_ ぼくは絵心など持ち合わせないので、レオナルドなどを見ても、「モナリザ」あたりより晩年の水のスケッチに心動かされてしまう。
「画家はあらゆることを知らねばならない。すべてを描くために」その言葉の殺気にも似た意志が、水を描き抜こうとする描線の運びに漲っていて、ぼくの瞳孔を押し開いてくる。
空気のなかに散るしぶきや流水の表面ならば、はっきりした境界があるだけに複雑といえども表現のしようがある。しかし、彼が捕らえようとしたものはむしろ、水のなかで踊り水に遮られ水を貫く水、水のなかを流れる水の姿だった。
小川のなかの棒杭のまわりで渦巻き流れる複雑で躍動的な水の振舞いを、あのよく知られた人体解剖図とおなじ視線で描く。いわば水の解剖図である。ことに水面下の水の動きを追ったスケッチがすばらしい。ほどけゆくその力によってよじれ合い、崩れ落ちるその力によって巻き上がる交響と錯綜を、驚異的な解像度で表現してみせる。
思い返せば雲の示す輝きと陰翳を、枝葉の織り成す無限の角度と奥行きを、「見えるがまま」に描こうとして何度挑んでも撥ね返されていたぼくのような者には、水のなかの水を見えるがままに描こうとする着想自体が憧憬の対象であり、それを現実にする技量は崇敬の対象である。
だがしかし、見えるがままに描かれたはずのスケッチの群れは同時に、エレガントな解を求めていたずらに書き散らされた数式の群れのようにも見える。ああでもないこうでもないと、撥ね返されながら幾度も、なにものかに挑みかかっている仕草に見えて、おそらく描き連ねられてゆく過程はそのまま「計算」でもあって、レオナルドにとって捕らえるべき「水の姿」とはすなわち、「流体の法則」でもあったのだということをひしひしと告げ報せてくる。
スケッチそのものはむろん美しい。そして、画面から逆算されるように見る者の視線の上に再生されるレオナルドの、灼け焦げた針のような知的な欲望の視線がまた、慄えるほどに美しい。