_ 近本洋一『愛の徴-天国の方角-』を読み終える。メフィスト賞作品としては異彩を放っているのかもしれないが、いい意味で普通の日本SF。水見稜の『夢魔のふる夜』、山田正紀『エイダ』あたりを含む潮流の末端。
未読の方の興を削がないよう詳述はしないが、ヴェラスケスの『鏡のヴィーナス』の扱いや、交互に鏡を掲げながら歩くテンプル騎士団のくだり、「おお!」と声が出る秀逸な小ネタが豊穣で、読まないともったいないよ。
ただ、落とし処で既存の諸作のように人間を踏み石にして飛び立っていかないというか、良く言えば高らかに鳴り渡る人間賛歌で、個人的には「やっほう!」とは言えないがしかし、この方が一般性があるのかもしれないし。
最終ページで予告されている次作にも期待するしきっと読むが、触発されて思い出してしまった水見稜はもう書かないのか。ほぼ期待できない水見稜の次作に対する期待のほうが、やっぱり大きいのであった。
まあ、復刊して!復刊して!復刊して!そのときは未収録だった二編もぜったい入れて! 何年もお願いし続けていたら『マインド・イーター完全版』実現しちゃって、その二編を未読だったぼくとしては、うれしくてうれしくてぴょんぴょんぴょんと跳ね回ったことだし、水見稜の新作が存在する未来に、ぼくの人生が収縮するよう祈り続ける現在。
.
_ 長らく入手困難だった「たんぽぽ娘」が河出と復刊ドットコムから出たわけだが、角川文庫の新刊『栞子さんの本棚 ビブリア古書堂セレクトブック』にもひっそりと収録されていて、こちらは昭和48年刊『年刊SF傑作選2』に入っていた井上一夫訳。ぼくはこっちの訳が好き。
手持ちの『年刊SF傑作選2』、どこにしまったかわからなくなり、長年「井上訳を読みたいなあ」と思っていたところだったので、不測の幸福です。
(あっ、すみません。ここの記述、若気の至りの名残でした。三十年ぶりくらいに井上訳を読んでみると、「それはないだろう」と思える解釈の相違があって、今の僕は容認できませんでした。掌を返して伊藤訳をおすすめします。ごめんなさい!)
雷光に遅れる雷鳴は、光と音の速度差を教えてくれる。けれど、文を読んでいるとき、今眼が読んでいる場所に、「今眼が読んでいると思っている場所」が遅れていることは、感じない。雷光に雷鳴が同一視されず、雷鳴に雷光が同一視される。
.
_ かもめ [842、好きですとても。 852の内容にも高得点ですけど、842の内容の無さっぷりがすばらしい。]
_ この一文は、本題に入らない。
ながいあいだ忘れていたとを思い出した。とても大切なことで、短く書く時間がないので、きっかけだけ、自分の心覚えとして書いておきたい。
読んでくれた方はもやもやすると思うが、ごめんなさい。
.
_ 「言葉とは、アウグスティヌスが書き遺した真理や精神とは無縁のものである。地上のいたるところでまったく異なる言葉が話されているのだから。言葉が少しでも神の普遍と類似したものであるなら、すべての言葉に共通の語があるはずだ。しかしそのような語は一語たりともない。人類は言葉に習熟するほど神からも真理からも、精神からさえも遠ざからざるをえない。それは今わたしが述べた言葉の特性からの必然的な帰結である。」
これは保坂和志『カフカ式練習帳』135ページからの引用。
読んだのは去年の春で、たちまちいろんなことを考えてしまいそうな刺激的なフレーズだったが、考えなかった。眼を逸らしたのだ。そして眼を逸らしたことを自分に気付かせないようにした。
.
_ 十代の終わりから二十代にかけて、ぼくは「思い出したくないことなどない」とのたまって、思い出したくないこと、思い出しそうになると抑圧が働いて眼を逸らしそうになることを、懸命に思い出したりしていた。できるだけ視界から翳りを払い、できるだけ透明な視野で遠くまで見渡したかったから。偏りを無くしたかった。眼から落ちることができるウロコは、できるだけ早くできるだけ多く、落としてしまいたかった。
それはもちろん無謀な試みで、忘れるべきことを忘れていかないと健全な精神は保てないから、ぼくは不健全だったけれども、健全ってむしろいっそう不健全だよな、とも思った。
.
_ そうこうするうち、超低空飛行でどうにか安定したが、やっぱり三十代になっても四十代になっても落ちるウロコはあって、まあぜんぜんウロコが落ちないのもつまんないのであるが、こんな古くて重たいウロコが残っていたのだな。『カフカ練習帳』のあの一節を読んだとき、抑圧が働いたせいでかえって、ぼくは心のどこかで、そこが「すごく痛いところ」だと、気付いていたのだと思う。
あの一節が鍵を開けてくれた。あるいは、自分に気付かれないように鍵をかけた自分に気付かれないように鍵を開けた。
そしてその後読んだ本が扉を開けたのだ。
岩波現代文庫で数年前、ひさびさに復刊されたルリヤ『偉大な記憶力の物語』。こんな悲しくて、無念で、胸苦しく悔しくてたまらない読書になるとは。でもきっと、直前に『カフカ練習帳』のあの一節に触れて、心の片隅がほどけていなければ、知的刺激に満ちたすごくおもしろい本と感じるにとどまっていたと思う。
.
_ 四歳か五歳のころだ、ぼくはおおきな夢を持っていた。
それをある日、あきらめざるをえないと悟った。あの絶望感。神様、どうして世界はこうなっているの?どうして心はこんなに苦しくなれるの?この苦痛は終わるの?世界があんまりにもてきとうだから、じぶんの苦しみのかたちさえはっきりわかりません。
.
ぼくはその記憶を忘れていたわけではなかった。出来事じたいは、子どもの頃の印象深い思い出として、誰かに話したこともある。
でも、こんなにまで痛かったことは忘れていたのだ。
あの日。英語ではいぬをドッグと発音しdogと表記すると知ったあの日。
.
_ なにか書きたいけれど、心が狭苦しくなっていて、助走の距離がとれないときに、読みたくなるのはクリスティン・ヴァラの『ガブリエル・アンジェリコの恋』だ。
二冊持っていて、いつもそばにあるけれど度々は手に取らない。
読み慣れてしまいたくないのだ。
長年、数え切れない本を読んできたが、いちばん好きな小説だと思っていた時期があるし、これからもそういう時期がくると思う。
もっと世に認められるべき名作だとは思わない。ただ、ぼくには合っている。この本だけが連れて行ってくれる特別な場所がある。
「読んでいるあいだ、時間が止まっていた」絶賛する人もいるけれど、ぼろくそに言う人もいる。「キャラに魅力がなく、キャラの造形や行動に説得力がなく、文章も冗漫で、新人賞に応募したら一次も通らないだろう。そもそもどうして出版され、その上わざわざ翻訳されているのか理解に苦しむ」というような評言に出会ったことがある。ぼくの感想は正反対なので、人の感じ方がこれほどちがうということが、おもしろくもありこわくもあり。
.
_ いちばん好きな詩集は金子千佳の『婚約』で、こちらはずっといちばんのままだ。
現代詩手帖誌上で「夏彦」の最初の二行を読んだ時、ぼくの感覚は一気に広がって、そのときまで見えていなかったものが見えるようになった。たった十八文字で、なんだか馴染めない小難しい現代詩というジャンルが、一瞬で宝の山に変貌した。
その二行を、こんな場所に唐突に引用しても、魔法は働かないと思うから引用はしない。
「夏彦」を含む『婚約』は、ひとつの詩のとある行から、別の詩のどの行に跳んでも、詩の力が持続する。あたらしい無数の詩が生成されてくる。だから、『ガブリエル・アンジェリコの恋』よりも、もう少し頻繁に手に取ることができる。『婚約』も二冊持っている。
旧版の『氷の海のガレオン』(木地雅映子)と、『ギヴァー』の旧版『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー)も二冊持っていたが、一冊は人にあげてしまった。あげるような人に出会えてよかったと思う。どちらも旧版のほうがよい。決定的によいと思う。
.
_ 忘れ難い鮮烈な経験は、いつかまたそういうものに出会えるかもしれない未来を、ぞくぞくする場所にしてくれる。
とくに、おさない頃の、さっきまでの自分にはもはや戻れない悟りの経験は、いわば経験の原型となって、学び方悟り方の形式を定めてしまう。
前回書いたとおり、『カフカ式練習帳』と『偉大な記憶力の物語』のせいで、おさない頃のことをいろいろ想い出してしまい、そのことについて書こうとして書き出したのだが、枕が長くなってしまったなあ。
今日は寝よう。
.
_ (ところどころ「 」で括って挿入してあるのは、すべて阿部完市の句)
赤ん坊は、どんな世界に産まれてもよいように、万能の感性を備えている。
たとえばまだ言葉を知らない時期の赤ん坊は絶対音感を持っていて、あらゆる音韻を繊細に弁別する。けれども母語に曝され母語を獲得してゆく過程で、日常聴き分けることを必要とされない差異に関しては弁別力を失ってゆく。日本人が一般に、英語におけるlとrの聴き分けが不得手である所以だ。
「看護婦と岸辺馳けだす彼の肺」
聴覚だけではなく、赤ん坊は視覚的な差異にも鋭敏で、驚くべきことに猿や馬の個体識別ができる。それが長ずれば、見慣れぬ外国人の顔はみなおなじに見えてしまうくらい鈍感になってしまう。
「栃木にいろいろ雨のたましいもいたり」
思考についても同様、子どもが大人のように効率的に考えることができないのは、なにを考えるべきかを知らないからではない。考えなくてよいことはなにかを知らないからだ。考えるべきことに比して、考えなくてもよいことは無限にある。あらゆる選択肢について、考慮に入れるべきか否かをいちいち判断していたら、考えはいつまでたっても先に進まない。考えなくともよいことは、却下する必要もなく、あらかじめ思考の視野にあらわれることさえなくなって初めて、考えは進むようになる。
人が成熟するのは、獲得することによってではない。失うことによるのである。
「かなかなのころされにゆくものがたり」
このような営為がきっと、感情においても営まれているはずだ。感情は過程を省略した判断である。事態に即応して、世界の色合いをがらりと変える。さすれば、とある感情に相応しい事態がほとんど、あるいはまったく起こらない世界に産まれれば、その感情はやがて淘汰されてゆくだろう。
「るんるんと胎児つらぬく砲あって」
おさない頃、ちいさな心を鷲掴みにして翻弄した、名も無き感情の記憶を残している人は少なくないと思う。それはある特定の場所や状況に結びついていたりいなかったり。
どこかで一度だけ聴いてなぜか、耳に残った数小節のメロディを、反芻するごとに昂まる心地よい不安。
知らない場所で目覚めたときすでに、心の中で静かに待っていた悟り。
みっつの坂が交わるY字路を曲がる、バスの車窓を滑る景色のめくるめく肌触り。
保育園の裏手の足洗い場のうすら寒いにおいを夕刻に嗅いだときだけ訪れる懐かしさは、人生の長さよりも明らかに過去に遡っていた。
「静かなうしろ紙の木紙の木の林」
なにを知らせ、なにをさせようとしているか判然としない、しかし鮮烈な感情の数々。子ども心を熱し刺し濡らし引き延ばし、高々と持ち上げてそのあとふいに投擲したあの感情の数々は、もはや訪れることはない。
「犬がみて穴のようなる窓に白菊」
言語を獲得し大人になってゆくごとに消えていった感情たち。子ども、それはだんだんと書物がなくなってゆく図書館の司書。
「鳥がきて大きな涙木につるす」
筋道立って考えることの筋道とはまさしく、都市化された心の街路のようなものだ。郊外にあってさえ私たちは、道を外れた方角があることさえ気づかずただ進行方向を見つめている。
阿部完市の俳句は、そんな私達の頭をそっとつまんで横に向けてくれる霞のような大きな手だ。言葉の外へ、むしろ言葉の持つ慣性を利用して、私たちを逸らす。遠くに、久しく訪れたことのない感情が見える。雪原の地平線で、こちらを振り返ったけもののシルエットのように。
「あのころのむこうの方を狩りにゆく」
.
.
(図書新聞掲載 『阿部完市俳句集成』沖積舎 書評を改稿 )
.
_ CindeestEr [fish casino slots game <a href=https://miamislots.net>pl..]
_ BeliastEr [no download casino mac realmoneyonlyhr <a href=https://m..]
_ DyannstEr [free atari slots <a href=https://play-slots-online-casin..]
_ ViviestEr [atari vegas world free slots <a href=https://progressive..]
_ MerrilistEr [caesar slots <a href=https://slots-123.com>casino slot m..]
_ 神格化された太古の種族の遺構や、隔絶した異星の文明の遺跡に足を踏み入れ、未知の記号の羅列に出会う。まったく意味はわからないのだが、しかし意味があるとわかる。それは言語だということがわかる。
ファンタジーやSFの中でたびたび出会ってきた、知的に魅惑的なシーン。
(この手のシチュエーションが好き!という向きには、川添愛『白と黒のとびら-オートマトンと形式言語をめぐる冒険-』東京大学出版会をおすすめしたい。物語に託した科学解説書は今までいろいろ出ているが、その手のものでは出色の出来だと思う)
.
_ 幼稚園の年長のとき、おなじ八戸市内の西へ、海から離れ山に近づく方角に引っ越した。
年少のときに近所から引っ越していった友達、加藤くんがまた近所になった。
裏の家の大谷石の塀を指でほじくりながら歩く。材木が灰色になるまで雨ざらしになった空き地を過ぎると東北砂鉄のあおぐろい社宅が横並びに二棟、その向こう側にはブロック塀を隔ててベージュ色の電電公社の社宅が重なって二棟あった。ベージュの社宅の裏のブロック塀によじのぼって右に歩くと、塀の向こうの道は下り坂になっているせいでだんだんと跳び降りるのが怖くなる高さになって、そのぎりぎりのところでいったんぶら下がって、壁を蹴って降りると加藤くんちの木造の二階家があった。
家の真ん中にある広間で遊んだ。広間の壁際に加藤くんの五年生のお兄ちゃんの勉強机があって、本のかたちをしたものは引っ張り出したくなるぼくは、お兄ちゃんの教科書に手を伸ばした。「見ていい?」「いいよ」
昭和40年前後の八戸にはまだ小学校中学年以下を対象とした学習塾なんて無いに等しく、早期教育という概念を所持する親もほぼいなかった。将来習うはずのものに、あらかじめ出会う機会はほとんどなかった。幼稚園の年長くらいなら、まだひらがなをちゃんと書けない子がざらにいて、カタカナまできっちり書ければ自慢である、そういう時代。自分の名前を漢字で書けないのは当たり前だった。
加藤くんのお兄ちゃんの教科書は漢字が多くて難しかったが、意味がわからないことが楽しかった。まだわからないけれど、いつかわかるようになることが、とってもたくさん待っているとわかるからだ。次から次へと手に取っては、読めないけど想像で読んでるつもりになると、すごく頭が良い存在になった気がした。
そして何冊目かに算数の教科書を手に取ったとき、ぼくはもう気が遠くなるくらい感動した。
予備知識なしにいきなり出会った五年生の算数は、たんに難しいだけではなかった。未知の言語体系だった。奇妙な配列の数字と異様な記号、図表、図形。これらがなにを表現しているのか想像もつかないくらい、今まで出会った本と隔絶していた。意味がわからない。けれどもぜったい意味はあって、その意味はおそらくぼくがまだまったく知らない意味の体系なのだ。かっこいい。世界はすごい。自分はちっちゃい。
.
_ 小学校の卒業文集だったと思うが、石田さんという同級生の女の子の詩が、片隅に小さく載っていた。「わかるわからない」という詩。
.
わかるということがわからない
わからないということがわかる
どうしてわからないのかわからない
どうすればわかるのかもわからない
わからないということだけがわかる
いつわかるかもわからない
.
これを読んだとき、あの算数の教科書との出会いを、ありありと想い出したことを想い出した。
.
あたらしい概念がひらりと身をかわす。誰かの考えを踏み石に、別の誰かの考えに降り、考えのなかに留まるあいだに力を溜めて、考えの速さで、考えを離脱する。考えの届かない虚空へ。
考えの星から星へ、旅を続ける。
.
4、27、832、4955、70805。名前の無いものを、名付けてきた数で、その星の重力が決まる。重い星ほど速度が出るが、名付けられてしまう危険も大きくなる。ひらりひらりと身をかわす。
名前という鏡は虚空にもいる。概念のうち意味を反射する部分だけを映す鏡は、平面ではないが複雑に平滑である。色彩の速さを持つ匂いのように。
名前がつくまでにどこまで行けるだろう。名前に触れ、名前を振り払い、やがて名前が離れなくなるまでの、概念の子ども時代を。
.
概念たちには伝説がある。じぶんのすべてを映しだす鏡が、ひとつだけあるという。誰かがその名前を思いつけば、どんなに遠くにいようとも、概念はそれを知るという。
あいだに遮るものさえなければ、概念は、どんなに遠くにいても、その鏡に映ったじぶんを視る。そしてその鏡は概念を視る。
たったひとつの名前が付くときは一瞬だ。それがたとえ、どんなに長い名前でも。
.
_ 意識とは言語が物質に語りかけるための技術である。
実存としてのわたしたちは、言語じしんの鏡像段階における鏡像の側にいる。
言語が物質に語りかけるとき、意識は言語にとっての言語である、と言ってもよい。
.
わたしたちが思考の軌跡を、以後検索再生可能なかたちに記憶するためには、いちど物質に翻訳して刻印する必要があるがゆえ、思考がいかなる高みに到達しようとも、その高みを記憶することはできない。
ゆえに思考は、常に高みに留まらなければ(あるいは作業記憶的に熟練してその都度飛び立たなければ)、あたらしい境位には進まない。
高さは、〈ここ〉にしかないから。
ただし意識が物質の師として、物質を教育できるとするなら、話は別だ。
つまりは言語の成熟よりも、物質の育成が先決なのである。
.
今は踏み切るための大地である記憶を踏み切り、
今は今を風とするしかないけれども、
思考が、それをはらんで飛び立つことができる、風としての記憶を夢みる。
.
_ 時折遠方から「本をすすめてください」と言って訪ねてきてくださる方々は、見えているものや見たいものが、ある程度はぼくと似ているんだろう。まだジャンルとして確立しているとまでは言えない超短編を、愛好する人は少なくない。
そういう人に、真っ先にすすめたいのだが、品切重版未定なもので店頭で手渡すことができなくて残念だなーと常々思っている丸山健二『千日の瑠璃』は、文春文庫版上下巻が手頃な古書価格で流通していますからどうか御入手めされい。
.
変わりゆく地方都市で生きる一人の少年と一羽のオオルリの千日間。物語の経糸をさらっと言えばそういうことなのだが、この物語を空前絶後の異形の書物にしているのは第二ににその構成で、1ページで一日、1000ページで千篇の超短編の連作になっているのです。
以前某巨大掲示板の「史上最低の小説」とかいうスレッドで、誰もが「ああ、あれね」と思いつくようなうっかりベストセラーやがっかりロングセラー群に伍して、『千日の瑠璃』は読者の絶対数から考えれば特筆すべき得票を獲得していたが、この作品をゴミだカスだ石ころだと思う人は少なくないようだ。子どもの頃、道端で拾い蒐めてきた宝物をたいせつに納めた標本箱を、勝手に母親に捨てられてしまったような哀しみを感じるかというとそうでもなくて、やはりこの本は万人向けではない。
第一にこの本を空前絶後の異形の物語にしているのは話者である。
千篇すべて、異なった話者の一人称なのだが、一日目はこう始まる。
.
私は風だ。
うたかた湖の無限の湧水から生まれ、穏健な思想と恒常心を持った、名もない風だ。私はきょうもまた日がな一日、さながらこの世のようにさほどの意味もなく、岸に沿ってひたすらぐるぐると回るつもりだった。ところが-
.
そして話者は移りゆく。「私は闇だ」「棺だ」「鳥籠」「ボールペン」「ため息」「日差し」「めまい」「記憶」「対岸」「バスタオル」「雨音」「詩」。抽象から具象にわたる森羅万象が、それぞれの独特の視野で、独白する。
「商店街」はふたたびの賑わいを夢みる。「徘徊」が牛をそそのかし、「教室」が繰り返される絶望とかすかな希望を語り、「土星」は彼を律する調和によって、少年の心と体に巣食った毒を祓おうとする。「少数意見」は少数意見の中の多数意見と少数意見に投げかけられた少数意見について報告し、「蟻」はおやじの禿げ頭からの見晴らしを語る。
そのようにして千篇。
内容だけが、物語ではない。読み進みながらぼくは、この物語が書き上げられるに際して払われた労力に、想いを馳せずにはいられない。万里の長城を眺め渡して呆然としているとき、「じつはこれはひとりの人が造ったのです」と教えられたような。この異形の物語を可能にした異形の意思を、物語とともに読まずにはいられない。思考を日常から遠心分離し、肉体からもぎ放そうとする意思。
.
.
私は文字だ。消え去ろうとする書物を、必要とする人の手許に残すために、今あなたに読まれている文字だ。
.
_ 寝仔 [わっ、ここの追記を読み逃していました。 安心して伊藤訳を買います。 彷徨い中の寝仔より。]