_ 効率的に考える力とは、なにを考えるべきかを捉える力ではない。今、考慮に入れなくてもよいことを無意識に除外する習慣である。考えるべきことよりも、考えなくてもよいことの方が、無限に大きいからだ。
成熟することとは、考えるべきことを学ぶことではなく、考えなくてよいことを考えずに済ます習慣を蓄積する過程である。
子どもは天才だと云うけれど、なにも子どもの方が自由に思考するわけではなくて、よけいなことを考えてしまうから、ときに大人には思いも寄らぬことを思い付くに過ぎない。
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子どもの頃は、自分の言いたいことの問題圏を俯瞰することができなくて、説得力に欠けていた。大人と議論しては「屁理屈を言うな!」という一喝で片付けられた。不満だった。屁理屈になっていることは分かってる。でも、大人と子どもがおなじ土俵で勝負してどうする。「おまえの言いたいことは、実はこういうことではないか?」と、子どもの気持ちを代弁できるくらいの度量のある大人はいないのか。子どもが納得できるまで代弁して、その上で否定されるのでなければ、その否定が納得できるわけがない。子ども自身が、自分の言葉に納得していないのだから。自分の体験の枠を超えた問題に立ち向かうからこそ、屁理屈が出るのだ(そもそも「子ども」とは、自分を説得する力のない者のことである。逆に云えば、納得できない問いを抱え続けている限り、その人は幾許か子どもであり続ける)。
ぼくは心に決めた。ぼくは大人になっても、誰かに対して「屁理屈を言うな」とはけっして言わないと。
子どもの頃の悔しさを、今ならこのように表現する。
人は弁護できないことを批判してはならない。批判できないことを弁護してはならない。
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正しい考えは存在しない。現実的な問題に対する解答は常に複数あり、妥当性の程度によって順位付けられ、状況が変化すればその順位も変わる。
最適解に最速で到達する人が、最高の判断力の持ち主とは限らない。むしろ判断力は、その人が実際択ぶこともでき却下することもできる選択肢の幅で計られるべきだろう。たったひとつの結論しか選べないことのリスクは、ひとつに絞れない逡巡のリスクより大きい。
そういうわけで、ぼくは将来、場合によっては、誰かに対して「屁理屈を言うな」と言うかもしれないし、弁護できないことを批判するかもしれないし、批判できないことを弁護するかもしれない。
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