◆叢◆
今はまだくさむらであるもの。もっとも鋭敏である葉尖が、おおむね風に、かすかに焦燥に、震える。
くさむらが深くひとつ溜息をつく間に月は、満ち欠けながらいくたびも走り去った。地の底にます半眼の守り神が、千年かけてめざめるまでに森になれるだろうか。
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風に乗せて送り出す、祈りに似た種子。祈りという概念もいまだなく暦だけは知覚に刻まれてあり、ただ時が歩むことに運ばれる意図の、しかしやはりそれはどこかに届こうとして信仰の支援はひとかけらとてない戦いを、遂行するひたすら。おのれの意図さえ知らされぬまま。
月は天を、裂くいきおいで周回するも静粛。
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くさむらのかたわらで時は這い這い。まだ立って歩くことを知らない。
やがて森の息が風を取り替え世界を変えくさむらの末裔である神経叢が脳という森となり、しかして言葉を喚び出すまでは。
そうか、神経叢(シナプス?)って「くさむらの末裔」だったんだ……!そう想うといろんなイメージが湧いてきます。私も、自分の脳みそがさやさやと葉ずれの音を立てているのを感じることもあります。その森が凍てついて、樹々が震えることもできずに立ち竦んでいる、と自覚することさえあります。熱い潮風が容赦なく吹きつけて、森が余計なざわめきまで発することも……。<br>それでも、脳という森は言葉を喚起し、言葉を紡ぎ続ける、否やも応もなしに。<br>翻弄されているのは脳なのか、脳とは少しだけ別の「私という魂」なのか、そもそもそういう区別はできないのか、できるとしても無謀なのか……???<br>無謀を承知で、私は、「脳」と「魂(正確には「私という魂)」を峻別したいと想い続けています、難しいけれど。<br>この春以降、「脳の病(「こころの病)などとういう漠然とした言葉を私は遣いたくない)」を得て、やはり確信したことのひとつです。<br>実際には、なぜだか人間は、目ぬ見えぬものと目に見えるものとが分かちがたい仕方で(むしろ同じものの表裏として)在るのですから、峻別といっても、あくまで「理屈としては」ということです。<br>私はトマスを読みアウグスティヌスを読み、アビラのテレサや十字架のヨハネを読み(これらは原語で少しずつ)、そしてまた川上弘美を読みよしもとばななを読み、ガルシア=マルケスを読み、ヴァラも読み、それkらポルノグラフィもピンからキリまで(?)読み……それでも「同じ・一人の」私です。そうであることを奇蹟だと感じます。<br>生きていることにも死ぬことにも、本来「意味」はない。<br>それを「在る」と「無い」というように考えれば。<br>意味とは、いつだって、それをそうと感じる自分自身の中に、他ならぬ自分自身によって感じるところにしか生じない、辛うじて。