_ 「読んだ本の内容を忘れてしまうので、もったいない」と言う人がいて、「どうすれば憶えておけるのか」と訊かれるのだが、僕自身がどんどん忘れてしまうほうなので、参考になることは言えないの、であるけれどもそもそも内容だけが本の読み処ではあるまい。
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本は心の食事であり思考の運動である。
おとといの晩ごはんになにを食べたか忘れたら栄養が消えてしまうわけではないし、先週のトレーニングのメニューを暗唱できなければその効果が無くなるわけでもない。
本は、読んでいるそのとき心がおいしければいいのだし、思考が走り跳び伸びねじれほぐれ温まればいいのである。それだけで、本を読む意義はあるだろう。
そしてたとえ意識に上らなくても食事や運動が体に残り、機能したり構築したり燃焼したりするように、読んだ本は心にとどまりいろいろなことをする。たいがい意識の知らないところで、私達を育ててくれる。そのうえたまさか記憶に残ることがあったらそれは儲けものというものだ。
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人の成長というものは単調な登り坂ではなくて、登りのあとに長いプラトーを経て経験を蓄積し、蓄積がある閾値を越えると登り坂があらわれて開眼し、あたらしい視野を得てまた次のプラトーへと歩み出す。
登り坂で最後に背中を一押ししてくれて、わっと見晴らしが開けるきっかけになった本があれば、それは印象に残るだろう。けれどもしかすると、長いプラトーを淡々と踏破するあいだささやかな追い風であり続けてくれた、目立たない、もっと重要な本があったかもしれない。
心に刻印されるような衝撃や、思わず声が洩れるような昂揚はなにもないけれど、無くてはならない本。
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そんなことを考えていると思い浮かぶ、僕にとっての欠くべからざる一冊がある。それは今まででいちばん好きな写真集。僕が別人のように変化しない限り、死ぬまでいちばんであり続ける気がする写真集だ。
それを撮った人は、高名な画家で、時代を画するような斬新なグラフィックデザインを一再ならずものしてきた。作風は猥雑にして混沌。悪趣味なくらいコントラストの強い原色を駆使する。一見すれば、その人とすぐわかる。文筆にも才能を発揮するが、そちらも同様な印象である。ケバい。
そんな彼が、あるとき突然枯れて、おなじモチーフの地味な風景画を、延々と量産するようになる。たたひたすら、ありふれたY字路の画を。
Y字路だけの個展が開かれ、画集がまとまった。
数年を経て描くのに飽きてきたのか、ふいに写真集が出た。
それが国書刊行会『東京Y字路』横尾忠則。2009年の秋だった(ちなみにY字路の全画業を集大成したあたらしい画集が8月刊)。
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画集よりも写真集のほうがいっそう枯れている。写真のほうが、より作者の「自分」を消去しやすいからだろう。
ありふれたY字路が、おなじ構図で並ぶ。鋭角の突端に分かたれて画面の右奥と左奥に伸びる二本の道。撮影場所は中央区にはじまり、次第に郊外へと移行し、大島に至る。隣接した写真どうしの撮影場所はほぼご近所なので、全体の乏しいヴァリエーションの中でも、ことさらに似通った写真が連続する。
しかし、退屈しない。ページをめくればあらわれるY字路が、どれも新鮮で、異なった印象をもたらす。
ヴィトゲンシュタインの家族的類似になぞらえて言えば、ガンダム的類似。ガンダムプラモを総ざらえした『ガンプラ大全集』を眺めているときの愉しさを連想する。関心のない人にはほとんどおなじに見えるガンダムも、好きな人が見ればぜんぶちがう。「これぞガンダム!」から「これがガンダム?」まであるが、やはりいずれもまぎれもなくガンダム。似通っているからこそ、繊細きわまりないささやかな機微に注目することができる。
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236葉の写真が喚起する236の感情。記憶のなかではもはや弁別できないほどささやかな風情たち。
この写真集の魅力は、記憶に残らない。見ているときは魅力的だった、という記憶は残っているけれど。
見分けることの出来るすべての色を、思い浮かべることはできないように。そう、30種の青を見分けることはできても、30種の青を思い浮かべることはできないように。あるいは頭の中の味の記憶と、いま味わっている味を照合しようとする利き酒が、思いの外むずかしいように。じっさい手にとって眺めているときだけ、現在にだけ留まる芸術。
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いくたびもこの本を繙いて、いくつものY字路に佇むうちに、みえないものがみえてくる。
この本を開いた瞬間、射してくるひかりが。
はじめのうちそのひかりは、曙光のさきぶれのように遠くの空を明るませることによって、心の地平線のありかを報らせる。
やがて、この本を開いたときだけ起こるなにかに対して、無意識がする準備があるのだろう、そのひかりが、そのひかりがあるときとないときの差が、明白にわかるようになる。
今しも『東京Y字路』を開けばひかりが、地平線の向こうに閃く最初の曙光のように、心の中の起伏を低くたばしる。わたしたちがふだん、自分の心のはたらきつつある様を水音のように聞いているとすれば、それがとつぜん、揺らぐ水面と弾けるしぶきと躍るしずくとなってあらわれる。
卑近なたとえで言えば、大好きなギターフレーズの音色しか知らなかった人が、それがどのような指使いで奏でられるのかを目の当たりにしたとき、とつぜん身体が参入してきて、音色が空間を得て立体化するように。
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現在に備わった生彩なクオリアだけが表現でき、想起することはできないもの。それこそが芸術の神髄ではなかろうか。
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『東京Y字路』。それは開いたときだけ奏でられる楽器のように。
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雪雪さん、こんばんは。<br>もうじき丑三つ刻ですが。<br>テキストがそっと増えたりしているのをわくわくしてます。<br>実はこの日のうちにもう調べもせず向かった図書館で、最初から最後までじいっと見てきました。<br>雨が土に染みるように私が写真に染みて、懐かしい場所ではじまり懐かしい場所で終わる、その偶然に、そしてそれより思い出される楽園だった記憶にテンションが上がりすぎて、だれか、だれか書くまで書かん! と思っていたら、最初の頭の中の言葉たちがひとしきり語って気が済んでしまったので、困りました。<br><br>今日は早足で来ました。<br><br>何か足りなかったら、また来ます。<br>おやすみなさい。
あ、もうこれは見ていないと思い出さないので機会を虎視眈々と狙って買います。
量子力学について読んだり聞いたりする時に、私はフィルムカメラ(ピントの絞りも手動の)をいつも思い浮かべて例えたり一時的理解という面に定着しようとします。<br> それにはちょっと(もしかしてちょっとどころではなく)限界があるのでは、と思うのですが。<br> <br>「東京Y字路」を、朝起きられた勢いでいつもより早く家を出て病院へ向かうためにいそいそしているなかで、行きがけにある図書館に寄り道をして手に取りました。幸い時間はたっぷりありました。<br>もしかしたら早起きハイに見舞われていた可能性がなきにしもあらずなのですが、まず写真から、と開いた一番目のY字路をしげしげと見て、それまで張り詰めていた自分の形が滲んでいくのを感じました。<br> 引っ越して一年足らずで、新しい街の光景に違和感ばかりを感じ取っていたせいもあるかもしれません。私自身がはっきりと見た、と覚えている景色はおそらく全体の二、三枚あるかないかなのですが、そのディティールを構成しているガードレールの色や道路の舗装に使う素材やはっきりとは認識せず流しながら記憶のどこかに蓄積した「街」の要素が、知っている、という感じを私に喚起したのだと思います。<br>(あとは都内を何回か転々としているので、知らない街のY字路では少し胸苦しくなり、知っている街ではどこかにその要素を探そうと自分が写真に対して開いていきます)<br> 雪雪さんのご紹介で始まりと終わりの地区は知っていたのですが、延々とじっくり写真に見入って最後の三枚でしたでしょうか、海の青さと元町の港の建物が目に入った時に、あ、懐かしい! と思った自分に驚きました。<br> 三原山が吹く前の数年間でしたが、親戚がいた元町に夏休みに数泊するのが、田舎を持たない小学生の私にとってはとても楽しみな時間でした。同い年の陽気な男の子の親戚と遊ぶのも、海で泳ぐのも、大きすぎる花火を近くで見るのも、林のある坂道を蝉の死骸をたくさんよけながら登って行った駄菓子屋さんで、ガリガリ君を子どもたち三人で買って帰っては、坂の途中で当たりが出て、三往復くらい馬鹿笑いしながら行ったり来たりした思い出。<br> 帰りに椿の実に彫ってもらったなまえ。<br> その他にもたくさんのことを連関して思い出します。<br><br> 雪雪さんの書いていらっしゃる効用とはまた別の個人的なすくわれかただったので、長々書くのもどうしようかなあ、と思いつつ、今日やっと時間がちゃんと取れたので書きに来ました。<br> ご本は、また現実逃避読書に森博嗣に飛びつつ、「言葉の外へ」から読んでいます。そして驚いています。それについてはまた改めて、書きに来ます。<br> <br> <br> 雪雪さん、ときどき、ほとんど。<br> 思い出すことと想像することは似ていて、そこの空隙から押し返す力のようなものの風圧の、隙を見つけることができない時のほうが、私にも多いのです。<br> 雪雪さんもそうだと断定することもないのですが。<br> そしてそれについても上の感想についても、読むにとどめていただいて構いません。<br> <br> 私は時々どうもうなふりをしている犬を街の外の木につなぎにいって、お前がチワワくらい小さくなったら迎えに来てやるよ、などというのですが、なんだかかわいそうで、そしてしばしばそうしたことさえ忘れて、また一緒に街の外まで行きます。<br> <br> これについてもまた、いつか。<br> <br> 個人的なことを長く書きました。<br> 暑いのでお身体お気をつけください。<br> <br> 草々
追伸<br>カメラのピントは、というかフィルムの面は、人間の視野では一度に見られないはばの隅々までピントを合わせることができます。<br>そのことにあらためて感激し見入っていました。<br>それから人のお家の窓というのはなんだかいつもノスタルジーです。<br><br>それからそれから、「ムーたち」の一巻を読みましたが!<br>私の誕生日を西暦から足していくと11になります。<br>名前の画数も11で、誕生日も1ばかりなのでした(威張る)。<br><br>ではしつれいいたします。
このところ、読んでは忘れる(それが仕事の為の資料でも)を繰り返している私には、冒頭のお言葉は額装して飾っておきたいです。