_ 電線の周りでカルマン渦がエオルス音を奏でる、とても静かな朝。
向かい側の歩道を早起きのお爺さんが歩いていて、ちょうど通りを隔ててぼくとすれ違うところで、足許にあった黒い石ころ然としたものをぽんと蹴った。
突然、天使の笑い声みたいな澄み切った音色が、驚くほど高らかに響き渡る。背後のガソリンスタンドの大きな箱型の空間が共鳴胴の役目をして、響きのあとを響きが、切れ目無く追いかけてゆく。奏でられた音がまた次の弦をはじくように。
水のような光で弦を張ったハープならもしや、こんな音を出すものだろうか。いままで聴覚が出会ったことのない音である。
お爺さんは咄嗟に身を守るように斜めに傾いでいたが、響きの末端が彼方の喧騒にまぎれると、さっと立ち直って何事もなかったように歩き去っていった。
ぼくは、好奇心を抑えきれず通りを渡って響きの主を探す。お爺さんが蹴る瞬間を見ていたから、すぐにわかる。漆黒のお椀みたいな金属製の物体。それはありふれた自転車のベルだった。まだぴかぴかだけど、ちいさなハンマーが当たるところだけ、塗装が剥がれている。くすくす。おまえだと分かっていれば、さっき聴こえたようには聴こえなかったかもしれないな。うまくやってくれたよ。
ためしに、もう一度歩道に置いて蹴ってみる。・・・・・・・ああ、やっぱり美しいではないか。なんて瑞々しい音なんだ。
どこにでもあるベルとガソリンスタンドと早朝の時刻が、偶然の楽器の構成部品になっているんだ。