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雪雪/醒めてみれば空耳

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2007-07-05 きらきらすることだけが世界の取柄ではない

_ 知的な視野というものは、自然に広がる性質を持っている。生きていれば常に、新しい状況と知見に出会うから。

視野が狭いまま広がらないとき、それは視野を狭く保とうとする積極的な動機がある。ゆえに防衛機制として、視野に入る部分を過大評価し、視界外の世界がなにかのきっかけで侵入してこようとするときにも、しぜんに無意識に視線を外す。関係ない、と言って。視線を外すことに習熟すれば、関係ない、という独白も省略される。あえて視線を逸らしていることからあらかじめ視線が逸れる。抑圧から検閲への移行である。

ぼくに備わる視野の狭さが重篤であるほど、ぼくはそれを自覚できないことになるが、無意識の抑圧や検閲の仕組みは当然すなおな理路を捻じ曲げているので、理屈に沿って考えてゆけばたいていは検出することができる。

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ぼくは涙もろくて、ほんとうによく泣く。泣くとカタルシスがあって精神が浄化されるので、健康に良い。精神が健康でないと、すなおな理路で考えようとするときそれを阻むような摩擦が生ずる。そういうわけで涙もろいじぶんが好きであることは戦略的なので、涙もろい自分が好きである。

しかしながら、どうしてこんなところで俺は泣くのか、どうしてここで泣かないのか、そんなふうに思うことは日常茶飯であって、涙の社会的価値と役割に比して、判断指針としての信頼度は適切なレベルに達しない。感情はいっぱんにそういう傾向があり、恵まれたパワーゆえに大振りになりがちで正確さに欠ける。

ぼくは自分の感性をあまり信じない。自分の感性を信じ切る人は、まるで寸法を計らずに材木を切って家を建てようとしているかのようだ(とはいえ、世界をきらきらさせてくれる感性に対する感謝の念を、ぼくも忘れてはいない)。

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思わぬところに思わぬ新鮮な世界観があるかも知れないので、青年期には宗教団体やセミナーの勧誘に乗って、いろいろなところに出かけた。ほとんどどこでも常に、理性を説得しようとするのではなく、感情に訴えることに終始するので、げんなりした。判断の基準として感情をそこまで信頼できる根拠を尋ねると、かれらは一様に感情を害するようであった。異物を見るような目で、しばしば見られた。異種のものに対する応接についての心の準備もない人が、神だとか愛だとかなんらかの最高価値について云々するのはおこがましいと思う(そもそも感情を価値付ける根拠が感情である人は、たとえ説得力があったとしても、説得される力を持たない)。

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信仰はとある価値への降伏であるから、信仰の対象は必要最小限に留めないと判断力が衰微する一方である。ありふれた信仰者たちは、たとえば神のような高階のものを信仰する以前に、愛だとか自由だとか個性だとか人権だとか平和だとか生命だとか自然だとか成功だとか諸々のものをも信仰していることが多くて、考えることに堪えられないから次善の策として信仰をしており、次善の策で妥協していることから目を逸らすために、自分を肯定してくれる同類を求めているようにさえ見える。

「あなただって『ありふれた信仰者たち』を異種と見て拒んでいるように見える」という批判があるかもしれないが、ルールというものは一方だけが守ってもフェアなゲームは成立しない。たとえば神を信仰することとは、神とじぶんのあいだに成立する共通のルールを見出してゆくことであろう。そのとき祈りは、神じしんが敬虔であることへの期待である。せめてルールというものの意義を理解する程度には、神が敬虔であって欲しいという願いである。

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2007-07-16 郡山では、仙台より時が速く流れる

_ 困っている。

二階堂奥歯のことを話すのも尋ねられるのも、苦痛ではない。彼女だけが教えてくれたことがいくつもあり、それを言葉にしてみたく思う。

しかしそれも、考えたくないときには「考えたくない」とも思わずに考えずにいられる緩みがあればこそだ。忘れていられる時間があるからこそ、いきいきと思い出すことができる。危険含みな想いが脳裏から去らないとき、無意識はそれを表層に気付かれないように隠蔽する。忘れられないせいで、思い出せなくなる。それは困る。

二階堂奥歯についてなにか書く。それが予定として、未来にいくつも待っているとなると、指がすくんでしまう。なにを書くか書かないか、考えないわけにはいかず、いつも心の片隅に二階堂奥歯がひっかかっているのは、楽ではない。少なくとも、まだ苦しい。この先苦しくなくなるかどうかはわからない。

ぼくは無理をしない。それは私的な「生き続ける知恵」である。知らず知らずのうちに無理をして、衰弱するタイプなのだ。だから無理にでも無理をしない。楽な道を選ぶためなら、たいていの困難や摩擦に耐える。

ぼくは他人より自分を大切にする。他人より自分に期待しているから。そういうわけで、「メールが書けないな。どうにかならないものか」と、無理しない程度に、慎重に苦悩している。

申し訳ありません。

つまりは、可能ならば見捨てないでください、嫌わないでくださいと、甘えているのである。

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評判の『ゴーレム100』を読んだが、ぼくはやっぱりベスターなら『コンピュータ・コネクション』が断然好きだ。すごくたくさんの「書かれていないこと」を思い付くから。複雑にかわいいし、微笑ましく壮大だし。人類史が明けて暮れる束の間に、長屋で起こったひと騒動みたいな。

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正面レジ前に、スタッフが自分の大好きな絵本を持ち寄って大展開している絵本フェアの一番人気は田中清代『トマトさん』。手に取った人は魅入られるように買ってしまうようだ。福音館で買切だもんでへっぴり腰で補充しているから何度も切らしてだいぶ売り逃しているのだがぶっちぎり。

次いでいせひでこ『ルリユールおじさん』。よい。名作『むぎわらぼうし』を超えた。読み返すごとに好きになる。本が好きな人は眼を細め、うんうんと頷きながら読み、孫を抱きしめるように抱きしめてしまうであろう。いせひでこの魅力は女性画家の眼と男性画家の眼を兼ね備えているところだと思う。魚心と水心を同時にくすぐってくれる。繊細な作物だが敷居は高くなくて、読者の視線をしぜんに細部に導いて、きらきらに磨いてくれる親切な本だ。

ぼくの好きな成田雅子の『やくそく』も四冊売れてうれしい。

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_ tairyu [本屋に立ち寄ると真っ先に児童書のコーナーを覗くのですが、絵本が充実している所は中々ないですよ。申し訳ないと思いながら..]

_ 雪雪 [☆urikoさんへ 書店員は、ほんとうに素晴らしい仕事です。 書店員は、本の許へお客様を案内する仕事ですが、お客様の..]

_ 雪雪 [☆tairyuさんへ tairyuさんが向かうはずの書店の店頭で、『絵描き』と『ルリユールおじさん』が小躍りするのが..]

_ mexmvbfeim [Hello! Good Site! Thanks you! zrzlvziutclxka]

_ ma595zda [c265t]


2007-07-18 約束を憶えておく約束

_ 絵本フェアにまつわってタイトルを挙げた三冊の絵本のうち、『トマトさん』と『ルリユールおじさん』は、ぼくなどが応援しなくても末永く読み継がれていくだろう。でも、『やくそく』は、重版がかかることもなく消えてゆく可能性が高い。

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一昨日『やくそく』に言及したせいなのか偶然か、ぽつぽつと売れていたのがいきなり三冊売れた。

量子論的な絵本というか、シュレーディンガーの猫視点というか、物語の中に住むものが語る読者の物語のような、そういう絵本。

二階堂奥歯のことをあまり度々引き合いに出したくはないのだが、ぼくの思考はなにかとその周辺を経巡ってしまうので、素直に思ったことを言いたい。

ぼくは、『やくそく』を読んでも泣かない。でも二階堂奥歯にこれを薦める機会があったら、彼女はページを繰りながら涙をこぼし始めると思う。最後のページを繰ったあと、ひとつの表情ではあらわしようがないので、濡れた頬のまま、無表情な顔を上げるだろうと思う。そしてその無表情が含むいくつかの表情は、五年前と今では、ちがっているだろう。

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2007-07-19 屁理屈でしか言えない

_ 効率的に考える力とは、なにを考えるべきかを捉える力ではない。今、考慮に入れなくてもよいことを無意識に除外する習慣である。考えるべきことよりも、考えなくてもよいことの方が、無限に大きいからだ。

成熟することとは、考えるべきことを学ぶことではなく、考えなくてよいことを考えずに済ます習慣を蓄積する過程である。

子どもは天才だと云うけれど、なにも子どもの方が自由に思考するわけではなくて、よけいなことを考えてしまうから、ときに大人には思いも寄らぬことを思い付くに過ぎない。

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子どもの頃は、自分の言いたいことの問題圏を俯瞰することができなくて、説得力に欠けていた。大人と議論しては「屁理屈を言うな!」という一喝で片付けられた。不満だった。屁理屈になっていることは分かってる。でも、大人と子どもがおなじ土俵で勝負してどうする。「おまえの言いたいことは、実はこういうことではないか?」と、子どもの気持ちを代弁できるくらいの度量のある大人はいないのか。子どもが納得できるまで代弁して、その上で否定されるのでなければ、その否定が納得できるわけがない。子ども自身が、自分の言葉に納得していないのだから。自分の体験の枠を超えた問題に立ち向かうからこそ、屁理屈が出るのだ(そもそも「子ども」とは、自分を説得する力のない者のことである。逆に云えば、納得できない問いを抱え続けている限り、その人は幾許か子どもであり続ける)。

ぼくは心に決めた。ぼくは大人になっても、誰かに対して「屁理屈を言うな」とはけっして言わないと。

子どもの頃の悔しさを、今ならこのように表現する。

人は弁護できないことを批判してはならない。批判できないことを弁護してはならない。

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正しい考えは存在しない。現実的な問題に対する解答は常に複数あり、妥当性の程度によって順位付けられ、状況が変化すればその順位も変わる。

最適解に最速で到達する人が、最高の判断力の持ち主とは限らない。むしろ判断力は、その人が実際択ぶこともでき却下することもできる選択肢の幅で計られるべきだろう。たったひとつの結論しか選べないことのリスクは、ひとつに絞れない逡巡のリスクより大きい。

そういうわけで、ぼくは将来、場合によっては、誰かに対して「屁理屈を言うな」と言うかもしれないし、弁護できないことを批判するかもしれないし、批判できないことを弁護するかもしれない。

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_ Carajean [Thereツ痴 a serect about your post. ICTYBTIHTKY]


2007-07-22 音楽を書物に戻す力

_ 感情はそれぞれ、磨き抜かれた特定の世界観である。

感情は世界を彩る。テーマと背景の配置を換え、コントラストを付ける。特定の問題群が視野の中心を占め、それ以外は退く。

感情は人を鋭敏にし、同時に鈍感にする。感情は、一気に世界を変える。

いわば感情は、世代を越えて使い込まれるうち過程が省略された理性である。

感情は一瞬で到着する旅行のようなものだ。風景は出し抜けに変わる。それを鮮烈と言ってもよいが、濁っていると言ってもよい。感情は純粋であるほど、どこを通ってそこに来たのか教えないから。

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理性はそれ自体では駆動しない。理性には動機がない。

感情を音楽に、思考を書物に喩えて言えば、理性とは音楽じしんの力を借りて、音楽を書物に戻す力である。

備わった時系列にしたがい聴き取ることしかできない音楽を書物として、人は音楽をゆっくりと、あるいは急ぎ足で聴く。そして音楽の中を行きつ戻りつする。

思考は、感情として収縮し、理性として拡散する、と言ってもよい。

翻って言えば、理性によってほとんど考え終わったことは、過程が省略されてあたらしい感情に変化する。ひとつのあたらしい感情が、人をひとつ賢くする。

既存の感情は複合し、世界に新しい相貌をもたらす。

理性的な人は多彩な感情を持つ。

多彩な感情は多彩な省略であるから、一望できる視程を拡大する。

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理性を支えるには豊かな感情が必要である。ここで豊かと云うのは感情の総量ではない。種類のことである。特定の感情が突出して強烈であるときには、むしろ感情は理性を損壊する。

理性は、感情よりも繊細で微妙な構築物である。感情によって判断し、感情が動機に直結する人はそれを理解しない。理解しないというより、実感する機縁を持たない。

感情は「速さ」をもって旨とする。理性は「待つ」ことによって示される。感情はせっかちであり、理性は鈍重である。

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感情はコンテンポラリーな属性を持つ。時代に応じて変化し、流行に乗ずる。

理性は基本的に変化しない。

ゆえに感情的な人から見れば、理性的な人は遅れている、あるいはピント外れに見える。どうとも見えないときには関係ない人として閑却される。

理性的な人から見れば感情的な人は「うらやましいくらいバカ」に見える。ここで「うらやましい」と言うのは、常に、いつの時代も、いかなる共同体にあっても、理性的な人は少数派だからであり、文化はおもに感情をターゲットに能産するからである。

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感情的な寂しさと理性的な淋しさが存在する。

感情の孤独と理性の孤独は別種のものである。

理性の孤独は感情の孤独を癒すが、負け惜しみである感を否めない。ここに到って理性的な人は、複雑で愛嬌のある苦笑いを獲得する。

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まれに理性的に見える時代や共同体が局所的に存在するが、おおむね理性が流行に乗ったに過ぎない。

理性についての歴史は成立しても、理性の伝統は成立しない。

理性じたいは、強まりも弱まりもせず、進化もしない。ただ理性を支える感情は、変化し得るし、進化し得る。

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人間の幅とは、同時に抱くことのできる感情の幅である。

怒りである哀しみ。諦めが産む希望。虚ろな笑いの充実。凶暴な優しさ。愛情としての侮蔑。孤独による連帯。あるいは怒りである哀しみに裏付けられた諦めが産む希望が導く虚ろな笑いの充実に支えられた凶暴な優しさが示す愛情としての侮蔑を許容する孤独による連帯。

まだ一語で言うことのできない無数の感情たち。

端的に言い当てられない感情が無数にあるからこそ、よく似ているのに取替えの利かない無数の音楽が創造される余地がある。

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愚かな人が存在するとすれば、その定義は、物を知らない人ではなく、単純な感情を少数しか持っていない人である。

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ごく少数の人しか持っていない感情が存在する。そして、ある特定の感情の許でしか考える事のできない問題が存在する。

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いまだ実現していない感情が想定される。ゆえに、いまだ思考されたことのない問題が遠望できる。

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具象とは、抽象化され終わったもののことである。

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(いただいたコメントに返信しようと思っているうちに朝になってしまいました。無理をしないで眠ります。ひとまず)

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2007-07-26 錯覚を磨く

_ その人がわたしを

見つけてくれた瞬間、

それまでの人生のネガなできごとがすべて

掌をひっくりかえしたように

一挙にポジに反転した。

それは錯覚ではあったけれど

うそだったわけではない。

(牧玲 『ラ・ヴィータ』より「錯覚」)

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達人は達人を知るというけれども、行為の世界の深部の構造は共通しているから、どの角度からにせよ深部に触れそれを日常にしている人は、応用の利く察知力を身に付けるのだろう。

洗練された佇まい、修練の痕跡、熟練のけはい、立ち居振る舞いの微妙な制御、一般的には未知であるなにかが既知であることによる余裕、注意力が絞り込まれるときの内面の静寂。そういったものを鋭敏に嗅ぎ分けるのだ。

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どんなジャンルであっても、精髄に触れ真髄に分け入る経験は貴重だと思う。

本のすばらしいところは、このジャンルの精髄に、ほとんど誰でも、容易に触れることができることだ。本は安価であり、本屋はそこらじゅうにある。私達は仏典を求めて天竺に旅立つ必要はないし、グリモワールを覗き見るために禁制の書庫に忍び込み封印の鎖を引き千切る必要はない。読むことの達人になる道への門戸は、文字を読むことに障害のない人にならば、いつでも広く開かれている。

すばらしい本の一部は入手困難になってゆくが、文学の歴史は長く裾野は広く市場は大きく、選びに選び抜いても読みきれない本が待っている。

歴史に残る数々の、あるいはあなただけが知る無名の、達人の前に立ち、磨き抜かれたその技にいつでも身をさらすことができる。歯が立たず手もなく打ち倒されて、何度でも地べたに這いつくばることができる。いくら負けても失点にはならない。なにがなんだかわからなくても、無駄にはならない。経験は雪のように降る。積もる。ほんとうにゆっくりとだが、その雪は溶けない。よもや溶けるときには、春がきている。

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春はいつも思わぬタイミングで、思わぬ方位からくる。そっちに方位があったのかと思う。そして遠いと思っていた場所に、徒歩で行けるようになる。そこになにが待っているかというと、なんということはなくて、たいていは今まで手に取ってみようとさえ思わなかった本が待っているのである。そしてもし、稀に、なにも待っていない場所に行き着いたら、その場所のことは、あなたが書くしかない。

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_ おさとウサギ [雪雪さんへ……またまた、ありがとうございます。 Bianca さんへ、私の「話「を「半分」以下に引げてくださって、ほ..]

_ Bianca [雪雪さん、おさとウサギさん、再度コメントをありがとうございました。 >雪雪さん 確かに、習慣の力は大きいですね。..]

_ rabdevu mplnib [pgrus pyutwav nrhoeqcf jmqda etrfd xznsd dwkzbgme]

_ standy [ycxjjy bnnLst19hdY6llAd3fg6]

_ kwshtjqz fahiuloy [mierzpw jhgik nvue wgfrzoq afkuxey ewradg olxcq]


2007-07-31 『カボチャの冒険』の冒険を見守る。『カボチャの冒険』の飼い主として。

_ そろそろ五十嵐大介が欠乏してきたよ。という空きっ腹を直撃して『海獣の子供』が1・2集同時刊行。これは小学館なのだが帯を見ると、竹書房『カボチャの冒険』同時発売! という広告が。

雑誌掲載時にはどちらも見ていなかった。五十嵐大介を読むなら、よりファンタスティックな、日常では出会いにくい風景を、ガツンこつんと描いてくれるタイプのものを読みたいなと思ったので期待は『海獣の子供』に傾いたのだが、薄いからひと足先に昼休みに読み始めた『カボチャの冒険』で押し殺した笑いにおなかを痛めているうちにおなかいっぱいになった。

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子供の頃、葉でいっぱいの樹を「視えるまま」に描こうとして、視覚像をトレースするつもりで丹念に描いていっても、ぜんぜん樹に見えなくて困惑した。

樹をじょうずに描く画家はたくさんいるから、特定の誰の画ということでなく、じょうずに見える樹の画を、樹を見るように丹念に眺めているうち、見えるままに描くということは「視えるまま」に描くことではないと気付いた。実際の樹を脳内で撮影して紙の上に写すことではなくて、視ている樹を紙の上に翻訳することなのだと。

細部を、そのままに描いて合計しても樹の全体にならない。細部を見る眼と全体を見る眼はちがっていて、場合によっては細部なんかすっかり省略してしまっても樹に見えてしまう。

もちろん子どもの頃に撮影とか翻訳とかいう都合のいい比喩を駆使できたわけではなくて、これは子どもの頃の思索の翻訳である。

このようなことに気付くことは、ひとつの事柄に気付くことに収まらなくて、いっぺんにいろいろなことに気付くことであるから、たいへん興奮したことを憶えている。

思索の世界の遠景では中途まで考えられた無数の命題が全周を取り囲んでてんでの方角を向いているが、このようなことに気付くと、あちらこちらで命題がちらりと振り向くのがわかる。「あ、あれに気付いたね。ではそろそろ私達も気付かれるのだな」というしぐさで。

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「一般化する孤高」と「孤高の孤高」が存在する。

マンガの歴史のなかでも、斬新な描出法によって、「おお! このように描くとこのように視えるのであるか!?」という驚きを惹起した作品がいくつもある。

「一般化する孤高」のほうは、時代を超越している。ということはつまり、いつかは時代が追いつくことになる。真似することが容易なので、無数のエピゴーネンを産む。じきに様式となり伝統を形成して孤高性を失う。「一般化する孤高」は「弧早」と言い換えることができる。ひとり未来に先走っているのである。

「孤高の孤高」のほうはたんなる孤高である。状況を水平にではなく垂直に超越している。

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来るべき未来を逸早く先取りする力もすばらしいけれど、すこしだけ高いところを飛んでいるだけのように見えて、だから先を行くもののように注目はされないのだが、しかしけっして堕ちてこないもの、そういうものを見分ける眼のほうが得難いように思う。そして、圧倒的に先を行っているものと圧倒的な高みにいるものを見分けるのは、もっと難しい。

孤高の人の高度まで、いつか誰らかが辿り着くかどうかはわからない。いつまでも孤高のままかもしれない。それは偉大なことに思えるが、もしかすると弧早のほうがむしろ偉大かもしれない。孤高は一部の人を引き上げるのだが、弧早は状況全体を底上げする。いわば弧早は、その"孤高性"が色褪せてゆくにしたがって、色褪せた分だけ、世界を変えてしまうのだから。

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『カボチャの冒険』の、五十嵐大介の飼い猫カボチャの表情はすごい。

通常「表情」というものの原典は人間の表情である。動物の表情がいきいきと描かれるとき、それはおおむね、動物に人間の表情の文脈を投影したものになる。人間が、人脳備え付けの本能と慣習を介して読むのだから、そのシステムを援用するのが手っ取り早いし、そうでなければいきいきと見えない。

しかしカボチャの表情は人間の表情の文脈に沿っていない。人間がカボチャの表情の真似をしても、カボチャの心情の翻訳にはならない。けれども「表情」に見える。単純に人語に翻訳できない情調がある。

これはとてもすごいことだが、しかし真似はできないと思う。『カボチャの冒険』のシチュエーションはありふれたものだし、似たような作品は無数にある。真似できるくらいのものなら、とっくに誰かがやっていただろう。

真似はできないが理解はできるとき、ぼくは心底おどろく。

(ぼくは小田ひで次がとても好きなのだが、五十嵐大介を読んでいるとき、いつのまにか小田ひで次になったつもりの眼で、読んでいることがある。彼くらいの力量があって近い資質を持っている実作者が、五十嵐大介の仕事を眺めていると、描けなくなってしまうのではないかと心配になる。余計なお世話の取り越し苦労かもしれないが)。

ほんとうにおどろいた。

順繰りに読んでいくのがよいと思うので、あえてどこのページとは言わないが取り立てて言えば、「マズイ部分があった」のくだりのあのひとコマ。あれはマンガの歴史に残さなければならない。

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読み心地としては武田百合子を思い出させる。え? 褒め過ぎですか。なら武田花で。

という言い方は武田花に失礼かもしれないが、ぼくは百合子より花が好きだ。『猫・陽のあたる場所』と『猫・大通り』は、最高の超短編集のうちのふたつだと思います。

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_ Tau [Rinse thoroughly with a white cloth dipped in clean water,..]