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雪雪/醒めてみれば空耳

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2014-10-27 神聖試験再開

_ 書物の中で遭遇した出来事のなかには、現実の体験よりもしるく刻印され、それ以降の世界の眺めに痕跡を残す体験に出会うことがある。

荒巻義雄の、初期から中期にかけての幻想SFは、僕にとって原型的体験だった。

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荒巻的幻想の力は、読者の身ひとつを彼方に連れて行く飛翔力ではなく、彼方の世界を日常に引き摺り寄せる地質学的な、あるいは天体物理学的な力である。

僕はいる。ここにいる。温度があり、湿度があり、いきれという言葉であらわされような、立ち籠める環界のけはい。取り巻く体臭のある風景。しらじらとけぶる魅惑的な謎を伴って。

荒巻義雄の幻想は瑞々しくない。風雨にそがれ、陽光に退色し、使い込まれて角が丸くなった中古の幻想である。

読んでいるあいだその世界に棲み、本を閉じて現実に戻るときには、同程度にリアルな、もうひとつの幻想に入り込む気分になる。いきなり空気のにおいが変わる。

行ったことのある異境を増やしてくれる、というよりは、心の領土を広げてくれる力。

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荒巻義雄は達者なストーリィテラーとは言えないし、アクロバティックなプロットを駆使したりしない。人物は定型的で、文章は生硬。しかしその欠点がむしろ、独特の原型的な浸食力に資している。いつのどこのだれのものがたりでもあるかのように。

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あるいは、このように言えばいいのか。

長いこと帰らずにいたので、無意識の境界の向こうに沈んでしまった田舎に、知らず知らず帰るときのような。忘れてしまうほどひさびさなので、異境感さえ伴う懐かしさに捕らわれるような。懐かしさの新奇さに驚くことのような。

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異境だと思っていたら故郷だった。その泣きたくなるような愕然。

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そのような風情は、天沢退二郎に向かうときと、途中まで道順がおなじで、おなじ県ではないがおなじ地方という感じだ。

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特に『神聖代』の「神聖試験」の章、僕は雑誌『奇想天外』誌上で、そのときは『神生代』というタイトルだった連載の第1回として出会った。15歳だった。

それは僕の読書体験の中でもひとつの絶頂だった。小説というものはこれほどまでにおもしろいものかと思ったが、それは結局小説一般のおもしろさではなかった。「神聖試験」の方角を眺めやれば今も、その頂きは変わりなく屹立し、その視界を遮るものはない。

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受験生の脳裏に、その後二度と使う機会のない言葉が残るように、僕の頭の中にも残っている。神聖試験の痕跡が。

聖イジチュール暦、南方教典、クララ館、神聖将棋、ダルコダヒルコ、神人遺伝学、宇宙のタクラマカン沙漠、ニルヴァーナ航法。

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11月から『荒巻義雄メタSF全集』の刊行が始まる。収録作はほぼぜんぶ読んでいるけど、月報が欲しいから予約するしかないな。

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また誰かがどこかで、神聖試験を受け、時の葦舟に乗り、柔らかい時計を食べる。

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本日のコメント(全10件) [コメントを入れる]
_ 寝仔 (2014-11-02 01:16)

「神聖代」の単行本はボッシュの樹幹人間の絵が表紙なのですね。全集は買えそうにない……と指をくわえた結果古書を取り寄せました。銅色の部分が、みんな残っていたら素敵だっただろうなとか、カバーの下の装丁も好きだなとか(快楽の園を大判で見られるのは以前自分が買える範囲では古書店で見かけて買った『みすゞ』の綴じ込みくらいだったのですが、今は新人物往来社のビジュアル選書を持って、持っただけで安心して仕舞ってあります)インクの色が濃紺だ、とか読む前のところで楽しんでいます。 <br>初めて読む作家の作品を開く時にはいつも新鮮な喜びがあります。 <br>気持ちが去らないうちに、ながらでなく読もう、と思います。 <br>(ながら読みできない質ですが、音には過敏なので、できれば静かで落ち着ける場所にて)

_ 寝仔 (2014-11-02 14:51)

わー、みづゑ、でした!

_ 寝仔 (2014-11-06 00:28)

書くまでもないことなのかもしれないですが、今日、梨木香歩さんの本を偶々見ていて(読むともなしに)くららさんという人物の名前の由来の所で聖フランチェスコに仕えた聖キアラのクララ会の話がほんの少し出てきて、「クララ館」はこれから読むのですがどんなところなのかな、と気になり出しました。 <br>(そして聖フランチェスコと彼への信心を持つ人たちの裔と言えば『ラピスラズリ』『トビアス』が浮かびます) <br> <br>散漫に書き込みをしてはお勧めしていただいた本を読むことが後回しになっていました。今日図書館にて「バベル17」の触りを読みました。借りていた本を持って来忘れてしまい貸し出しできず、お取り置き一日をお願いして帰りましたが、読筋術、あの『気持ち』の伝わらなさのもどかしさ、「自分の言葉」で話すことの大切さ、etc...続きはまた読んでからにします。 <br> <br>帰りに寄った古書店で「かもめの叫び」を入手して(あと最近珍しく大好きな、アニメの記念ぴあを入手して幸せになりました)帰途につき、読書を……というところで眠気に追いつかれそうです。 <br> <br>天野可淡が早すぎる晩年に「人に愛されるよりも人を愛することのできる人形を」と言っていたそうです。エッセイにもありますね。 <br>私は高校生の時に修学旅行で浦上天主堂へ行った際に家族にロザリオを頼まれて、その時にあることがあってから時折四ツ谷の教会用品店などに行っていました。フランチェスコのものと言われるようになった「平和の祈り」と可淡さんのその言葉との共通点に気がついたのはその頃のことでした。 <br> <br>ボッシュ(ボス)つながりで、可淡さんの作品はホラーやSFとも親和性が高かったと思いますし、当時のその背景にシュルレアリスム、あるいはブルトンの(あるいは澁澤さんの)グノーシス主義の紹介辺りの影響(あるいはギーガーも含め)は全般に浸透と拡散していたのかもしれません。 <br>その中で様々な個性的な作品が生まれ今も呼び覚まされたる機会を得たものは残っているのだと思います。 <br> <br>専門に勉学をしたわけではなくまだ知らないことがたくさんあります。 <br>なんだか古書で買いましたなどと普通に書き込んでしまってどうなのか、とか自分でツッコミどころがたくさんあったのですが、続けての書き込み失礼します。 <br>今度はもう少しまとまってから参ります。 <br> <br>ほとんど更新とびとびの上私的ですが、私のブログです。ここ数年書き飛ばし文しか書かずに来たので少し落ち着いて新しく書いた文章を削ったり直したりして行こうと思っております。 <br>http://d.hatena.ne.jp/rose_anonym/ <br>長々失礼いたします。 <br>(ハンブリーさんも枕元です!)

_ (2014-11-09 20:25)

初めまして、雪雪さん。 <br>私は読書が大好きで、最近は奥歯さんの本に載っている、雪雪さんオススメの本をいろいろと読んでいます。 <br> <br>書店員さんと仲良くなってみたいのですが、話しかける勇気がなくて…。 <br> <br>これからも雪雪さんのホームページを見させて頂きますね。

_ 寝仔 (2014-11-27 14:51)

雪雪さん。 <br>ここともう一つ前の私のコメント消して下さい。 <br>考えてみるとありとあらゆる点で無神経だったような気もします。 <br>日記楽しみにしていますので、本のこと、自分のところで少し落ち着いて書こうと思います。

_ 寝仔 (2014-12-03 10:29)

雪雪さん。「バベル-17」第一部までを読みました。 <br>書き込み、消していただいたところで書いたことはなくならないので、やはりそのままにしてください。 <br>私は私の言葉を一度失いました。 <br>その時から別の「私」の言葉が立ち上がり、今も強く語り続けています。しかし、失った言葉は、今の私の沈黙の形をしています。 <br>またその言葉を信じてやることができるのか、触れることができるのか、今はわかりません。 <br>言葉という言葉さえ、角のきつすぎるなにも含むことのできないよそよそしいものに変わってしまいました。 <br>沈黙が言葉を拒否します、しかし私は書き続けています。 <br>どうしてこんな矛盾を、生きることができるのだろうと思いながら。 <br>たくさん書いてすみません。 <br>また立ち寄ります。

_ 寝仔 (2014-12-26 21:24)

雪雪さん。 <br>また脱線していてすみません。本を一つ置いて行きます。 <br>「環八イレギュラーズ」佐伯瑠伽(中央公論新社)

_ 雪雪 (2015-01-05 01:59)

葵さん、ようこそ! 長らく不在にしてほんとうに申し訳ありません! <br>明日なにしているかなにかんがえているかあてにならないわたくしですが、どうぞ仲良くしてください。 <br>

_ 雪雪 (2015-01-05 02:03)

寝仔さん! <br>ちょっと心が遠くを彷徨っているあいだに、いろいろ気を使わせてしまってごめんなさい。 <br>無神経だなんてちっとも感じませんので、本年もよろしくお願い申し上げます。

_ 寝仔 (2015-01-24 11:58)

ネタバレになりますのでこちらに。 <br>「環八イレギュラーズ」読み終わってしまったあとにまだ続きがあるような気がしてしばし寂しくなりました。 <br>頭の回転の速い子どもたちが自分達の力で事を成して行こうとする時の同調連鎖の力と、愛すべきボケ(デレ?)っぷりを読んでいて、木地さんの小説に出てくる子ども(若者)たちのユーモアあふれる活躍ぶりを連想しました。木地雅映子さんの小説には、物事を今まで言葉にされなかった場所からすっぱり斬るような明晰さも大きな魅力としてあるのですが、身体を持った思春期の子どもなのだよ、という身体に収まらない気持ちと気持ちで収まらない身体とがちゃんと描かれていることも同じくらい大きな魅力だと思います。 <br>この本を見つけたのはいつもながら街の本屋さんのおかげなのですが、p.110半ばまで読んだところで、よし、これは雪雪さんにお勧めしよう、と思いました。よい本という意味ではもうのっけから私好みの本だったのでウキウキしながら読んでいたのですが。 <br>読み終えて泰弘くんはどうなっちゃうんだろう、というのが気になるところでした。半日か一日くらい頭のすみでぼんやり考え続けて、刑事さんが「悪じゃない」ことを思うに、泰弘くんが喚子との同居で知ることができることがある程度増えたら、「サリーとアンの同居」を受け入れられる他の人たちへと移って行くのかな? と考えてとりあえず落ち着いたところです。 <br> <br>書いたような気になったり、書くのを迷ったり、していてだいぶ経ちましたが、雪雪さんは能う限り遠くを歩いているのも雪雪さんたる所以だと思いますので、便りがないのは元気の証拠とわかって良かったです。 <br> <br>私のほうこそ確認グセというか自意識というか、自己完結しやすい性質で呼び戻してしまってすみません。 <br>(でもあんまり反省はしてなくて、まだたくさん本を積んでいますのでまた書きに来ます) <br>(『バベル-17』は読み終えてから買いました。もう何回か読んで言語について考えてみたいです。幽霊の船員たちがお気に入りです) <br>ではまた伺います。