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雪雪/醒めてみれば空耳

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2006-04-13 陽のあたらない坂道

_ 一流のスポーツ選手の筋肉はふよふよとあったかい餅のように柔らかいが、弛緩と緊張の落差こそが筋肉の能力だからであって、心もそうだと思う。

マーティン・セリグマンの作った楽観性と悲観性を判定するテストをやったことがある。結果を線上にプロットするような心理テストでは、楽観性と悲観性をおなじ線の両端に置いて、まるで楽観性の不足が悲観性であり悲観性の不足が楽観性であるかのような扱いになっていることが多いが(そしてぼくはそれが不満なのだが)、セリグマンのテストでは楽観性と悲観性は独立した尺度になっていた。ぼくはその両方が満点だった。これはいいテストだと思った。というか、なかなかいいじゃないか自分、と思ったのだ。極度の楽観と極度の悲観が並存する精神は信頼がおけるように思えて(その見方楽観的過ぎるよ、いい気なもんだと悲観してみたり)。

_ 思考の過程を言葉であらわすには、線形に展開しなければならないし、思考の振幅や陰翳の部分をいちいち捕捉していては散漫になってしまう、だいいち書き終わらない。

考えの半分、つまり東半球とか西半球をきっちり書くことができれば、省略した側もあえて語られなかった部分として伝わるのかも知れないが、書くこと自体がもとより多種多様な省略を伴うので、省略のうち戦略的な省略だけを明示することは難しいし、そんなふうに隅々まで計算できるほど分かり切ったことを書くのは退屈だし無駄だ。

_ 昨日書いた『三度の飯—』は、本屋大賞のことを考えているうちに書けてしまったもので、あんまり関係ない話になってしまったので没ろうかと思ったけど、自分の思考の癖があらわれているので、後から読み返そうと思って残した。

それはそれとしてたいていの人は、思考という名目で、癖や習慣に従って運ばれているだけではないかという疑いをぼくは持っている。自分もほとんどの時間はそうだ。

でも場合によって自分を離れられる人、必要ならば容易ではないにせよ人間であることから離れることも厭わない人に、わずかながら会ったことがある。陽の下にあたらしいもの無し、と言うけれど、だったら陽の下からちょっくら出てみる?みたいな。

賛成! 行こう行こう。