_ 5/24の「決心」を書いたとき、ディーン・R・クーンツ(現在の筆名はディーン・クーンツ)を思い出した。
.
最初に『ファントム』を読んだ。評判通りの王道エンターテインメントで、読んでいるあいだはたいへんどきどきした。なんだかひりひりしたものが残ったけれどかたちの定まらない印象で、それが「残った」と自覚したのはあといくつかの作品を読んでからだ。
『雷鳴の館』『邪教集団トワイライトの追撃』『トワイライト・アイズ』『ミッドナイト』。
ひどく魅きつけられた。ストーリィのおもしろさ以上に没頭した。『雷鳴の館』などは、ひどい状況のときに読んで、「この現実を、読んでいるあいだだけでも忘れさせてくれてありがとう」と言いたくなった。外づらはごく単純なジェットコースターノヴェルなのに、なにがこんなに身に迫ってくるのだろう?
読み重ねるほどに、ひりひりはかたちを成した。この人はおそらく子どもの頃に、心が壊れそうなくらい悲しい目にあったのだ。問題は、父親だろうと。
.
クーンツは結婚し子どもをつくるとき、「あの父親の遺伝子を残していいのか。そして自分はあの父親とちがう父親になれるのか」、そんなふうに苦悩したことを、その後知った。
彼にとって書くことはリハビリなのだ。主人公の陥る苛酷な状況と、取って付けたようなハッピーエンドはバランスを欠いて強迫的だ。それは「家族を守りたい。頼むから守らせてくれ」というクーンツ自身の願望の発露であり、読者に対する「どうか家族を守る人であってください」という抑え難いメッセージなのである。だからいつもおんなじなのだ。テクニカルな要請でないタブーを持つ彼は、巷間語られる職人作家の名に値しない。
.
クーンツは自分自身で承認できる父親になれたのだろうか。あるいは父の死が解放と転機をもたらしたのか。いずれにせよひりひりしたものは次第に薄らいでいった。それにつれ読まなくなったが、彼と彼の家族にとってはさいわいだと思う。
近作は説教臭があって・・・・、と知人に聞いたが、心の整理がついてかえって言いたいことが迷いなくナマのまま出てきているということかな。
.
.
(山田正紀のデビュー当初も、ひりひりしていた。不幸だったのかな、と思う。結婚したあたりから、作品の質は落ちていないのに、ひりひりしたものから芯がなくなった。世界に対するうらみつらみが衰えたのだろう。その頃から、全作品を刊行と同時に買う作家ではなくなったけれど、氏にとってはさいわいだと思う。結婚が原因かどうかは知らないけれど。)
.
.
クーンツでは、ひさびさに読み返したらどう思うか不安だが、『トワイライト・アイズ』の第一部が好きだ。月の光にえぐられるようで。あの締まらない第二部さえなければ、と言いたくなるところだが、相手がクーンツだけに許してしまう。
To be a noble benign being is to have a amiable of openness to the far-out, an ability to guardianship undeterminable things beyond your own manage, that can govern you to be shattered in uncommonly outermost circumstances for which you were not to blame. That says something exceedingly impressive thither the condition of the honest passion: that it is based on a trust in the fitful and on a willingness to be exposed; it's based on being more like a shop than like a sparkler, something somewhat dainty, but whose very particular attraction is inseparable from that fragility.