_ 神格化された太古の種族の遺構や、隔絶した異星の文明の遺跡に足を踏み入れ、未知の記号の羅列に出会う。まったく意味はわからないのだが、しかし意味があるとわかる。それは言語だということがわかる。
ファンタジーやSFの中でたびたび出会ってきた、知的に魅惑的なシーン。
(この手のシチュエーションが好き!という向きには、川添愛『白と黒のとびら-オートマトンと形式言語をめぐる冒険-』東京大学出版会をおすすめしたい。物語に託した科学解説書は今までいろいろ出ているが、その手のものでは出色の出来だと思う)
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_ 幼稚園の年長のとき、おなじ八戸市内の西へ、海から離れ山に近づく方角に引っ越した。
年少のときに近所から引っ越していった友達、加藤くんがまた近所になった。
裏の家の大谷石の塀を指でほじくりながら歩く。材木が灰色になるまで雨ざらしになった空き地を過ぎると東北砂鉄のあおぐろい社宅が横並びに二棟、その向こう側にはブロック塀を隔ててベージュ色の電電公社の社宅が重なって二棟あった。ベージュの社宅の裏のブロック塀によじのぼって右に歩くと、塀の向こうの道は下り坂になっているせいでだんだんと跳び降りるのが怖くなる高さになって、そのぎりぎりのところでいったんぶら下がって、壁を蹴って降りると加藤くんちの木造の二階家があった。
家の真ん中にある広間で遊んだ。広間の壁際に加藤くんの五年生のお兄ちゃんの勉強机があって、本のかたちをしたものは引っ張り出したくなるぼくは、お兄ちゃんの教科書に手を伸ばした。「見ていい?」「いいよ」
昭和40年前後の八戸にはまだ小学校中学年以下を対象とした学習塾なんて無いに等しく、早期教育という概念を所持する親もほぼいなかった。将来習うはずのものに、あらかじめ出会う機会はほとんどなかった。幼稚園の年長くらいなら、まだひらがなをちゃんと書けない子がざらにいて、カタカナまできっちり書ければ自慢である、そういう時代。自分の名前を漢字で書けないのは当たり前だった。
加藤くんのお兄ちゃんの教科書は漢字が多くて難しかったが、意味がわからないことが楽しかった。まだわからないけれど、いつかわかるようになることが、とってもたくさん待っているとわかるからだ。次から次へと手に取っては、読めないけど想像で読んでるつもりになると、すごく頭が良い存在になった気がした。
そして何冊目かに算数の教科書を手に取ったとき、ぼくはもう気が遠くなるくらい感動した。
予備知識なしにいきなり出会った五年生の算数は、たんに難しいだけではなかった。未知の言語体系だった。奇妙な配列の数字と異様な記号、図表、図形。これらがなにを表現しているのか想像もつかないくらい、今まで出会った本と隔絶していた。意味がわからない。けれどもぜったい意味はあって、その意味はおそらくぼくがまだまったく知らない意味の体系なのだ。かっこいい。世界はすごい。自分はちっちゃい。
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_ 小学校の卒業文集だったと思うが、石田さんという同級生の女の子の詩が、片隅に小さく載っていた。「わかるわからない」という詩。
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わかるということがわからない
わからないということがわかる
どうしてわからないのかわからない
どうすればわかるのかもわからない
わからないということだけがわかる
いつわかるかもわからない
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これを読んだとき、あの算数の教科書との出会いを、ありありと想い出したことを想い出した。
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