_ そろそろ五十嵐大介が欠乏してきたよ。という空きっ腹を直撃して『海獣の子供』が1・2集同時刊行。これは小学館なのだが帯を見ると、竹書房『カボチャの冒険』同時発売! という広告が。
雑誌掲載時にはどちらも見ていなかった。五十嵐大介を読むなら、よりファンタスティックな、日常では出会いにくい風景を、ガツンこつんと描いてくれるタイプのものを読みたいなと思ったので期待は『海獣の子供』に傾いたのだが、薄いからひと足先に昼休みに読み始めた『カボチャの冒険』で押し殺した笑いにおなかを痛めているうちにおなかいっぱいになった。
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子供の頃、葉でいっぱいの樹を「視えるまま」に描こうとして、視覚像をトレースするつもりで丹念に描いていっても、ぜんぜん樹に見えなくて困惑した。
樹をじょうずに描く画家はたくさんいるから、特定の誰の画ということでなく、じょうずに見える樹の画を、樹を見るように丹念に眺めているうち、見えるままに描くということは「視えるまま」に描くことではないと気付いた。実際の樹を脳内で撮影して紙の上に写すことではなくて、視ている樹を紙の上に翻訳することなのだと。
細部を、そのままに描いて合計しても樹の全体にならない。細部を見る眼と全体を見る眼はちがっていて、場合によっては細部なんかすっかり省略してしまっても樹に見えてしまう。
もちろん子どもの頃に撮影とか翻訳とかいう都合のいい比喩を駆使できたわけではなくて、これは子どもの頃の思索の翻訳である。
このようなことに気付くことは、ひとつの事柄に気付くことに収まらなくて、いっぺんにいろいろなことに気付くことであるから、たいへん興奮したことを憶えている。
思索の世界の遠景では中途まで考えられた無数の命題が全周を取り囲んでてんでの方角を向いているが、このようなことに気付くと、あちらこちらで命題がちらりと振り向くのがわかる。「あ、あれに気付いたね。ではそろそろ私達も気付かれるのだな」というしぐさで。
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「一般化する孤高」と「孤高の孤高」が存在する。
マンガの歴史のなかでも、斬新な描出法によって、「おお! このように描くとこのように視えるのであるか!?」という驚きを惹起した作品がいくつもある。
「一般化する孤高」のほうは、時代を超越している。ということはつまり、いつかは時代が追いつくことになる。真似することが容易なので、無数のエピゴーネンを産む。じきに様式となり伝統を形成して孤高性を失う。「一般化する孤高」は「弧早」と言い換えることができる。ひとり未来に先走っているのである。
「孤高の孤高」のほうはたんなる孤高である。状況を水平にではなく垂直に超越している。
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来るべき未来を逸早く先取りする力もすばらしいけれど、すこしだけ高いところを飛んでいるだけのように見えて、だから先を行くもののように注目はされないのだが、しかしけっして堕ちてこないもの、そういうものを見分ける眼のほうが得難いように思う。そして、圧倒的に先を行っているものと圧倒的な高みにいるものを見分けるのは、もっと難しい。
孤高の人の高度まで、いつか誰らかが辿り着くかどうかはわからない。いつまでも孤高のままかもしれない。それは偉大なことに思えるが、もしかすると弧早のほうがむしろ偉大かもしれない。孤高は一部の人を引き上げるのだが、弧早は状況全体を底上げする。いわば弧早は、その"孤高性"が色褪せてゆくにしたがって、色褪せた分だけ、世界を変えてしまうのだから。
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『カボチャの冒険』の、五十嵐大介の飼い猫カボチャの表情はすごい。
通常「表情」というものの原典は人間の表情である。動物の表情がいきいきと描かれるとき、それはおおむね、動物に人間の表情の文脈を投影したものになる。人間が、人脳備え付けの本能と慣習を介して読むのだから、そのシステムを援用するのが手っ取り早いし、そうでなければいきいきと見えない。
しかしカボチャの表情は人間の表情の文脈に沿っていない。人間がカボチャの表情の真似をしても、カボチャの心情の翻訳にはならない。けれども「表情」に見える。単純に人語に翻訳できない情調がある。
これはとてもすごいことだが、しかし真似はできないと思う。『カボチャの冒険』のシチュエーションはありふれたものだし、似たような作品は無数にある。真似できるくらいのものなら、とっくに誰かがやっていただろう。
真似はできないが理解はできるとき、ぼくは心底おどろく。
(ぼくは小田ひで次がとても好きなのだが、五十嵐大介を読んでいるとき、いつのまにか小田ひで次になったつもりの眼で、読んでいることがある。彼くらいの力量があって近い資質を持っている実作者が、五十嵐大介の仕事を眺めていると、描けなくなってしまうのではないかと心配になる。余計なお世話の取り越し苦労かもしれないが)。
ほんとうにおどろいた。
順繰りに読んでいくのがよいと思うので、あえてどこのページとは言わないが取り立てて言えば、「マズイ部分があった」のくだりのあのひとコマ。あれはマンガの歴史に残さなければならない。
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読み心地としては武田百合子を思い出させる。え? 褒め過ぎですか。なら武田花で。
という言い方は武田花に失礼かもしれないが、ぼくは百合子より花が好きだ。『猫・陽のあたる場所』と『猫・大通り』は、最高の超短編集のうちのふたつだと思います。
Rinse thoroughly with a white cloth dipped in clean water,