_ 人の内心というものは複雑であって、単一の感情で言い当てることはできない。
尊敬は敬遠を含みがちなものだし、愛情が安心に繋がり油断を生み愛情を示すたびに相手には軽視と受け取られてしまうこともある。余裕をもって示される優しさがどこか侮蔑に似ていたりもする。
人は自分の見たいものに鋭敏であり、察知するほどに検出に長け、ますます鋭敏になる。
基本的に不安な人は、自分を傷つけようとする力を警戒するから、習慣的にかすかな徴候を察知し続け、自分が見たくないものを見る力を磨いてしまう。たとえば侮蔑に鋭敏な人は、いかなる表情からも侮蔑を検知し得る。
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習慣によってカスタマイズされた誰かの世界観に対して、より妥当な、普遍的な世界観を示してみせても、説得力を持たない。傍から見て、歪んでいるように見える世界観も、本人にとっては錯覚ではないからだ。どのような世界観が歪んでいないかは、前提となる認知の傾向によって決まる。
よほど心が広い人を除いて、人がある世界観を選び取るとき、その世界観に相反する世界観に鈍感になる機制を伴う。とても鋭敏な人はなりゆき、別の領域でひどく鈍感なところがあるものだ。
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習慣は世界を変える。
しかし習慣によって身に付いたものは、別の習慣によって変えるほかない。脱しようとする習慣は習慣であるから一朝一夕には抜け出せない。望ましい習慣は習慣であるから一朝一夕には身に付かない。
習慣を変えようとするとき、自分自身に対しても説得は難しい。たとえば修行というものがおおむねそうであるように、理屈もなにもなく、ただ変えるしかない。
抜け出したい習慣の頻度を百度に一度、五十度に一度、ひいては十度に一度、少しづつ減らし、望ましい習慣を百度に一度、五十度に一度、ひいては十度に一度、実行してゆくしかない。そうこうするうちに旧い習慣の筋力が落ち、新しい習慣の筋力が勝れば、修行は画期的に楽になる。
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習慣さえも変えてしまうような一瞬の世界観の変転が、人を訪れることもある。しかしそれは稀な僥倖である。通常は、習慣の変化が世界観を変えるのである。あるいは、習慣の蓄積が、一瞬の変転を呼ぶ。チャンスとは、訪れれば掴めるものではなく、最低限その前髪を掴む握力がなくてはならない。
ごぶさたしております。超短編マッチ箱のタカスギです。そもそもぼくは習慣そのものを意識するのが苦手なようで、毎朝トイレの電気を消し忘れてしまいます。どのタイミングで忘れるのかがつかめない……。<br> ところで、超短編に関するメールを雪雪さんにさしあげたのですが、戻ってきてしまいました。おひまなおりにでもご連絡いただければうれしいです。
☆タカスギさんへ<br>あっ、すみません、こちらこそごぶさたしております。<br>忘れないでいていただいて、ありがたいことです。少々お待ちください。連絡します。
failiaGex <br>Melaopedo
Ya learn something new eveydray. It's true I guess!
Going to put this aritcle to good use now.