_ ぼくはトーベ・ヤンソンのよい読者ではないが、来日したときアニメのムーミンに対し「これは私のムーミンではない」と、冷たく言い放ったエピソードが印象に残っていた。
ただごとでなく世評に高い『誠実な詐欺師』が文庫になった。ヤンソン・コレクション版を手に取ったことはなかったが、あちこちで引用されているコレクション版の文章と読み比べてみると、全面的に訳し直されているようだ。訳者である冨原眞弓さんの解説を読むと、思い入れゆえに熱を持ってしまった文体を冷やした、というふうだ。訳者のなかでも思い入れが、変化しながら、強く持続していたのだろう。
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_ これは「誠実でしかない詐欺師」の女と、「誠実であろうとすることにより詐欺師」である女の冷戦である。そしてなによりこの作品は、ひとりの誠実な詐欺師によって書かれた小説でもある。
全編ひりひりした気配が漲っているが、実のところ引いた眼で見れば、この小説の舞台である海辺の村の人間関係はおおよそうまくいっているのであって、状況はぬるい。むしろ破壊的なエピソードを持ち出さず外傷的な記憶に支援させるでもなくこれだけの緊迫を保ち続けることこそが至芸であろう。物語の詐欺に拮抗する、作者の誠実さがそれを可能にするのか(それとても詐欺であるにせよ)。
誠実な詐欺師になり切れない読者はうんと冷やされ、すでに誠実な詐欺師である読者は少し冷やされる。いずれにしても身が引き締まる寒さ。
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_ 作中に登場する絵本作家アンナ・アエメリンは、森の土壌の神秘的な細部を愛する。針葉樹の葉一枚もおろそかにせず、森の本質を描出してみせる。そのことにたとえようもない幸福を感じている。そしてアンナは、人気者である三匹の兎、アンナを人気作家にしてくれている花柄の兎の一家を描き入れ、絵を台無しにする。そして売る。
ヤンソンの古くからのファンさえ狙撃する氷の弾丸が、連射される。
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花柄の兎はどこにでもいる。アンナ・アエメリンの絵本でなくとも。ぼくの文章にもいる。
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_ ぼくの心性はこの物語の近隣にあって、読んでどこかに持ち去られることはなかったけれども、自分の作品の隅々まで他人のような作者の視線が行き届いた希有な傑作であることは確か。森の土壌に這いつくばるようにして、読み込む価値がある場合もある。
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(これは作者も訳者も明記していないことなので、書こうかやめようか迷ったのだが、曖昧に付記しておく。この本はテンプル・グランディンや花風社の本が関心の範囲に入っている人にも手に取っていただければと思う)