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雪雪/醒めてみれば空耳

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2014-08-06 見えないものは見えている

_ 西関東や中国地方以西をはじめとして、カ行の鼻濁音と濁音を弁別しない方言文化圏が存在する。著名人では、先日叙勲を受けた偉大な女性ポップシンガーがそれに属する。鼻濁音を「が」、濁音を「ガ」と表記するならば、共通語で「私がー」と歌うところを彼女は「私ガー」と歌い「暮れ急ぐー」を「暮れ急グー」と歌う。

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鼻濁音を発音しない人に実際に出会ったとき、この話をしてみたが、先方はきょとんとしていた。こちらとしては「『がぎぐげご』と『ガギグゲゴ』は全然違うんだよ」と言い分けているつもりでも、それを弁別しない人にとっては「『ガギグゲゴ』と『ガギグゲゴ』は全然違う」と言われているようなもので、なんのこっちゃというところであろう。実際問題日本語の使用において、この弁別ができなくとも、さして齟齬も不都合もないので、じぶんがちょっと変わった日本語を使っていることに気づかないまま生涯を終えることも難しくないだろう。

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現代であればメディアを通じて鼻濁音の刺激に充分に出会うことができるから、鼻濁音非弁別文化圏で育っても、鼻濁音を駆使できる人はいる。そういう人が友人に「うちらの田舎ってなまってるよね」と指摘してみても、その指摘の意味さえ伝わらない、などということもありそうだし、なにかの配剤で、鼻濁音非弁別者が圧倒的多数派になれば、やがて鼻濁音じたいが滅び、古い文献の「鼻濁音」という用語の意味が不明になることもあり得るだろう。そんな未来、過去の録音資料を大量に聴き込む機会を持った人にふと鼻濁音の弁別力が生じ、しかし自分の気付きを他人に説明のしようがなくて困ったりする、そんなことがあるかもしれない(鼻濁音は現実に衰退の傾向にあるようだ)。

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_ 成長期には、必然人は不安定で成長しやすくて、一冊の本を読み終えた後に世界の見えが変化するような経験も度々あったけれども、出会うもの出会うもの新鮮だった時代はやがて終る。

いろいろ経験を積んでみると、比類なく素晴らしいと思っていたものが意外にありふれたものだったり、斬新な技巧と思えたものが安易な焼き直しだと分かったり。見識がついて鑑識眼が磨かれてくるのと引き換えに、どきどきわくわくするものに出会う頻度は低減する。

読書のよろこびが例えば、読む前と読んだ後の自分の変化の大きさにあるとすれば、成長期の読書は、自然な成長によって加速されて底上げされている。

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雑誌などの企画で各界著名人が、個人的なオールタイムベストを5冊なり10冊なり選んでいるのを見ると、ほぼ若い頃に出会った本で占められているケースが多くて驚くが、成長期までで早々に成長が完了したということか。

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_ ごくまれに、成長期の読書を彷彿とさせる本に出会って「ああ、本が好きになった頃の本ってこんな感じだったなあ」と思う。成長期の読み心地のクオリアが甦ってきて、止まっていた成長の時計が再び動き出す気さえする。ロイス・ローリー『ギヴァー』の、今はなき講談社版『ザ・ギバー』を読んだときには、二十年くらい人生を遡った気がした。

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なにが驚くといって、あまりにも露わである真実に、その時まで自分が気付かずにいられたことへの驚きといったらない。たとえば鼻濁音非弁別者が、日本語には鼻濁音というものがあり、それはごくありふれたものであり、自分もずっとそれを耳にしていたと気付くときの驚きに似て、それを凌ぐかもしれない驚きが『ザ・ギバー』にはあった。なにせ、その驚きに至る前半部ほぼ全文が伏線なのだ。書いたロイス・ローリーも凄いが、翻訳の苦労も並大抵でなかったであろう。

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『ギヴァー』以上の傑作を期待することはできないにしても、思春期の情調が甦るような魅力はつづく第二部『ギャザリング・ブルー』にも共通していたし、9月に刊行が決定した第三部『メッセンジャー』には一層色濃くて、『メッセンジャー』のゲラを送って下さった編集担当の吉住さんの手紙によると「『ギヴァー』の壮大なスピンオフという感じで相当おもしろい」という第四部、『SON』への期待でひりひりせずにはいられません。

みなさん、『ギャザリング・ブルー』や『メッセンジャー』を粛々と購入して、新評論編集部にはっぱをかけてくださるようお願い申し上げます。第四部を待たされるのは殺生、という仕上がりなんですよ。

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2014-08-08 食べても食べてもなくならないおいしいもの

_ 4月、山田穣『がらくたストリート』の3巻を店頭で見つけたとき、湧き上がった幸福感に我ながら驚いた。そんなにまで好きだったのかと。

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2008年11月に1巻、2011年12月にやっと2巻。そしてそれきり。これはもう未完のまま埋没する気配満々であった。3巻のオビに「奇跡」って書いてあるしな。

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小学生の何気ない日常。と、見せかけてナチュラルシュートのようにストライクゾーンぎりぎりをかすめてゆくSFセンス。半端ないうんちくたれどもがだらだら垂れ流す小ネタは塩梅よくこなれて、士郎正宗と双璧をなす水準。そしてめっちゃ絵がうまい! のだが、これらの魅力は表紙やタイトルからあんまり伝わってこない。「所詮よつばとフォロワー」みたいに思われてスルーされてしまいそうなたたずまいである。

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人間の皮膚感覚は、有毛の部分と無毛の部分では鋭敏さが異なる。有毛部分は瞬間的に擦過するような軽い接触に鋭敏だが大雑把。無毛の部分は時間をかけて繊細な細部をじっくり検出するのに長けている。クロッキーと細密画。素早い受動とまったりした能動。

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『がらくたストリート』は、心の無毛の部分で、ゆっくりゆっくり読むマンガだ。ふとした拍子に実験的、何食わぬ顔で冒険的。地味だけど卓越した表現が、あちらこちらに潜んでいる。

読み進むのにやたら時間がかかる。

なんか変なにおいの森で、山菜の中に混じってる、山菜の彫刻を探すみたいな。

だらだらと続く、ぬるく微妙なしあわせ。

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食べても食べてもなくならないおいいしいもの。それが、何回も読み返せる本の魔法だ。

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3巻の、当店初回配本はたった3冊。この本が大好きなはずなのに、見過ごしている人がいっぱいいる勘定だ。かわいそうに。知らないうちに大損しているのだ。

この手のマンガで、これ以上のものは、以後あらわれることはない気がする。

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