ミクはレンゲが好物なので、乳がほんのり苦い。その苦味が、ぼくは好きだった。
空腹がおさまったので、ミクのおなかの下から這い出そうとすると、他の羊たちが寄り集まってきていて、羊の脚の林ごしに、遠くに広がる惑乱の曠野が見えた。
四つん這いで脚の林を抜け出す。吊り尾根から流れ下る草地のあちこちで、緑の空に浮かぶ羊雲のように散らばった羊たちが、のんびりと草を食んでいる。
一足先に食事を終えた父さんが、顎鬚の先から乳を滴らせながら立ち尽くしていた。ずっとむかし氷河が転がしてきて、飽きて置き去りにしていった、ごつごつした迷子石の上に突っ立っている。父さんの顔は、こちらを向いていたけれど、目は血走るくらい横目になって、動かない。惑乱の曠野を見ているのだ。
惑乱の曠野をじっと見詰めるのは、はしたないふるまいだった。誰もはっきりとは口に出して言わない。けれど、それは女の人の大事なところを覗き見ることは罪深いと、言われないうちから分かるのとおなじだった。それでも、ちらちらと見ずにはいられなくて、ときには釘付けになってしまう人もあった。今の父さんがそうだ。というより、息子の目など、気にする余所目の勘定に入っていないだけかもしれないが。
女の人も、惑乱の曠野を見るとき、おちんちんを見ているような気がするのだろうか?
「人は誰でも詩人になる」
父さんが前振りもなくつぶやきはじめる。
「詩人になる回数も、なっている時間も、人によってちがうが。書き留めるいとまもないほど短すぎた詩人に宿った詩が、踏み迷ってあつまるのかもしれない。惑乱の曠野に」
ぼくはつづきを待ったが、言い残すぐらいはあっても、書き残すほどはない詩人の時間は終わってしまい、父さんは、乳に濡れた鬚を口にもっていくと、ちゅうと音をたててすすった。
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ぼくのほうは、いまこうしてあのときのことを思い出しながら書き留めるくらいには詩人だから、父さんの跡を継ぐことはできないだろうと思う。
遠からず村を出ていく。見たいものから逸らすことができない視線のように、しきたりから逸れていくのだ。