_ 詩集はたくさん刊行されているけど、あんまり売れないしレヴューされないし、情報を得ようとしても詩の雑誌はなかなか置いている書店が少ない上に、詩の雑誌じたいが高い。現物を当たるのがいちばんなのだがそもそも現代詩の詩集が置いてない。買う人がいないからだ。書く人はたくさんいるのになあ。
詩集はいっぱんに、高いし読むところが少ない。でもすてきな詩集は何度読んでも色褪せないし、楽に読み返すことができるのにたちまち心を特別な状態に変えてくれる。気に入った詩集が何冊か手許にあるのは心強いことである。
一冊(あるいは一編)が延々と長持ちするので、好きだ! と思った詩人でも出ている詩集をぜんぶ集めないと気がすまない、というふうにはなりにくい。そこが詩集の作品としての強さであり、商品としての弱さかもしれない。
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瀧克則は、『墓を数えた日』一冊しか持っていないけれど満足している。とは言え、書店の店頭で彼の別の詩集に出会い、手に取ってしまったら欲しくて欲しくてたまらなくなるに決まっているけれども、そういう気遣いはいらない。出会わないから。
この本は、小野十三郎賞を獲ったとき、表題作以下数編が雑誌に掲載されていて、それを読んで好きだと思ったが買うまでではなかった。その後いろいろなことがあって人間的に変化するにつれ思いだす頻度が増し、七年を経て「必要だ!」と思いついに注文した。すると品切れ重版予定無しの返事が来たが、「信じるな!」というお告げがあったのですぐさま再注文したら届いた。縁があったのである。表紙を封筒のようにカバーが包み込む凝った装丁になっていて、カバーは綺麗なのに中の表紙に破れがあった。普通ありえない。文句を言いたいのではなく、売り物になりそうにない在庫のなかから、可及的状態の良いものを組み合わせてくれたのだろう。ありがたいことである書肆山田さん。
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詩を薦めるのは難しい。現物より長ったらしく褒め言葉を並べるくらいなら現物を読んでもらうに及くはない。一編引用させていただきたい。
これ一編で、なにか書きたくなったり、どこかに行きたくなったり、誰かと会いたくなくなったりする力があると思うから、『墓を数えた日』が入手困難でも紹介する意味があると思うのだ。
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瀧克則
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いま、ここで私は椅子にこしかけ、外を吹き抜ける風の音を聞きながら、誰か見知らぬ人の些細な仕草を想いおこしている。人差し指を頬にあて、すうっとあごにすべらせるそのうごきが、どこか遠いところからおくられてきた信号のように思えてならない。
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昨日もやはりここにいて、風に揺れる草の葉の、深いうねりを想っていた、いっせいにしなる草の面が、風の姿をうつしていた。
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一年前、蝶がいっぴき迷い込んできた。子供達が夢中で追いかけたが、どこかへふと消えてしまった。
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三十年前、裸の建物がたっていた。雨上がりの風の日に、錆をバラバラと落としていた。西の空は赤く染まり、鉄の柱に夕焼けが染み込んでいた。
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百年前、ここには馬がつながれていた。ずっとむこうに海が見え、海のむこうで風が鳴り、馬はそれを聞いていた。
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五百年前、一面の草が生い茂っていた。草はただ風に揺れ、風はまっすぐに流れていた。
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千年前、雨が降っていて、蛙が一匹ぬれていた。
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一万年前、旅の家族が通り過ぎた。黙ったままで。
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十万年前、樹木のすきまから陽の光が差し込んでいた。静寂のなかでときおり鳥の声がひびいていた。
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百万年前、白い衣装を着たものが風を見ていた。人差し指を頬にあて、そうっとあごにすべらせた。土がかたまり、木や草が生えた。
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This is sort of an unintended consequence.