_ 博覧強記と呼ばれることにあこがれていたが、ときどきそう呼ばれるようになって満悦である。狭い人間関係の、内輪では物知りな方、というレベルでしかないが、褒められて伸びるタイプだから過分な褒め言葉も歓迎します。
「読むはしから忘れていく」と愚痴る人がいて、続いて「雪雪はどうしてそんなにいろんなことを憶えているのか?」と訊かれるのだが、私の記憶力はよくない。読むはしから忘れていく。あなたが百冊読んで一冊分頭に残るとすれば、そのあいだに私が千冊読んで十冊分頭に残る、ということだと思う。
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忘れてしまう読書も経験も無駄ではない。私達の体がもっぱら、想い出に残る特別な御馳走ではなく、日々の記憶に残らない食事でできているのとおなじことで、私達の心情や知能の主成分は忘れてしまったことである。忘れ難いことは、その人の抜粋か目次かヘッドコピーみたいなものだ。
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吸収したもの摂取したものは、たとえ記憶に残らなくても痕跡を残す。出会ったもの触れたものが私を、少しづつ変えてゆく。くだらないものを読めばそれは私を少しくだらなくしてくれるし、高尚なものを読めばそれは私を少し高尚にしてくれる。変わっていくうちにいつのまにか、高尚なものががらくたになり、くだらないものが高尚になったりもする。
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憶えていることができるほんの少しのことは、その人の道標である。自分にとっても他人にとっても。私は憶えていることで、自分を導く。忘れてしまったことの巨体を引き連れて。
なにを吸収するかはある程度選べる。なにを忘れてしまうかは(意識的には)選べない。だから、「このことは忘れまい」と心に決めて、ほんとうにそれを忘れずにいること。それが自由だ。そしてそれ以上に、忘れまいとは意識しないでおいて忘れてしまうこと、それも自由だ(そして忘れまいとはしていないのに憶えてしまう不自由が、世界の、あなたに対する自由だ)。