_ 生物はチャンスに反応する物質である。
動物は、チャンスのなかでも特に「一瞬訪れて去る種類のチャンス」に反応する生物である。言い換えれば動物は、「カメラを持った植物」だ。
あるいは世界側から言えば、事象は動物を媒介して機会を焦点化(フォーカシング)する。
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[現在]は世界にとっての、変更の技法であり、生物は世界が[現在]を制作する媒体である。
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植物だったときには、しとやかに流れに身を任せた。たまにおてんばもしたけど、流れるように生き、流れるように死に、流れるように滅んだ。
一瞬を手中にしたとき、跳ねることをおぼえた。
からだが跳ねるときには、心も跳ねた。
憑かれた様に跳ね続けた。
そのうち、心だけが跳ねることがあった。
世界のなかに動物がうまれたときのように、動物のなかに動物がうまれたのだ。
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私達は強くない。賢くない。悟らない。
ずっとは。ずっとのあいだは。
でも、一瞬なら。
一瞬なら強くなれる。
一瞬なら賢くなれる。
一瞬なら悟れる。
一瞬なら、水面を破ることさえも。
自分からさえ跳ね上がることができる。
そして私達は、それを思い出にする。
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世界は美しくない。
ほとんど。
あるかなきかのかすかな美しさを、摘み上げて摘み上げて積み上げてきたのだ私達は。
時には、すべてが美しいと感じてしまうまでに。
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世界を解釈することは、世界に講釈することだ。
世界に美しくあろうとする動機はないし、美しいままに私達を待っているわけでもない。
私達が美しさを発見するとき、それは忘れ去られていた美しさを思い出しているのではない。私達が美しさを忘れ去るとき、美しさはまた誰かが思い出してくれるのをどこかで待っているわけではない。
私達は時折、人類の夜明けの時代に想いを馳せて、最初の詩、最初の音楽、最初のひと言、最初の約束について考える。
いったいこれらの魔法は、どのようにして始まったのか?
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私達にとっての一瞬。
この一瞬。
次の一瞬。
その次の一瞬。
たとえ思い出にもならないありふれた一瞬であっても、それはすべて、もしも人類の夜明けの頃に起こっていたなら、人類史を変えてしまったであろう一瞬である。
長い長い年月を経て私達は、魔法を日常にしたのだ。
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いま行くことができるどこかのうち、もっとも遠いどこかへの旅程は、一瞬である。
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生きることに意味があり、そしてその意味を理解したとしてもなお、死を択ぶ意味が消え去るわけではない。
ただ、きっと、一瞬の余命があれば、生き続ける意味はある。
そしてぼくも、次の一瞬くらいなら、生き続けることができると思うのだ。
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(2002年 9月 二階堂奥歯へのメールより抜粋・一部改稿)
はじめまして。<br>私は「世界は美しくない…」をtwitterでの引用で知り奥歯さんという人を知りました。これは雪雪さんの言葉だったのですね。素敵だったので覚えてしまいました。一生忘れないでしょう。<br>「八本脚の蝶」を手に入れてその箇所までたどり着き、あれっ引用かと気づき、ここを探し当てました。<br>誰もコメントしていなかったので一番乗りしたかったのです。<br>ではでは。