_ その人がわたしを
見つけてくれた瞬間、
それまでの人生のネガなできごとがすべて
掌をひっくりかえしたように
一挙にポジに反転した。
それは錯覚ではあったけれど
うそだったわけではない。
(牧玲 『ラ・ヴィータ』より「錯覚」)
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達人は達人を知るというけれども、行為の世界の深部の構造は共通しているから、どの角度からにせよ深部に触れそれを日常にしている人は、応用の利く察知力を身に付けるのだろう。
洗練された佇まい、修練の痕跡、熟練のけはい、立ち居振る舞いの微妙な制御、一般的には未知であるなにかが既知であることによる余裕、注意力が絞り込まれるときの内面の静寂。そういったものを鋭敏に嗅ぎ分けるのだ。
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どんなジャンルであっても、精髄に触れ真髄に分け入る経験は貴重だと思う。
本のすばらしいところは、このジャンルの精髄に、ほとんど誰でも、容易に触れることができることだ。本は安価であり、本屋はそこらじゅうにある。私達は仏典を求めて天竺に旅立つ必要はないし、グリモワールを覗き見るために禁制の書庫に忍び込み封印の鎖を引き千切る必要はない。読むことの達人になる道への門戸は、文字を読むことに障害のない人にならば、いつでも広く開かれている。
すばらしい本の一部は入手困難になってゆくが、文学の歴史は長く裾野は広く市場は大きく、選びに選び抜いても読みきれない本が待っている。
歴史に残る数々の、あるいはあなただけが知る無名の、達人の前に立ち、磨き抜かれたその技にいつでも身をさらすことができる。歯が立たず手もなく打ち倒されて、何度でも地べたに這いつくばることができる。いくら負けても失点にはならない。なにがなんだかわからなくても、無駄にはならない。経験は雪のように降る。積もる。ほんとうにゆっくりとだが、その雪は溶けない。よもや溶けるときには、春がきている。
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春はいつも思わぬタイミングで、思わぬ方位からくる。そっちに方位があったのかと思う。そして遠いと思っていた場所に、徒歩で行けるようになる。そこになにが待っているかというと、なんということはなくて、たいていは今まで手に取ってみようとさえ思わなかった本が待っているのである。そしてもし、稀に、なにも待っていない場所に行き着いたら、その場所のことは、あなたが書くしかない。
私はある出来事がきっかけで、高校二年生の時、自分を殺すことにしました。全てに対して受け身であるように努めたのです。そうしたら、それまで出来ていたこと、例えば自分の考えをまとめて文章を書いたり、本を読んだりということが出来なくなっていきました。六年たった今、私は自己表現をしたくてたまらなくなりました。けれども、何によって表現をしたら良いのかわかりません。そもそも、本当に表現したいものがあるのかと問われると疑問です。人は表現しなくても生きていけるのでしょうか?むしろ、その方が幸せなのでしょうか?
☆Biancaさんへ<br>親切は人間関係の潤滑剤です。自分に対して親切にできなければ、あなたはあなたに心を開かないでしょう。<br>自分に対してかける言葉がないとき、自分自身もあなたをを避けるようになる。そういうときには、対外的な表現も滞るのではないでしょうか。<br>近しい二人の人のあいだに、冷たい空気が漂うときのように。
「今日も機嫌よく過ごしなさいね……」亡くなった祖母が、ことがるごとに私にかけてくれた言葉です。<br>そのころ、郷里を離れて一人暮らしをしていた学生の私には「そんなに毎日毎日機嫌よく暮らせるわけがなじゃない、自分の思いどおりにならないことばっかりなのに……、と、そのときはそう思っていました。<br>でも、今ならわかります。<br>「機嫌よく過ごす」とは、その日のありのままの自分のを開ききって受け入れることだ、と。<br>それはとても難しいことでもあり、自分自身を否定する(ふりをする)よりも、苦しいことなのかもしれません。<br>「全てに対して受け身である」ということは、「自分を殺す」こととは少し違うと思います。<br>全てを拒絶せずも「そのまま」受け入れることができたら、きっとそのぶん、「自分」は殺されるどころか大きくなります。<br>「何によって表現するか」よりも「自己表現をしたくてたまらない」と感じられる自分の奥底をそっと、じっと、見つめてみたら……何かが光るかもしれない。<br>それは、ひとつの言葉かもしれない、きらめく色かもしれない。<br>それよりも前に、Bamcaさんご自身の(たぶん)日ごとの表情、何気なく出る言葉、佇まい、それこそがまず何らかの「表現」である、と思われるのです。<br>あまり根を詰めず、自分が自分を、そして周りの景色をどのように捉えるか、そのことに敏感になれば自ずと心は開かれるのでは、と思います。<br>偉そうにすみません。<br>ご不快なら、忘れてくださいね。<br>ウサギ
雪雪さん、おさとウサギさん、お返事どうもありがとうございました。実は私は摂食障害(神経性無食欲症)とノイローゼを十年来抱えてきました。生きているのが辛くて、過量服薬したことも何度もあります。でも、本当に死のうとしたわけではなかったのだと、今になって思います。私は自分を痛めつけることによってのみ、自分が生きているという実感を得ていました。それは今も続いています。「自分に対して親切にする」「『そのまま』受け入れる」ことは難しいです。難しいですが、諦めずにやってみます。そして、いつか、自分に優しくなれたらと思います。
☆Biancaさんへ<br>人間の問題は一般論で語り難い部分があり、多くの人にとって正解である答えが、特定の人にとっては致命的であることもあります。<br>無難なことをおそるおそる言うので、話半分に聞いてください。<br>.<br>「痛めつける」ことが親切である場合があります。誰かを親切で痛めつけるときには、最低限、自覚的に慎重に行うことが望ましい。必要に応じて、状況に相応しい分だけ痛めつけること。<br>暴発的に、あるいは習慣的に行うことは避けたい。暴発的に行うことの欠点は、直接関係のない憤懣のエネルギーもそこに吐き出されてしまいがちであること。習慣的に行うことの欠点は、それじたいが目的になってしまい、やめられなくなることです。<br>それは自分で自分を痛めつけるときでもおなじです。<br>.<br>ネット上で、『八本脚の蝶』が(当初は『物欲日記』として)書かれ始めた頃、二階堂奥歯も雪雪も、たいへん不調な時期でした。<br>「とてもいいいんです。書くことが」奥歯はそう言いました。「寝る前に、不特定多数に向けて書くこと。誰と固定できない誰かに読まれる、ということを前提に書くこと。どういうわけか、その習慣がとてもいいんです」<br>彼女はそう言って、ぼくに対しても、「読まれることを意識して書くこと」を勧めてくれたのです。<br>.<br>習慣の力は大きなものです。習慣とは、それじたいに意志力をつぎ込まなくてもできてしまう行為です。なにかわるい習慣があるとき、それに拮抗し得るのはよい習慣だけです。一時の感動の影響など、反芻して反芻して習慣まで育成しない限り、やがて揮発してしまいます。<br>なにか、続けてゆくことのできる気持ちのよいこと。それを見つけるのが、大切であるように思います。今までしていなかったけど、楽に続けてゆけることを、始めてみるのはよいかもしれません。続くかどうかは始めてみなければわかりませんから、それに大き過ぎる期待をかけたりはせずに、なんとなーく始めてみることが大事だと思います。戦う方法を探すより先決なのは、余裕を持つことではないでしょうか。<br>.<br>わるい考えと言えるものは、基本的に一種類しかありません。それは変えることのできない考えです。自力で変えることのできない考えに対抗しようとするときには、正面突破は得策でないことが多い。そういった「考え」は、長年に渡って丹念に防備を堅め、砦のようになっているからです。高い城壁を巡らし警備も万全である城を、少人数で落とすにはどうしたらよいか。この種の勘所はしばしば、物語から学ぶことができます。
雪雪さんへ……またまた、ありがとうございます。<br>Bianca さんへ、私の「話「を「半分」以下に引げてくださって、ほんとうにありまおうございます。<br>Bianca さんへ……私の言葉も本心ですが、どうぞ雪雪さんの言葉と併せてお読みになってください。<br>私のコメントは余計だったかもしれないので、できることなら、ほんとうに忘れて!!<br>雪雪さんの、07−30のコメント以上のものを私は見いだせません。<br>むしろ、私自身にとってもこのメッセージは発信されたのだと解釈します。<br>私は「わるい考え」に、正面突破ばかりしようとして傷つき、長いことうまく立ち直れなかったから。<br><br>わたし(ウサギ)自身も、少し時間をかけて、「物語」にも勘所を探します。<br><br>最後にもう一度、Bianncaさんへ。<br>私も過量服用の経験、一度ではありません。<br>Bianncaさんには、もう少しだけ私の言葉で語れることがあるようにも予感します。<br>とのあれ、深夜につき、今宵はこれにて。<br>かなり安定してきたとはいr、まだまだ服薬闘病中の、ウサギ、より。<br>できることなら、善い夢を
雪雪さん、おさとウサギさん、再度コメントをありがとうございました。<br><br>>雪雪さん<br><br>確かに、習慣の力は大きいですね。私のこれまでの人生の半分は、わるい習慣によって構成されてきました。正しい痛めつけ方を知らなかった分、私の心身はどんどんぼろぼろになっていきました。数ヶ月前から、私は日記を書き始めました。あまり「読まれることを意識して」書いてはいないのですが、次第に書くことによって自分の考えが(少しずつではありますが)まとまってきたように思います。毎日書くことが時々嫌になることもありますが、書くという行為がよい習慣になってきたのかもしれません。もしかしたら、他にもっと自分に適した行為があるかもしれませんが、今のところは書くことを続けていきたいと思っています。<br>自分の中で熟成されて凝り固まった「わるい考え」に立ち向かうのは怖いです。でも、今の自分が読める物語から仲間を見つけていきたいと思います。<br><br><br>>おさとウサギさん<br><br>最初に誤らなければならないことがあります。私はおさとウサギさんのくださった温かいコメントを、決して「話半分以下」に受け取ったつもりはありません。もしそう思われていたら、私の言葉足らずな文章から来た誤解です。どうもすみませんでした。<br>お祖母様の言葉、胸に沁みました。素敵な言葉ですね。「機嫌よく過ごす」…本当に難しくて苦しいことだと思います。「受け身であること」と「自分を殺すこと」も、確かに意味がずれていました。受け入れるということは余裕があることで、自分の感覚を研ぎ澄まし成長させるということなんですね。言葉の使い方を間違えました。私は今まで感覚をシャットダウンしてきたから、これからは周りに耳を澄ませ、目を凝らし、じっと時が来るのを待とうと思います。
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