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雪雪/醒めてみれば空耳

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2006-04-20 情操の遺跡

_ 人間の脳神経系には可塑性があって、どこかが壊れても代替回路ができて失われた機能を補うことがある。神経疾患は、病気になって時間が経つとその補償のはたらきによって症状が曖昧になるので、発病したてのほうが診断がつきやすい。

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読書にもそういうところがあって、物語から衝撃を受ける、というとき、その衝撃は少しく既存の概念を損傷し、概念は治癒の過程で再構築される。衝撃は長くは続かない。衝撃を受けた瞬間にぎりぎり届いた場所から、私はゆっくりと引き戻される。ひとときの賢さは鈍り、ひとときの愚かさは癒える。

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初読時に鮮烈だった本も、時間をおいて読み返すとさっぱり訴えるものがなくて、胸を打たれた往時の記憶を訝しく思ったりする。自分が過去に書いた文章を読んでいて、こんな本を絶賛してしまってどうかしていたのではないかと恥ずかしく思うこともある。

しかし、そういう場合に変わってしまったのは当然ながら私のほうで、本ではない。以前心動かされた本を読んで、今ぴくりともしないとすれば、自分が成長したか鈍くなったかどちらかであろう。

むしろ、色褪せてしまった本は、ゆっくりと化学変化して私を大きく変えてくれたと言えるかも知れない。しっくり身に付いてしまったために、読み返しても当たり前のことしか書かれていないように見えるくらいに。

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自分が変化した時、それが成長なのか鈍麻なのか決めるのは難しい。人間はしばしば、評価の基準ごと質的に変化するから。質的な変化がおこったときはしばしば、それまでの「問題」は状況がそのままであるにも関わらず「問題性」を消失する。

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「なんでこんなことで悩んでいたんだろう?」

私は拍子抜けしながら、それまでの自分を「バカだなあ」と思う。

そのうち新しい眺望Bに慣れるにしたがって、バカだったときの眺望Aを忘れ、いまだに眺望Bに属する人を見て、実感を籠めて「バカだなあ」と思えるようになる。それは眺望A喪失の徴候である。

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眺望Aだろうが眺望Bだろうが、その場所にしか立てないのなら「じっとしていた」と同義である。戻って来れないのなら、旅立った意味も半減する。眺望Aと眺望Bを併せ持つからこそ、そこに落差があり空間があり、動作の自由がある。眺望Aと眺望Bのあいだに奥行きを見出すからこそ、その向こうにある眺望Cへ、あるいは眺望A以前に想いを馳せることもできる。

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どんな眺望に達しても輝きを失わないもの、忘れられないこと、そのようなものだけが大切なのではない。

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色褪せた本。見切りをつけた才能。もう魅力を感じなくなったアイドル。飽き飽きした曲。触らなくなった楽器。脱却したくだらない問題。克服した感情。忘れ去った想いびと。守るつもりだった約束。ご無沙汰の店。読み返す気も起きない自作の詩。仕舞い込んだままの服。かわいくなくなったぬいぐるみ。もはや引くことのない線。

私は自然に陳腐化するものを自然に軽視してしまう。そして二度と戻らない実感を惜しげもなく喪失する。むろん陳腐になりゆくものを引き止めることはできない。あらゆるものを新鮮なままにしておくことはできない。

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けれど感性の力とは、感度とともに可感帯域の広さであろうから、今は陳腐に感じるものが瑞々しかった頃のことを、その実感を、かすかなりとも忘れずにいられるならば、それは感情移入の幅を広げてくれる。

愚かで青臭い過去の自分は、貴重であり豊饒である。それを忘失すれば、「この人も子どもだったことがあるのだろうに」と、思われるような大人になっっちゃうのだべー。