_ 意識とは言語が物質に語りかけるための技術である。
実存としてのわたしたちは、言語じしんの鏡像段階における鏡像の側にいる。
言語が物質に語りかけるとき、意識は言語にとっての言語である、と言ってもよい。
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わたしたちが思考の軌跡を、以後検索再生可能なかたちに記憶するためには、いちど物質に翻訳して刻印する必要があるがゆえ、思考がいかなる高みに到達しようとも、その高みを記憶することはできない。
ゆえに思考は、常に高みに留まらなければ(あるいは作業記憶的に熟練してその都度飛び立たなければ)、あたらしい境位には進まない。
高さは、〈ここ〉にしかないから。
ただし意識が物質の師として、物質を教育できるとするなら、話は別だ。
つまりは言語の成熟よりも、物質の育成が先決なのである。
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今は踏み切るための大地である記憶を踏み切り、
今は今を風とするしかないけれども、
思考が、それをはらんで飛び立つことができる、風としての記憶を夢みる。
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少し上のほうに出て来ました。こんばんは。 <br> <br>円城塔さんの「これはペンです」を読んでいた時のことを思い出したのですが、物質に普段あまりつかない形容詞がついているととても楽しくなります。 <br>物が生きていると思って楽しいというよりは例えばこの日の題名の「かわいい盛りの脳内物質」と読む時の感じに、萌えているというのが近いでしょうか。 <br> <br>詩人で美術評論家の瀧口修造さんの「物物控」という文章が確か「余白に書く」の1か2にあるのですが、決して手懐ける形では擬人化したりしない瀧口さんの物たちへの眼差しを信頼しています。 <br> <br>シュルレアリスムの一部の、イメージや言葉(そして造形物)の接続の事故のような表現に私は惹かれます。 <br>鈴木雅雄さんの「シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性」はシュルレアリストたちへの幻想を省き、冷徹なまでに細部を観察したよい本です。 <br> <br> <br>構えや気恥ずかしさは私のほうにどうしても生まれてしまうのですが、目的のためにまた本の題名を少し置いていきます。 <br>どうぞ御負担のありませんように。 <br> <br>「水の都の王女(上)(下)」J・グレゴリイ・キイズ(ハヤカワ文庫FT) <br>「ジェンナ」メアリ・E・ピアソン(小学館SUPER!YA) <br>「怪物はささやく」パトリック・ネス、シヴォーン・ダウド(あすなろ書房) <br>「tokyo404」新城カズマ(文藝春秋) <br>「おさがしの本は」門井慶喜(講談社文庫) <br>「それでも読書をやめない理由」デヴィッド・L・ユーリン(柏書房) <br>
手探りながら <br>おすすめの本です。 <br>一つの街のなかの物語。 <br> <br>「十一月の少女」森内俊雄(新潮社)
おお! <br>ありがとうございます。 <br>しばらく、立ち寄れずにいるうちに、抽象的な本棚に本がいっぱい。 <br> <br>最近、長い間懸案だった「考えの縛り」の抜け道が見つかって、今まで読み切れなかった本が読めるようになってきたので、ちょっと値の張る本を次々と買い込んでしまい、お金がないよう。 <br>ご紹介の本たち。じっくり、釣り上げていきますね。 <br>いわゆる「本読み」の人と話す機会は少なくないのですが、奥深さとかマニアックさに驚くことはあっても、広さに驚かされることはほとんどなく、むしろ狭さに驚く。 <br>僕の狭い経験から見てのこととはいえ、寝仔っこさんはなかなか守備範囲が広くて、思わず顔がほころんでいます。 <br>グレゴリイ・キイズの二部作は僕も好きです。言語について、一生忘れない、とある貴重な着想を得た作品で、折に触れて想い出しては「ありがとう」を言っています。読みながら頭の中で、外伝を一編書き上げてしまったっけ。 <br>この本を想い出すと、連動して想い出されるのがバーバラ・ハンフリー『ダールワス・サーガ』。本の中にはないすばらしい名シーンを残してくれました。ファンタジーの歴史に残る、かっこいい魔法使いが登場します。ああ、あの台所の缶ビールのシーンはよかったなあ(このシーンは本の中にありますw)。 <br>
あ、しまった。 <br>ハムリーだったりもするバーバラのハヤカワでの表記はハンブリーでした。