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雪雪/醒めてみれば空耳

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2015-02-16 奇跡が平凡であるという奇跡

_ どのような書物も、世界遺産と呼び習わされるようないかなる遺産よりも、壮大で奇跡的な遺物に見える。書物はすべて、果てしなく遠くから来た。

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ふだんは、なにげなくことばを使っている。ことばを使って、想うときも語るときも書くときも、ほとんど負荷はかからない。水のようになめらかに、それは溢れ出てくる。

いつもは岸に立って流水を眺めるようにことばのふるまいを淡々と眺めているが、ことばに託そうとする意味がのほうがたどたどしく滞るときや、逆にみずからの力で語りを追い越していくようなとき、心はことばのなかに潜り込んで、ことばに全域的に取り巻かれて、ことばとじぶんの境がわからなくなる。

ことばになってことばの中から世界を眺めるとき、ことばは、この上なく壮大である。サバの群れの中の一尾のサバになったみたいに。無数のきらめきにきらめく無数の表面のひらめき。

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春に回遊するサバの周囲には、数百兆個の卵が放出される。生まれるまでに万分の一になり、稚魚になるまでに千分の一になり、成魚になるまでに百分の一になる。魚の図鑑を見れば、サバの寿命が数年から数十年と記されているが、それは無事成魚になった健康なサバが、一般的にどれくらい生きるかの数値であって、人間が算出する平均寿命とおなじ仕方で算出すれば、サバの平均寿命は限りなく短くなってしまうだろう。

ことばの平均寿命も、きっと限りなく短い。しかして魚とことばのちがうところは、生き残った成体の寿命である。生き残ったことばは、ときに百年を生き、あるいは千年を生き、まれに万年以上を生き抜く。

死屍累々の生存競争を生き抜いた、もっとも長命なことばたち。ほぼ不老不死と言える寿命を得たことばたちは言わば、ことばの生態系における神のごとき精霊のごときあるいは魔のごときものたちだ。奇跡的な確率で生き残ったことばの魔物たちはしかし、分母があまりにも大きいために、手に持て余すほど分厚い辞書に溢れるほど存在する。

こうして今ここに書き付けられている文章も、ほぼそういった魔物たちによって構成されている。

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わたしたちは、宇宙のサイズや寿命と、じぶんのそれを引き較べて、じぶんたちをちっぽけだと思いがちである。けれどもこころみに来年の夏休みにでも、宇宙の全域に均等に小学生を配置して絵日記を書かせたら、ほとんどすべての絵日記は「今日はなにもありませんでした」で始まり終わるだろう。

宇宙のあらゆる場所に、出来事と言いうるものはなく、事件もなく、まして物語はない。出来事は奇跡であり、事件は奇跡中の奇跡であり、物語は奇跡中の奇跡中の奇跡である。

生命が出来事を可能にし、知性が事件を可能にし、ことばが物語を可能にした。

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奇跡は超局所に集中して起こる。人生には奇跡しか起こらない。

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