音楽家の娘、それも年端もいかぬ娘がにわかに、たおやかに歌いはじめる。教えた憶えはない、聞き憶えもない歌。音楽家は一瞬呼吸を忘れる。
歌は、しあわせでできた土埃のように立ち籠める。視界が霞み、音楽家は自分の頬が濡れているのに気付く。心が追いつくより早く、身体が反応している。歌は音楽家の内部でどんどん大きくなる。彼の身体を聖堂のように使って。「知らなかった。人間がこれほどの音楽を奏で得る楽器であったとは・・・」これまで自分のやってきたことは音楽などではなかったと感じる。音楽家はきっぱり音楽家をやめて、音楽家になる決意をする。「ありがとう。生涯これほどの感動を味わう機会はもはやあるまい」彼は声を震わせ、心よりわが娘に礼を言う。
娘は歌いながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの父の顔を見上げる。(自分が人間の父親ではないと気付いたら、次になにになろうとするのかしら、この人は)
父はいっぱいになっている。父の限界を計測して、発声から余分な力を抜く。だいぶ抜く必要がある。