前の彼のことはチューリップを「チュリップ」と発音したことしか憶えていない。
今の彼はハンサムでいい匂いがする。
彼の家の匂いも私は好きだ。玄関を開ければ、私は嗅覚からセットアップされてしまう。鼻の奥にハートがあるみたいに。
昔のしきたりなんか知らないけれど、彼の物腰は古風だ。どんな仕草も百年繰り返してきたみたいに見える。彼は聴き取れない名前の白人の歌をプレイヤーにかける(ここで「レコードをかける」と言いたいがレコードは滅んだ)。私達はタンゴを踊る。ゆっくりと。
彼の家で電話が鳴ると、ベルの音は魚のように寝室に入ってくる。人間なんて見たこともないから警戒心もない魚のように。魚は窓から出て行こうとして硝子につかえる。窓の中と外に半分こになってぷるぷると震える。臭いはしない。
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「名前は?」と聞くと、「植物です」と答えるから、変わってるなと思った。
「顔色あおいね。気分悪いんじゃない?」「いえ、葉緑素ですから」
「そろそろ歩ける?」「もう少し。あと二億年くらいで」
二億年待つあいだ、いろいろな話をする。
「昼と夜のどっちが好き?」「最近の昼も夜も、あまり好きじゃないです」
「きっと君の好きじゃない昼と夜しか、ぼくは知らないんだろうな。一万日しか生きてないし」「とても好きな夜をひとつ憶えています。まだ付ける花の数が少なくて、いちりんいちりん名前を呼べるくらいおさない頃でしたが」
「君には名前らしい名前がないのに、花には名前が付くものなの?」「ええ、鳥や虫は、花や実や枝や葉陰と付き合うのであって、樹と付き合うわけではありませんから」
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