欠な特徴なのだろうかと考えた(彼らが考えたのは数学的に不可欠かどうかだ)。何しろ、無限は数学的に意味をなすのだから、無限証明だって意味をなすのでは? ヒルベルトは、カントールの理論を大いに擁護していたにもかかわらず、このアイディアをあざ笑った。この件に関しては、ヒルベルトも彼を批判する者もゼノンと同じ誤りを犯していた。どちらの側も、ある種の抽象的実体が物事を証明できることと、どの種がそうなのかを数学的な推論で特定できることを前提としていた。

だが、物理法則が今のわれわれがこうだと思っているものと実は違っていたなら、われわれがどの数学的真理を証明できるかが違ってくるだろうし、証明に用いることができる演算も違ってくるだろう。われわれの知っている物理法則は偶然にも、NOT(でない)やAND(かつ)やOR(または)といった演算に特権的地位を与えており、それらは個々のビット(二進数でも真理値でも)に適用できる。だからこそ、こうした演算は―そしてビットも―われわれには自然で、基本的で、有限だと思えるのだ。物理法則がたとえばインフィニティーホテルの場合のようなものだったら別の特権的演算が存在し、ビットからなる無限集合に適用できるだろう。また別の物理法則のもとでは、NOTもANDもORも計算不能である一方、われわれの世界で計算不能な関数のいくつかを自然で、基本的で、有限だと思えるだろう。

この話に絡んで、物理法則に左右される区別をもう一つ挙げたい―〉

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ぶつ切りにして気をもたせてみたが、この節は『無限の始まり』の、中盤の章の中盤に出てくる。この本に縁がある人は、どういう前半を経てこの論点にたどり着き、そしてここからどういう後半に向かうのか知りたくてたまらなくなるであろうし、ぴくりとも食指が動かない人はこの本に無駄金を払わずに済む。

この辺り、ドイッチュ以外の筆者なら一書の終端部に持ってくる大ネタだと思うが、『無限の始まり』においては壮大な論脈のほんのワンステップに過ぎない。こういうことをさらりと書いてくれるデイヴィッドが、僕は大好きだ。

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読みかけの本が無数にある。長かったり、そそられなかったり、難解だったりして「この名作を、結局死ぬまでに読み終わらないだろうなあ」と呑気にひとりごちたことは何度もあるが、この本で初めて、「余命が足りない。この本を読みこなす前にたぶん僕は死ぬ」という胸を突かれるような実感を抱いた。

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本日のコメント(全2件) [コメントを入れる]
_ 夕鶴 (2013-11-08 15:13)

はじめまして。 <br>あなたは私の希望です。 <br>どうかお元気で。

_ 雪雪 (2013-11-09 03:51)

ありがとうございます。元気が出ました。